トミー・ショウ (Tommy Shaw/出生名:Tommy Roland Shaw/1953年9月11日~) は、

アメリカ合衆国出身のロック・ギタリスト、シンガーソングライター。「スティクス」、「ダム・ヤンキース」、「ショウ・ブレイズ」などで活動。

 

 

 

1953年9月11日、トミー・ローランド・ショウは、アメリカ合衆国の南部アラバマ州モンゴメリー(Montgomery, Alabama)で生まれる。

 

いくつかのローカル・バンドでプレイした後、ロバートE.リー高校に通って「スモーク・リング」 (The Smoke Ring) に加入。

その後、モンゴメリーを離れて「MSファンク」(MS FUNK)というバンドでシカゴを拠点に精力的に活動した。3年ほどプレイした頃、バンドはマネジメントの計らいにより、ツアーでシカゴを訪れた「スティクス」(Styx)と対面する機会を得る。やがてMSファンクが解散し、故郷モンゴメリーに戻ったショウは、再び地元の仲間とローカル・バンドでのプレイに明けくれた。

 

1975年、スティクスのギタリスト兼シンガーであったジョン・クルレウスキ(John Curulewski)がワールド・ツアーの直前になってグループを脱退。バンドは大急ぎで後任を探すことになる。毎日地元のボウリング場で演奏していたショウは、スティクスのメンバーがシカゴでの対面を覚えていたこと、MSファンクでのプレイを高く評価していたこともあり、スティクス側に白羽の矢を立てられて呼び出しを受け、形式的なオーディションを経て即、正式に採用された。

この時のスティックスのラインナップは、デニス・デ・ヤング (Dennis De Young/Vo,Key) 、ジョン・パノッツォ (John Panozzo/Ds)、チャック・パノッツォ (Chuck Panozzo/B)、ジェイムズ・ヤング (James "J.Y." Young/G)、そしてトミー・ショウ (Tommy Shaw/G,Vo)となった。

 

 

1976年10月、ショウの加入後に初めてリリースされたのが6thアルバム『クリスタル・ボール』(Crystal Ball)で、全米66位に達した。アルバム・タイトルはショウの発案によるもの。また、ショウが作曲したナンバー “Mademoiselle”、“Shooz”を収録、“Mademoiselle”はシングルカットされ、全米36位のヒットとなった。

 

 

 

 

1977年7月7日、7thアルバム『グランド・イリュージョン - 大いなる幻影』(The Grand Illusion)が全米6位に輝き、グループは一気にブレイク。アルバムはプラチナ認定を獲得し、シングル"Come Sail Away"が全米8位になった他、ショウ作の“Fooling Yourself (The Angry Young Man)”が全米29位にチャートインした上、ラジオでヘヴィ・ローテーションとなった。

 

 

 

 

1978年9月1日リリースの通算8枚目アルバム『ピーシズ・オブ・エイト - 古代への追想』(Piece Of Eight)も前作に引き続き全米6位にチャート・イン。このアルバムでショウの作曲家、アレンジャーとしての才能が一気に開花、ロック色の強い“Renegade”が全米16位、“Blue Collar Man”が全米21位のメジャー・ヒットとなった。

 

 

 

 

1979年10月19日にリリースされた9thアルバム『コーナーストーン』(Cornerstone)が全米2位、シンガー兼キーボーディストのデニス・デ・ヤングの作品でシングルカットされたバラード“ベイブ”(Babe)は全米1位・全英6位に輝き、スティクスは成功を手にする。しかし、欧米の音楽メディアからはコーポレート・ロック、日本では産業ロックなどと批評もされた。ショウともう一人のギタリスト、ジェイムス・ヤングがバンドにロック的なサウンドを与え続けたが、スティクスをラジオ向けのポップ・バンドにしたいデニスと徐々に溝ができ始める。これがひとつの原因となり、デニスは一時的にバンドを解雇(すぐに復帰)。だが、ショウはバンド内の混乱に嫌気が差す。

