グレイス・スリック(Grace Slick/出生名:Grace Barnett Wing/1939年10月30日~)は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、画家。ジェファーソン・エアプレイン、スターシップの元メンバー。

 

 

 

1939年10月30日、グレイス・バーネット・ウィングはアメリカ合衆国イリノイ州ハイランドパークで、ノルウェーとスウェーデンの子孫であるイワン・ウィルフォード(1907–1987)とバージニア(旧姓バーネット/1909–1983)のウィング夫妻の元に誕生。彼女の両親は、ワシントン大学の学生であった時に出会い、後に結婚した。1949年に、彼女の兄弟クリスが生まれた。ウィーデンアンドカンパニーの投資銀行部門で働いていた父親は、彼女が子どもの頃に何度か転勤し、シカゴの大都市圏や、カリフォルニア州ロサンゼルスとサンフランシスコに住んだ後、1950年代初頭にカリフォルニア州パロアルトに家族とともに定住した。

 

ウィングはパロアルト高校に通い、その後パロアルトの私立女子校カスティールジャスクールに転校した。地元の学校を卒業後、彼女は1957~1958年にニューヨーク市のフィンチ大学で、1958~1959年にコーラルゲーブルズのマイアミ大学で学んだ。

 

1961年8月26日、ウィングは映画製作者「ジェラルド "ジェリー"スリック」と結婚。その後、グレイス・スリックはIマグニン・デパートでモデルとして3年間働いた。彼女はまた、夫ジェリー・スリックによる短編映画への寄稿を含め、作曲を始めた。

 

1965年、グレイス・スリックは自身がヴォーカルとギターを担当し、夫のジェリー・スリック(Ds)、ジェリーの兄弟ダービー・スリック(リードG)、デビッド・マイナー(B)を伴い、「グレートソサエティ」(The Great Society)というグループを結成した。

10月15日、バンドはコーヒーギャラリーでデビュー公演を行い、グレイス・スリックが1時間で作曲したという“ホワイト・ラビット”等を演奏。サイケデリックスの幻覚効果を反映している同曲がライヴで演奏された時、バンドのフォロワーの間で即座に人気を獲得した。ダービー・スリックがサイケデリックスの方向に推し進めたバンドはベイエリアで人気を高めていった。

同年10~12月、何曲かを録音し、地元のAutumn Recordsの子会社レーベル「North Beach」から、“Free Advice”とダービー・スリックが書いた“Someone to Love”をB面に、シングルリリース。後者は“サムバディ・トゥ・ラブ”(Somebody To Love)の原曲である。なお、グレイス・スリックはヴォーカル、ギター、ピアノ、リコーダーを担当した。

 

 

1966年、グレイス・スリックは、サンフランシスコのバンド「ジェファーソン・エアプレイン」(Jefferson Airplane)に引き抜かれ、ヴォーカリストとして加入。同年ライヴで、そのカリスマ性を体現する強力な歌声を披露した。彼女の加入は、前年にアルバム『テイクス・オフ』(Jefferson Airplane Takes Off)でデビューするも全米アルバムチャート128位に終わったバンドに一大飛躍をもたらす。

 

1967年2月1日、彼女が最初に参加した2ndアルバム『シュールリアリスティック・ピロー』(Surrealistic Pillow)は、全米3位の大ヒットを記録。同アルバムから“ホワイト・ラビット”(White Rabbit)が全米8位、“サムバディ・トゥ・ラブ”(Somebody To Love/一時「あなただけを」の邦題がつけられた)が全米5位とシングルヒットが生まれ、"My Best Friend"も全米103位にチャートインした。

 

 

 

以降スリックは、バンド創設者でポップス/R&Rが持ち味のマーティ・バリン(Marty Balin) と、根っからのフォーキーであるポール・カントナー (Paul Kantner) と並んでバンド象徴する重要人物になり、常にエキセントリックな言動が注目を浴びるなど、女性ロックスターの草分け的存在となった。また、数々のアルバムで聴かれるピアノ演奏でも独特なセンスでバンドに大いに貢献した。

6月、モンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演によりジェファーソン・エアプレインの名は全米に広まった。この頃よりライヴ照明にリキッドライトを導入している。サイケデリックなイメージで語られることの多いエアプレインのイメージは、この頃の印象が強いため。

