ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi/1813年10月10日~1901年1月27日)は、19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、農場経営者、慈善家。主にオペラを制作し、「オペラ王」の異名を持つ。

 

 

 

1813年10月10日、ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディは、エメリア=ロマーニャ州パルマ県ブーセットから南東約5kmの小村レ・ロンコーレ(Le Roncole)にて貧しいながらも宿屋と食料品店を営む父カルロ・ジュゼッペ・ヴェルディ(1785~1867年)と、紡績女工として働く母ルイジア・ウッティーニ・ヴェルディ(1787~1851年)の共働き夫婦に、第一子として誕生、後に妹が一人生まれる。なお、先祖は300年の間、エメリア=ロマーニャ州ピアチェンツァ県ヴィッラノヴァ・スッラルダのサンターガタに住んでいたという。

 

7歳で地元サン・ミケーレ教会のミサの侍童となり、パイプオルガンのふいごを押す職に就く。

 

8歳の時、誕生祝に中古のスピネット(卓上型の小さななハープシコード)を買ってもらい熱中して弾いたが、やがて教会のオルガニストのP・バイストロッキにオルガンと音楽の初歩を学び始める。その後、教会のパイプオルガン演奏を任せられる程に上達し評判となる。

 

父カルロの取引先で音楽好きの裕福な実業家アントニオ・バレッツィの助言もあり、両親は息子の才能を伸ばすため、 上級学校へさせようと考える。そのための準備としてジュゼッペは、ひとりブーセットに移住し ラテン語やギリシャ・ラテン古典文学を学ぶ。

 

1823年、上級学校に入学。

10歳の時、サン・ミケーレ教会のオルガニストに任命され、日曜日はミケール教会でオルガンを弾くためブーセットから徒歩で家との間を往復し続けるようになる。

 

2年後、ブーセットのバルトロメオ教会楽長兼ブーセット音楽学校長のF・プロヴェジが音楽学校の講義を聴講できるように便宜を図ってくれた。このおかげでヴェルディは、音楽の基礎を身につけることができた。

 

13歳の時、ロンコーレの公開演奏会に代理出演し、自作曲を演奏。大成功を収めて地元での評価が高まり、その評判は広く伝わった。

 

1831年、学業を終えるとジュゼッペ・ヴェルディはバレッツィの自宅に引き取られ、援助を受けてミラノ音楽院を受験する。だが試験は失敗に終わる。

ミラノに行きピエトロ・マッシーニの指揮するアマチュア合唱団Societa Fiilamonicaを紹介され、ここでロッシーニのオペラのリハーサル・ディレクターやピアノ 伴奏を務める機会を得て、貴重な経験をすることになる。

 

1832年、ミラノ音楽院教師でスカラ座の作曲や演奏を担当しているヴィンチェンツォ・ラヴィーニャから対位法、フーガを学び始める。彼はヴェルディの才能を認め、各種類の作曲の指導、多くの演劇の鑑賞を勧める。ラヴィーニャのヴェルディに対する信頼は増してゆき、ある時スカラ座のリハーサルの見学最中に、副指揮者が遅れたことがあったが、ヴェルディが臨時にピアノ伴奏に駆り出されることもあったという。

 

 

1833年、歌曲“私は彼女に会った” (Io la vidi, scena lirica/作詞:C.バッシ)を発表。

 

 

1836年2月、恩師のプロヴェジが亡くなるとバレッツィに呼び戻され、バルトロメオ教会楽長に就任する。ヴェルディを呼び戻したのは、公私に渡り援助を受けたバレッツィだった。

同5月、バレッツィの娘マルゲリータと結婚。

 

1837年3月に長女ヴィルジーニアが誕生。

 

1838年には長男イチリオが誕生する。

同年、歌曲集『六つのロマンス』が出版されたが、同じ頃ヴィルジーニアが高熱を出して死去。

 

この後、ミラノに居を移したヴェルディは、つてを頼って書き上げた自身初のオペラ作品『オベルト』をミラノのスカラ座支配人メレッリに届ける。

 

 

1839年11月17日、オペラ『オベルト』がスカラ座で上演され大成功。メレッリは新作の契約をヴェルディと結び、今後2年間に3本の製作を約束させた。

 

そんな最中、長男イチリオも高熱を出して死去した。

 

 

1840年6月18日、妻のマルゲリータが骨髄炎で死去。

短期間の間に妻子をすべて失い悲しみと失意のどん底を味わったヴェルディは気力が萎え、メレッリに契約破棄を申し入れたが拒否され、呆然としたまま『一日だけの王様』を仕上げた。

