ハンク・ウィリアムズ(Hank Williams/本名:Hiram King Williams/1923年9月17日~1953年1月1日)は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、音楽家。

 

 

 

1923年9月17日、ハイラム・キング・ウィリアムズは、アメリカ合衆国アラバマ州ジョージアナで母ジェシー・リリーベル「リリー」(旧姓スキッパー)と父イロンゾ・ウィリアムズ(Elonzo Williams)の間に3番目の子どもとして生まれる。両親はともにフリーメーソンの信奉者だったので、「ヒラムI」(Hiram I)に因んで名付けられた。だが彼の名前は、10歳の時に作成・署名された出生証明書で「ヒリアム」(Hiriam)と間違って綴られていた。

 

鉄道会社の技術者だった父の頻繁な異動に伴い、一家は同州南部の数カ所を転居した。

その父が病気で入院することになり、8年間もの間、残された家族は自活を余儀なくされた。

幼い彼は、二分脊椎症のために健康を害していたが、下宿を営み数々の副業をこなして家族を養う母と姉の手伝いをした。

 

同州ジョージアナ(Georgiana)に住んでいた時、彼は「ルーファス・"ティー=トット"・ペイン」(Rufus "Tee-Tot" Payne)というアフリカ系の大道芸人に出会い、食事の提供と交換にギターを習った。基本的な音楽スタイルはブルーズに根差していたペインは、ハンクにコード、コード進行、ベースターン、そして将来のハンク・ウィリアムズが作詞作曲のほとんどで使用する伴奏の音楽スタイルを教えた。彼の音楽はジミー・ロジャーズ、ムーン・マリカン、ロイ・エイカフ等の影響も受けているが、ペインの影響は特に大きく、後にペインを唯一の師と認めている。

1937年7月、同州モンゴメリー(Montgomery)に移住した際、非公式にだが名前をハイラムからハンク(Hank)へと改めた。その方がカントリー音楽らしいと思ったのである。

同年、エンパイアシアターでのタレントショーに参加。ハンクは初のオリジナル曲“WPAブルーズ”(WPA Blues)を歌い、見事最優秀賞を獲得、15ドル(2020年の300米ドルに相当)の賞金を手にした。同曲でハンクは歌詞を書き、ライリー・パケットの“Dissatisfied”の曲を使用した。

この頃、ティーンエイジになっていたハンクは、地元ラジオ局WSFAのスタジオ前の歩道で、ギターを弾きながら歌うようになる。首尾よくWSFAのプロデューサーたちの関心を引くことができたハンクは、同1937年から、15分番組で週2回、週給15ドルのギャラで、歌と司会を務めるようになる。このためバックバンド「ザ・ドリフティング・カウボーイズ」(the Drifting Cowboys)を結成、州の中南部を演奏旅行するまでになったバンドのマネジメントは母リリーが受け持った。

 

 

1939年10月、ハンクは学校を辞め、音楽の仕事に専念するようになった。おかげでバンドとともに隣のジョージア州やフロリダ州にまで演奏のため足を延ばし、開演前の映画館や、後にホンキートンクで演奏するようになった。

だが、ツアーの最中、後年まで彼を苦しめることになるアルコールとの関係が生じ始める。

 

 

1941年、第二次世界大戦に合衆国が参戦すると、バンドのメンバーの数人が徴兵されてしまう。二分脊椎症のために徴兵されなかったハンクは、代わりのメンバー探しに難儀した。このことと、健康状態に自分なりに対処しようとして飲み続ける酒の問題が大きくなり、やがてWSFAはハンクを解雇した。

 

 

1943年、アラバマ州バンクスで開催されたメディシン・ショーでハンクはオードリー・シェパード(Audrey Sheppard)と出会う。ともにモンゴメリーに引っ越して一緒にバンドを始め、オードリーはステージでハンクとデュエットで歌うとともに、彼のラジオ復帰の後押しをしたいと言った。

 

 

1944年12月15日、二人はアラバマ州アンダルシア結婚し、二度目の結婚となったオードリーはマネージャー役を果たすようになった。

ハンクはスターリング・レコード(Sterling Records)から“Never Again”と“Honky Tonkin'”を出した後、MGMレコード(MGM Records)と契約を結んだ。

 

 

 

1947年6月、ハンクは“Move it on Over”をリリースし、米誌『ビルボード』の「U.S. Billboard Most Played Juke Box Folk Records」チャート(以下「カントリー」)で4位に入るヒットとなった。

 

この年、当時ラジオ番組だった『ルイジアナ・ヘイライド』に出演するようになった。

 

 

1949年、“Lovesick Blues”をリリース、1922年にElsie Clark 、次いで同年、Jack Sheaによって発表された同曲をハンクがカヴァーし、『ビルボード』の総合シングルチャート「Hot 100」(以下「全米」)に24位でチャートイン。これによってハンクは音楽界の主流の仲間入りをする。