11月27日、3rdアルバム『After Bathing at Baxter's』をリリース。全米17位。シングルは、"The Ballad of You and Me and Pooneil"が全米42位に終わった。

 

その後、当時の大掛かりなフェスティバルにくまなく参加し、1967~1969年にかけて人気はピークに達した。ひたすら新しい音楽表現を追求したサイケデリアの時代が過ぎる。

 

1968年8月18日、4thアルバム『Crown of Creation』を発売、全米6位と持ち直すも、"Greasy Heart"が全米98位、タイトルトラック"Crown of Creation"が全米64位と、目立ったシングルヒットは生まれなかった。

 

 

 

1969年8月にウッドストックに出演する頃にはベトナム戦争が泥沼化、バンドは「反体制メッセージ」の代弁者としての存在感が増して行く。その中心は、政治的メッセージを発するカントナーと、カリスマ性が頂点に達したスリックに移っていた。また、演奏スタイルも1970年代に入る頃にはストレートで、ややハードなものに変化していった。

また、この頃からメンバー各自がバンド外での活動を活発化、カウコネンとキャサディは同年からブルーズ・デュオ「ホット・ツナ」(Hot Tuna)の原型をスタート。カントナーは、1970年に自己のプロジェクトユニット「Paul Kantner Jefferson Starship」名義でのアルバムを発表した。

11月2日、5thアルバム『Volunteers』をリリース、全米13位・全英34位。アルバムからタイトルトラック"Volunteers"がシングルリリース、全米65位を記録した。

 

 

 

1971年、バンド創設者のマーティ・バリンが音楽活動自体を見直すため脱退。

9月、RCAとの契約期間が終了したバンドは、自分達のインディペンデント・レーベル「GRUNT」を設立し、ミリオンセラーのアルバム『バーク』(Bark)を制作、全米11位・全英42位に達した。シングルは"Pretty as You Feel"が全米60位に到達した。

 

 

レーベルは他のアーティストとも契約して作品をリリースするなど、チャレンジを続けた。しかしこの時期、L.A.勢力の台頭など音楽シーンの新旧交代も影響してエアプレインとしての活動は停滞。カントナーはスリックのソロを含むプロジェクト作品を1973年までに更に3枚制作してスターシップのコンセプトを発展、ホット・ツナもアルバム制作を続けるなど、各々のソロ活動が本格的になり、外に向かって行った。

 

1972年、最後のツアーが行なわれた。

 

1973年、前年のライヴ盤がリリースされた。しかし、ホット・ツナの2人は完全にバンドを離れてしまい、ジェファーソン・エアプレインは正式に解散した。

 

 

1974年1月4日、スリックは1stソロアルバム『Manhole』をリリース、全米127位。プロモーション・ツアーをカントナー・プロジェクト(1970-1973)をベースにしたメンバーでサポートすることになった。

 

カントナー等はこのグループを正式に継続して活動することを決定、バンド名を「ジェファーソン・スターシップ」(Jefferson Starship)に決めた。メンバーは、ポール・カントナー(Vo,G)、グレイス・スリック(Vo,Pt)、ディヴィッド・フライバーグ(B,Key,Vo)、パパ・ジョン・クリーチ(Vl)、ジョン・バーベイタ(Ds)のエアプレイン最終組に、クレイグ・チャキーソ(G)、ピーター・カウコネン(B,G/ヨーマの実弟)が参加。この公演の後、ピーター・カウコネンがピート・シアーズ(B,Key)に交代、アルバム制作に取り掛かった。

9月1日、ジェファーソン・スターシップの1stアルバム『Dragon Fly』 を発表、全米11位を記録。

 

 

このように、ある時期を境に「ジェファーソン・エアプレイン」から「ジェファーソン・スターシップ」に単に改名されたのではなく、「エアプレイン」と「カントナーのスターシップ」が平行して活動、エアプレインの解散後にスターシップが改めてデビューしたのが実情だった。1stアルバムとライヴにはマーティ・バリンが早くもゲスト参加、彼の曲“Caroline”はFMで局でヘビーローテーションになる。

 

 

1975年6月13日、2ndアルバム『Red Octopus』を発売し、初の全米1位を獲得。本作からバリンがフルタイムで復帰し、彼の作品“ミラクルズ”(Miracles)が全米3位と大ヒット。