9月5日、スカラ座の『一日だけの王様』初演では散々な評価を下され、公演は中断された。

ヴェルディは打ちひしがれて閉じこもり、もう音楽から身を引こうと考えた。

 

年末も押し迫ったある日の夕方、街中で偶然出くわしたメレッリはヴェルディを強引に事務所に連れ、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を押し付けた。もうやる気の無いヴェルディは帰宅し台本を放り出したが、開いたページの台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って 」(Va, pensiero, sull'ali dorate)が眼に入り、再び音楽への意欲を取り戻した。


 

1842年3月9日、オペラ『ナブッコ』がスカラ座で初演、ナブッコと奴隷との間に生まれたアビガイッレ役はソプラノ歌手のジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1815年9月8日~1897年11月14日)が務め、このオペラは決定的な大成功を収める。特に第2幕の合唱曲“行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って ”(Va, pensiero, sull'ali dorate)は、先のエピソードとも相まって、非常に人気が高い。なお、ジュゼッピーナはヴェルディの良き理解者であり、後年深い関係になった。

 

 

 

1843年2月、オペラ『十字軍のロンバルディア人』の初演も大成功を収める。

 

 

1846年、レコアロ温泉で治療中に死亡説や毒殺説が流される。

 

 

1847年3月、シェイクスピアの戯曲をオペラ化した『マクベス』初演。

この頃、マルゲリータとの死別後ずっと独身を通していたヴェルディだったが、早くに引退してパリに移り住んでいたジュゼッピーナと現地に立ち寄り再会、その後は頻繁に会うようになり、間もなく同棲を始める。だが、ジュゼッピーナは当時スカラ座支配人だったメレッリの愛人だったため、それを奪う形になったヴェルディは、スカラ座での公演から長く遠ざかることになる。

7月、初めてイギリス公演に向けて書かれた『群盗』がヴィクトリア女王も観劇する中で開演。

 

 

1851年3月、オペラ『リゴレット』を初演。ヴェルディにとって中期の代表作となった。第3幕の

“女は気まぐれ”(または“女心の歌”/La donna è mobile)がよく知られている。

 

 

春頃に、以前買い求めた先祖の地、サンターガタの農場に移住。

6月、母が死去。

 

 

1852年、ジュゼッピーナとの逢瀬のためパリに滞在したヴェルディはデュマ・フィスの戯曲版『椿姫』の上演を観て感激。当時新作の作曲依頼を受けていたヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために、翌1853年初めに比較的短時間でオペラ『椿姫』を作曲した。

 

 

1853年1月、オペラ『イル・トロヴァトーレ』がローマのアポロ劇場で初演を迎える。

 

同年3月6日、オペラ『椿姫』がフェニーチェ劇場で公演されたが、準備不足(作品の完成から初演まで数週間しかなかった)などから、初演では聴衆からも批評家からもブーイングを浴び、歴史的大失敗を喫した。だが、翌年の同地での再演では入念なリハーサルを重ねた結果、聴衆に受け入れられた。その後も上演を重ねる毎に人気を呼び、今日ではヴェルディの代表作となり、世界のオペラ劇場の中でも最も上演回数が多い作品の一つに数えられる。

 

 

 

 

1859年2月、オペラ『仮面舞踏会』初演。

 

8月29日、ジュゼッピーナとサヴォアで結婚式を挙げる。新郎45歳、新婦43歳で行われた式は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけが参列した、実に簡単で質素なものだったという。

 

 

1861年、イタリア統一戦争が終結すると、多額の税金を納めているヴェルディはイタリア国会の下院議員に乞われて立候補し、当選する。

 

 

1862年2月、ロンドン万博用の作曲を依頼され、“諸国民の賛歌”を作曲。

 

11月10日、オペラ『運命の力』をペテルブルク・帝室歌劇場にて初演。
 

 

その後はサンターガタ農場で農場経営に励み、音楽とはしばらく遠ざかる。

 

 

1865年、オペラ『マクベス』改訂版を初演。

 

 

1867年3月、オペラ『ドン・カルロ』が初演を迎えるが、こちらも失敗。 

 

 

1868年2月、父カルロが死去。

半年後、今度は「もうひとりの父」であるアントーニオ・バレッツィを看取った。

この頃ヴェルディは、当時最も有名なオペラ指揮者で友人でもあっでアンジェロ・マリアーニの婚約者であるソプラノ歌手、テレーザ・シュトルツ(1834年~1902年)と会うようになる。シュトルツはヴェルディの20歳以上も年下である。