 

同年、"Wedding Bells"、"My Bucket's Got A Hole In It"、"I'm So Lonesome I Could Cry"がいずれもカントリー2位、"You're Gonna Change (Or I'm Gonna Leave)"が同4位、"Mind Your Own Business"が同5位に次々と入った。

 

 

 

やがて、最初は断られた『グランド・オール・オプリ』への出演も実現した。

同年5月26日、後にハンク・ウィリアムズ・ジュニアとして名声を得る息子ランドール・ハンク・ウィリアムズが誕生。

 

 

1950年、"Long Gone Lonesome Blues"をリリース、カントリー&ウェスタン・チャート(以下「カントリー」)1位に達した。さらに同年、"Why Don't You Love Me"、"Moanin' The Blues"もカントリー1位に達した。

 

 

 

 

1951年、"Cold, Cold Heart"、"Hey Good Lookin'"がカントリー1位、"I Can't Help It (If I'm Still In Love With You)"が2位、"Howlin' At The Moon"が3位、"Crazy Heart"、"Baby, We're Really In Love"がそれぞれ4位となった。

 

 

11月9日、アルバム『Hank Williams Sings』をMGM Recordsからリリース。

※『Hank Williams Sings』を含めた複数アルバムのカップリングCD。

 

 

 

1952年5月29日、ハンクはオードリーと離婚した。

6月19日、自作の"ジャンバラヤ"(Jambalaya [On the Bayou])をシングルとしてリリース、カントリー1位に達しただけでなく、全米20位を記録する大ヒットとなった。同曲は後年、カーペンターズなど多くのアーティストによってカヴァーされた。

 

この年は他にも、"I'll Never Get Out Of This World Alive"もカントリー1位となり、 "Honky Tonk Blues"、"Half As Much"、"Settin' The Woods On Fire"が各々カントリー2位に達した。

 

 

 

 

ハンクは、思わしくない背中の状態に由来する痛みを和らげるため、アルコールやモルヒネをはじめ、様々な鎮痛剤を服用していたが、1952年には、それが私生活でも、職業生活においても問題を引き起こすようになっていた。ハンクは、何度も深酒で酩酊し、そのために離婚し、『グランド・オール・オプリ』から解雇された。


 

 

1953年1月1日、コンサートへ赴く途中、ハンクは医師にビタミンB12とモルヒネの混合液を注射してもらったが、既にアルコールと抱水クロラールを摂取していたこともあって、致命的な心臓発作に見舞われ死亡した。まだ29歳と、余りに短い人生であった。

同年、"Kaw-Liga"、"Your Cheatin' Heart"、"Take These Chains From My Heart"の3曲がカントリー1位、"I Won't Be Home No More"がカントリー4位、"Weary Blues from Waitin'"がカントリー7位を記録した。

 

 

 

 

ハンク・ウィリアムズはカントリー音楽に多大な影響を残した。  ハンク・ウィリアムズの曲は、他の数多くの歌手たちによっても録音され、ポップ、ゴスペル、ブルーズ、ロックなど様々なスタイルでヒットした曲も多かった。

 

ハンクの曲をカヴァーした歌手たちの例としては、ウィリー・ネルソン、タウンズ・ヴァン・ザント(Townes Van Zandt)、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、ケイク、ケニー・ランキン(Kenny Rankin)、ベック・ハンセン、ジョニー・キャッシュ、トニー・ベネット、ザ・レジデンツ、パッツィ・クライン、レイ・チャールズ、ルイ・アームストロング、トム・ウェイツなどが挙げられる。

 

 

1976年、ライヴアルバム『Hank Williams, Sr. / Live at the Grand Ole Opry』をリリース、カントリーアルバムチャート13位に入り、全米アルバムチャート「Billboard 200」でも27位に達した。

 

 

1987年、ウィリアムズはアーリー・インフルエンス部門で、ロックの殿堂入りを果たした。

 

 

1989年、グラミー賞の「ベスト・カントリー・コラボレーション(ヴォーカル)」 (Best Country Vocal Collaboration)を息子のハンク・ウィリアムズ・ジュニアとともに受賞。

 

 

2002年、ベストアルバム『The Ultimate Collection』がMercury Recordsからリリース、カントリー・アルバムチャートで32位。

 

 

2003年、カントリー・ミュージック・テレビジョン(CMT)が選定した「カントリー音楽で最も偉大な40人」では、この年に亡くなったジョニー・キャッシュに次いで、第2位となった。

 

 

2011年、ハンクが1949年にMGMレコードから出しチャート首位となった“Lovesick Blues”が、グラミーの殿堂(the Recording Academy Grammy Hall Of Fame)入りとなった。

 

 

2023年9月17日、生誕100周年を迎える。

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ハンク・ウィリアムズ」「Hank Williams」