 

 

 

1976年6月、3rdアルバム『Spitfire』をリリース、全米3位。ジャケット右上に漢字で「星船」との文字が記されている。

 

7月24日、シングル"With Your Love"を発売し、全米12位。

 

 

1978年2月6日、4thアルバム『Earth』をリリース、全米5位を記録した。

 

3月、“カウント・オン・ミー”(Count On Me)が全米8位とヒット。

 

5月、“ランナウェイ”(Runaway)も全米12位のヒットとなった。

 

復活したバリン/スリック/カントナーのコーラスワークを新しいバンド・アンサンブルに載せ、一気にグループは人気を奪還。エアプレインとは大幅に異なる音楽を取り入れて1970年代ロックシーンのメインストリームに登場したが、この時期はメンバー自身が主導して掴んだ成功であった。1970年代のロックシーンで通用する音楽作りという面で、ピート・シアーズの作曲・編曲の手腕が大きく貢献し、カウコネンとは全く違ったコンテンポラリーなスタイルを持つクレイグ・チャキーソも演奏・作曲で活躍。4年余り続いたこのジェファーソン・スターシップの全盛期には、音楽的にバリンの存在感が大きくなり、エアプレイン結成以来ようやく彼の理想的なバンドが実現した時代だった。そして彼だけでなく、スリックの歌唱力や、エアプレイン以来のヴォーカル・ワークを活かした曲も数多く生まれ、4枚のアルバムが成功を収める。バンドとしての調和もとれた時期だった。

 

 

1978年、しかし、長らくバンドのシンボルであり続けたスリックが、精神的不安定から深刻なドラッグ中毒のトラブルを抱え一時脱退を余儀なくされる。

 

 

1980年3月18日、2ndソロアルバム『Dreams』をリリース、全米32位・全英28位。

 

 

 

1981年1月28日、3rdソロアルバム『Welcome to the Wrecking Ball!』をリリース、全米48位。

 

4月2日、スリックの脱退以降、ハードロック路線に方向転換した路線の延長線上にあるジェファーソン・スターシップの6thアルバム『Modern Times』にスリックがゲストとして参加。シングル“ストレンジャー”(Stranger)でリードヴォーカルを担当した。彼女はアルバム(LP)の裏表紙に「Introducing Grace Slick」というクレジットで記載されており、彼女の写真は「Grace Slick Courtesy of Grace Slick」という歌詞の袖に掲載された。

 

同年、彼女はツアーのために正式にバンドに復帰した。

同年、マーティー・バリンはソロとして“ハート悲しく”をヒットさせる。

 


1982年10月4日、スリックが復帰したアルバム『Winds Of Change』は、全米26位を記録。シングルは"Be My Lady"が全米28位、タイトルトラック“Winds Of Change”が全米38位だった。ヒットも出て、バンドは万全の体制に回復したかに見えた。

 

 

だが、1980年代初頭からレコード会社は、当時の主流になった産業ロック/スタジアム・ロック・スタイルのヒット曲を要求。そして、さらに急速に変化する音楽シーンはMTV全盛期に突入し、音楽ビジネスの先端は、ビジュアル戦略にも重きを置いたポップ・ソングに移って行った。こうした世の趨勢を受けて、より若いターゲットに向けてコンテンポラリーなMTV路線を志向するようになったミッキー・トーマス/クレイグ・チャキーソ/ドニー・ボールドウィン、それに対してシンセサイザー/コンピューターを多用しながらも従来通りのコアなロック・ファンにアピールしたいと考えるポール・カントナー/ピート・シアーズ/ディヴィッド・フライバーグの2派に別れ、最後の切り札を握るのがグレイス・スリックという構図になった。

この間、カントナーは13年ぶりにソロ・プロジェクトを再開、「Planet Earth Rock And Roll Orchestra」名義でのソロ・アルバム『Planet Earth Rock And Roll Orchestra』という、本来のジェファーソンサウンドが展開されている作品を発表した。

 

 

1984年1月30日、4thソロアルバム『Software』をリリース、全米206位。

 

5月30日、続くジェファーソン・スターシップのアルバム『Nuclear Furniture』では、当時最新のエレクトロ・ポップを大幅に導入。全米28位。

だが遂に本来のコンセプト・メーカーであったカントナーが突出してバンドと対立するようになる。

 