 

 

こうして迎える1980年代はスティクスにとって、商業的に大成功を収める飛躍の時代となったが、一方で衰退の始まりでもあった。

 

 

1981年1月19日、コンセプト・アルバム『パラダイス・シアター』(Paradise Theatre)をリリース、同年4月と5月にBillboard 200で合計3週間1位を記録した。現在までスティクス唯一の全米1位を獲得したアルバムであり、またバンド4枚目となるトリプルプラチナ認定を得た、通算10枚目にしてスティクスの最も成功したアルバムとなった。アルバムからのシングルは、デニス作の "ザ・ベスト・オブ・タイムズ"(The Best of Times)が全米3位、ショウが作った"時は流れて" (Too Much Time on My Hands)が全米9位、デニス、ショウ、ジェイムズの共作“ロッキン・ザ・パラダイス”(Rockin' the Paradise)はロックチャート8位を記録した。

 

 

 

 

 

1983年2月28日、『ミスター・ロボット - キルロイ・ワズ・ヒア -』(Kilroy Was Here) をリリース、アルバムからは"ミスター・ロボット"(Mr. Roboto)が全米3位、"Don't Let It End"が全米6位と、トップテンヒットを2曲輩出し、アルバムも全米3位とセールスは好調を維持していた。しかし、ポップ志向が続くバンドの方向性との相反や度重なるツアーに疲れたこともあり、この年ショウはバンドを去る。

 

 

 

 

1984年、ショウはソロアルバム『ガールズ・ウィズ・ガン』(Girls with Guns)を発表、アルバムは全米50位に達し、タイトル・トラック“Girls with Guns”が全米トップ40にチャート・インした。

 

 

 

1985年、2ndソロアルバム『ホワット・イフ』(What If)をリリース。全米87位。

 

 

1987年、3rdソロアルバム『アンビション』(Ambition)をリリース。

 

 

1990年、ショウは、元ナイト・レンジャーのジャック・ブレイズ(Vo,B)、テッド・ニュージェント(Vo,G)、マイケル・カーテロン(Ds)とともに、スーパーグループ「ダム・ヤンキース」(Damn Yankees)を結成、ヴォーカルとギターを担当した。

同年、アルバム『ダム・ヤンキース』(Damn Yankees)をリリース、全米13位に到達し、プラチナ・セールスを記録した。ショウも作曲に参加したバラード“ハイ・イナフ”(High Enough)が全米3位を記録する大ヒット、日本でもリーバイスのCMソングに使用され、広く知られた。

 

 

 

1992年、2ndアルバム『ドント・トレッド』(Don't Tread) は全米22位を記録し、ゴールド認定も受けた。同年カットされたシングル"Where You Goin' Now"は全米20位のヒットとなった。

 

 

1993年、ニュージェントがソロ活動に戻るために離脱、ダム・ヤンキースは事実上活動停止。

 

 

1995年、ショウはダム・ヤンキースで一緒だったジャック・ブレイズとデュオ「ショウ・ブレイズ」(Shaw Blades)を結成、3月14日にアルバム『ハルシネイション』(Hallucination)を発表する。

 

 

同年、ショウは再結成したスティクスに参加し、全盛期メンバーでの再結成が実現。しかしジョン・パノッツォが健康問題で即降板し、代役にトッド・ズッカーマン(Ds)が加入。

 

 

1996年6月16日、ジョン・パノッツォは症状が悪化、47歳の若さで帰らぬ人となってしまった。

同年、ツアーはジョンの追悼ライヴとして開催し、新曲も数曲披露された。この模様は翌1997年、ライヴ・アルバム『リターン・トゥ・パラダイス』としてリリースしている。

 

 

1998年、4枚目のソロ・アルバム『セブン・デッドリー・ゼンズ』(7 Deadly Zens)をリリース。

この頃、ピンク・フロイドやキッスのトリビュート・アルバムにも参加した。

 