 

 

1869年2月27日、オペラ『運命の力』に序曲を挿入するなどした改定版をスカラ座で初演、成功を収める。序曲もそれ自体有名で、単独での演奏機会も多い。指揮者はマリアーニで、カラトラーヴァ侯爵の娘ドンナ・レオノーラ役はシュトルツが務めた。だが、公演の成功に反して、その後マリアーニはヴェルディと仲を違い、イタリアにおけるヴァーグナー作品紹介の主導者となる。その原因は、本作の準備段階でシュトルツとヴェルディの仲が深まっていったためとされ、マリアー二はシュトルツとの関係も解消した。

 

 

 

1871年12月24日、エジプトのカイロ劇場(現:カイロ・オペラハウス)にて、ジョヴァンニ・ボッテジーニの指揮により、オペラ『アイーダ』が初演。

 

 

1872年2月、『アイーダ』がスカラ座で初演、大喝采を浴びる。“凱旋行進曲”は後にサッカーの応援歌として広く親しまれるようになり、特に自身の故郷のクラブで中田英寿が在籍していたことで日本でも知られるパルマ(Parma Calcio 1913)や、サッカー日本代表で有名。

 

 

 

1874年5月22日、イタリアの文豪アレッサンドロ・マンゾーニを追悼する目的で作曲されたカトリックのミサ曲“レクイエム”(原題:Messa da Requiem per l'anniversario della morte di Manzoni/「マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム」)が、マンゾーニの一周忌にあたるこの日、ミラノのサン・マルコ教会で初演された。

 

 

1877年、慢性気管支炎を患い、モンテカルロで治療する。

 

 

1884年、オペラ『ドン・カルロ』改訂版が上演され、好評に終わる。

 

 

 

1887年2月、シェイクスピア作『オセロ』のオペラ化作品『オテロ』がミラノ・スカラ座にて初演を迎えた。この時、後に指揮者となるトスカニーニがチェロ奏者として演奏している。なお、“アヴェ・マリア”はグノーやシューベルトにより作曲された同名異曲の作品が広く知られているが、ヴェルディも本オペラなどで“アヴェ・マリア”の作曲を手掛けている。

 

 

1891~92年の冬にかけインフルエンザに罹り、心臓障害を起こす。

 

 

1893年2月、オペラ喜劇『ファルスタッフ』が初演、ヴェルディは齢79歳にして新作を世に送り出した。

 

 

1897年11月14日、妻のジュゼッピーナが肺炎で死去。

 

 

1900年4月頃、ジュゼッピーナを亡くしてから弱っていたヴェルディは、自らの老いを感じ取って、遺書を用意した。

 

 

1901年1月20日朝、定宿のグランドホテル・エ・デ・ミランにて起きぬけのヴェルディは脳血管障害を起こして倒れ、意識を失った。左脳内包部の大出血のため右半身麻痺を起こし、王族や政治家、ファンなどから心配されたが、回復を願った数多くの人々の祈りは届かなかった。

 

1901年1月27日午前2時45分頃、偉大な作曲家ジュゼッペ・ヴェルディが逝去。87歳だった。

 

同日朝、棺がホテルを出発して向かったのは、ヴェルディ自身が私財を投じて音楽家のために建立し、数多の名曲を差し置いて「自分の最高傑作」と公言して憚らなかった「憩いの家」だった。ヴェルディは、ジュゼッピーナが眠る礼拝堂に葬られた。出棺時にはアルトゥーロ・トスカニーニが指揮し820人の歌手が“行け、わが想いよ”を歌った。遺言では簡素な式を望んでいたが、意に反して1ヶ月後には壮大な国葬が行われ、トスカニーニ指揮の下、『イル・トロヴァトーレ』から“ミゼレーレ”(Miserere)」が歌われた。

 

 

ヴェルディの墓には、最初の妻マルゲリータの墓標と二人目の妻ジュゼッピーナが沿い、翌1902年に後を追うように亡くなったシュトルツの墓は控えめに入り口バルコニーにあるという。

 

 

 

なお、オペラは上演時間が長いため、どうしても視聴に際しては構えてしまうことが多い。そうした向きには、こんなアリア(伊:Aria/「音楽の節・旋律」の意で、オペラなどの中での独唱を指す)集が手軽かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジュゼッペ・ヴェルディ」「Giuseppe Verdi」