この時期はレコードセールスの要因もあって、特に日本では「スターシップ」についての情報しか入らず、長いジェファーソンの歴史で単に最後のバンドがスターシップだった、という認識が強い。しかし、1985年以降の数年間は、スリックやトーマスを看板とするスターシップと、カントナーを中心としたKBC/再結成エアプレインに分裂していた。

 

やがて、レコード会社やプロデューサーが求めるような、MTV時代に生き残るためのスタイルを受け入れようと考えたスリック/トーマスがバンドの方向性を握るようになる。バンドの変容は進み、あるライブでは女性バック・コーラスを配置する案まで出て、これにカントナーは激怒。また、結局実現しなかったが、当時勢いに乗っていたロックバンド「ジャーニー」の前座を務める話も出るなど、もはや主導権が取れなくなったカントナーは、もう1枚アルバムを制作した後に解散するという意思を表明するが、他メンバーは存続を要求。

 

 

1984年、結局カントナーが単独で脱退し、残ったメンバー達にバンド名「ジェファーソン・スターシップ」を使わないように訴訟を起こす。公判中、バンドは一時「スターシップ・ジェファーソン」と名乗って公演を続けたといい、事態の混乱を物語っている。

一方、カントナーは本来自分が目指してきた音楽をやるために、ソロ活動をしていたマーティ・バリンのライヴ同年に早くも共演する。

 

 

1985年の判決の結果、両者とも「ジェファーソン・スターシップ」を使えないことになり、折衷案として「ジェファーソン」を外して「スターシップ」(Starship)となったバンドは、新たにRCAとアルバム4枚制作の契約を結び再出発した。

対するカントナーとバリンは、SVT(Hot Tuna解散後ジャック・キャサディが結成)が解散していたジャック・キャサディを加えて同年、KBC(カントナー・バリン・キャサディ)BANDを結成。セールス的には振るわないながらも、カントナー/バリンの共作も復活してジェファーソンの正統な流れを汲む演奏を聴かせ、事実上のファミリー再結集としてライヴで人気を博してゆく。

8月1日、スターシップは当時先端のサウンドを全面的に採り入れ、マーティン・ペイジによる1stシングル“シスコはロックシティ”(We Built This City)をリリース、エアプレイン時代から通算してもバンド初のシングル全米1位(1985年11月16~23日付)を獲得、全英でも12位に入るヒットとなった。なお、同曲は邦題に「シスコ」と入っているが、特定の街を歌ったものではない。

 

この頃、エアプレイン以来果たせなかった日本公演も実現している。

こうしてスターシップは外部ライターの楽曲を中心に、完全にマーケティング主導で制作する「コーポレート・ロック体制」に変更、ファン層は入れ替わった。

9月10日、アルバム『Knee Deep in the Hoopla』をRCAからリリース、全米7位。


12月、“セーラ”(Sara)をリリース、1986年3月15日付で全米1位を獲得した。

 

 

1987年1月30日、ミッキー・トーマスとのデュエットを前面に押し出したシングル“愛はとまらない”

(Nothing's Gonna Stop Us Now)を発売、4月4~11日付で全米1位を獲得し、同年5月には全英1位を4週にわたりキープ。日本でもオリコン洋楽シングルチャートで同年4月20日付から3週連続1位を獲得した。ロマンティック・コメディ映画『マネキン』テーマ曲。本曲で当時、グレイス・スリック(47歳)は、アメリカ国内で第1位となったシングルレコードを歌った女性歌手としての最年長記録保持者となった。なお、この記録は1999年にシェールが52歳で“ビリーヴ”で塗り替えることとなる。

 

同年、シングル"It's Not Over ('Til It's Over)" をリリース、全米9位。

 

 

1988年、ジェファーソン・エアプレイン時代から在籍した最後のメンバーであるスリックだったが、年齢と音楽性の不一致を理由に、ライヴ活動からの引退を表明、そのままバンドから脱退する。中心メンバーがミッキー・トーマスとクレイグ・チャキーソだけになったスターシップは、メンバーを補充しながら活動を継続するが、思うようなヒットは出せなかった。