 

1999年6月29日、スティックスは13thアルバム『ブレイヴ・ニュー・ワールド』(Brave New World)を発表、全米175位。しかしこの間、デニス・デ・ヤングとトミー・ショウの確執が再燃。さらに同時期、デニスが健康を害したという理由で活動が停滞した。バンド側は活動に支障をきたすとして、ローレンス・ガーワン(Vo,Key)を代役に立てて活動を継続、デニスは降板させられた。

同年、ショウはスティックスでの活動の傍ら、同じく再始動したナイト・レンジャーに復帰したジャック・ブレイズらと再び集結、ダム・ヤンキース3枚目のアルバムのために動き出した。しかし彼らの活動は日の目を見ることが無く、2000年にダム・ヤンキースは解散した。

 

 

2000年、2度目の来日公演。また同時期に創設メンバーのチャック・パノッツォがフルタイムの活動を控えるようになり、グレン・バートニック(B)が復帰、チャックと併用する形で編成する。

 

 

2001年、降ろされたデニス側が「健康上の理由で一時的に降板したのであり、自分無しでのバンド続行は無効である」と主張。同意を得ないバンド活動と、デニス自身が創作した曲の差し止め訴訟を起こす。また個人的に、スティクス関連の活動も始めていた。それにはバンド側も反訴し、結果はデニス個人によるスティクスを冠した活動も許可されるも、個人名に「Formerly Styx」や「Performing The Music Of Styx」などの但し書きを義務付ける事で決着。事実上デニスの敗訴であり、両者は修復不可能な状態となった。

 

 

2002年、ショウ・ブレイズは、コンピレーション・アルバム『クラシック・ロック・クリスマス』 (A Classic Rock Christmas)に参加、“The Twelve Days of Christmas”をレコーディングした。

 

 

2003年2月18日、ローレンス・ガーワン起用の新体制が定着したスティクスは、14thアルバム『サイクロラマ』(Cyclorama)をリリース、全米127位。"Waiting for Our Time"をリカットし、ロックチャート37位を記録した。

 

同年、グレン・バートニックに代わり、リッキー・フィリップス(B,G)が加入する。

 

 

2005年5月10日、カヴァー企画の15thアルバム『Big Bang Theory』をリリース、全米46位。

 

 

 

2007年3月、ショウ・ブレイズ2作目となるカヴァー・アルバム『インフルエンス』(Influence)をリリース。春には短期間ツアーを行い、ナイト・レンジャー、スティクス、ダム・ヤンキース、各自のソロ・アルバムから幅広くピックアップされたナンバーが演奏された。また、2人は作曲家チームとしてエアロスミス、オジー・オズボーン、ヴィンス・ニール、シェールらに曲を提供した。

スティクスはこの頃からライヴを中心とした活動にシフト。特に2007年から2015年の間にデフ・レパード、フォリナー、ボストン、REOスピードワゴン、38スペシャル、イエス、テスラといった著名なバンドらと合同でツアーを催行する。

 

 

2009年、スティクスはREOスピードワゴンとコラボして "Can't Stop Rockin'" (featuring REO Speedwagon) をリリース。

 

 

2010年、スティクスは旧作『グランド・イリュージョン - 大いなる幻影』、『ピーシズ・オブ・エイト - 古代への追想』を完全再現するライヴを実施。

 

 

2017年、自主レーベル「Alpha Dog 2T」を設立。

6月16日、14年ぶりの16thオリジナルアルバム・コンセプト作品『The Mission』をリリースし、全米45位を記録した。アルバムからは"Gone Gone Gone"をシングルカットした。

 

 

 

2021年6月18日、17thアルバム『Crash of the Crown』を発表、全米114位。"Crash of the Crown"、"Reveries"をリカットした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「トミー・ショウ」「Tommy Shaw」「スティクス」「ダム・ヤンキース」「ショウ・ブレイズ」