同年、一方のカントナーはKBC解散後、ヨーマ・カウコネン、ジャックキャサディとともに「Hot Tuna with Paul Kantner」としてツアーを行い、これが次の再編劇の幕開けとなる。ここに引退したはずのグレイス・スリックも加わり、エアプレインの4人が16年ぶりに顔を合わせた。

 

 

1989年にはマーティ・バリンも参加を承諾し、かつてのドラマーだったスペンサー・ドライデンを除く全盛期の5人で「ジェファーソン・エアプレイン」の再結成が実現した。これは、スリックを含むメンバーを集めてバンドでもうひと華咲かせようとカントナーが奔走して実現したリユニオンであり、決してレコード会社主導のイベントではなかった。これにより同1989年、「スターシップ」と「再結成ジェファーソン・エアプレイン」の2グループが併存する形になった。

 

このように1985年から1989年にかけては、かつての仲間同士が裁判沙汰になったり、再び手を組んだりという離合集散の動きが激しく、これに対して「産業ロック」のスターシップに残ったメンバーは激怒したといわれる。1989年のスターシップのアルバム『Love Among The Cannibals』は彼等を皮肉ったタイトルであるとトーマスはインタビューで語っていた。

 

同年のアルバム『Jefferson Airplane』は最高85位、シングル“Planes”、“Summer Of Love”はチャートインを果たせないながらも全米ツアーは成功を収めるが、その直後にまた活動停止した。ホット・ツナ再始動に向けてヨーマ・カウコネンとジャック・キャサディが再び脱退したことが直接の原因だったとされる。因みに、カントナーの初来日となるはずだった日本公演は中止になっている。

 

 

 

1990年、スターシップはとうとう解散を決めた。トーマス以外は全てスタジオミュージシャンを起用する事を要求する程に、レコード会社の管理と要求は熾烈化、大企業により「バンドの音楽性もミュージシャンのパーソナリティも破壊されてしまった」と、1974年の「ジェファーソン・スターシップ」デビューから在籍し続けた最後の一人であったチャキーソが後に語っている。

 

1990~1991年にかけて、カントナーはKBC BANDのキーボーディスト、ティム・ゴーマンと、ギタリスト、スリック・アギラーらとソロ・アコースティックユニット「Paul Kantner's Woodenship」を組み、全米でライヴ活動を行なった。

 

 

1992年、Paul Kantner's Woodenshipの3人に、ベースのジャック・キャサディ、フィドルのパパ・ジョン・クリーチ、新女性シンガーに地元シスコで活動していたダービー・グールドを加え、新生「ジェファーソン・スターシップ」(Jefferson Starship-The Next Generation)が結成された。

 

 

1993年、バリンも再合流し、1994年にはようやくの初来日(福岡・大阪・東京)を果たしている。

 

 

1995年、新生「ジェファーソン・スターシップ」が新曲を含むライヴCDを発表、スリックもゲスト参加した。

 

1998年、一部収録曲・ミックスの異なるスタジオ作品『Windows Of Heaven』にスリックもゲスト参加、ドイツ盤が先行リリース、アメリカ・日本盤は翌1999年に発表された。

 

 

1999年には2度目の東京公演も行なった。

 

 

2001年のステージにもスリックは登場しているが、原則的には音楽界からは引退して画家などの活動をしている。

 

 

2005年発売のDVD、ジェファーソン・エアプレインのアンソロジー・ドキュメンタリー『フライ~ジェファーソン・エアプレイン・ストーリー』内のインタビューでは「親はドイツからの移民一族、銀行家(または銀行員)の家庭に育った。メンバー達とは<一緒に寝た>がマーティ・バリンとは<関係>は無かった。親友か(肉親の)弟みたいな存在だった。」と述懐していた。なお、マーティ・バリン (Marty Balin)とポール・カントナー (Paul Kantner)の姓名はドイツ系の名字で、バンドの主導権を握った三人がほぼ偶然からドイツ系移民末裔だった。

 

 

2016年1月28日、創設メンバーのポール・カントナーと、初代女性ヴォーカルのシグニー・トリー・アンダーソンが、奇しくも同じ日に死去。

 

 

2018年、創設メンバーのマーティ・バリンが惜しくも死去。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「グレイス・スリック」「Grace Slick」「ジェファーソン・エアプレイン」「スターシップ (バンド)」