サーストン・ムーア(Thurston Moore/出生名:Thurston Joseph Moore/1958年7月25日~)は、アメリカ合衆国のミュージシャンで、ソニック・ユースのメンバーとして知られている。
1958年7月25日、サーストン・ジョセフ・ムーアはアメリカ合衆国フロリダ州コーラルゲーブルズ(Coral Gables)のドクターズ病院で、ジョージ・E.・ムーアとエレノア・ナン・ムーアの間に誕生。兄フレデリック・ユージン・ムーア(1953~)と姉スーザン・ドロシー・ムーア(1956~)がいる。
1967年、ムーア家はコネチカット州ベセル(Bethel)に転居した。
彼はダンベリーのセントジョセフ学校に通い、続いてベテルのセントメアリー学校に通い、
1973~1976年、ベテル高校に通った
1976年秋にウエスタンコネチカット州立大学に入学したが、クォーター後に大学を去り、ニューヨーク市のアベニューAとBの間のイースト13ストリートに移動して、急成長しているポストパンクとノーウェイブの音楽シーンに参加した。彼がパティ・スミスのようなショーやウィリアム・S・バロウズのスポークン・ワードのパフォーマンスを見ることができたのはそこでした。
1980年、ムーアは自分のバンドのギグでキム・ゴードンに出会う。
彼はキム・ゴードンと一緒にアーティストのダン・グレアムの下の84エルドリッジ・ストリートのアパートに引っ越した。
1981年、ムーアとゴードンは「ソニック・ユース」(Sonic Youth) を結成。
ムーアとゴードンは、現代音楽家グレン・ブランカが主宰するギター・オーケストレーションのグループで演奏していたこともあるリー・ラナルドと出会い、ソニック・ユースに誘った。ドラムにはあまり恵まれず、実力不足で何回か交代している。
1982年、ソニック・ユースは最初のEPを無題でリリース、バンドによってこれが最初のアルバムと見なされた。
1983年2月、初のフルサイズとなる2ndアルバム『コンフュージョン・イズ・セックス』(Confusion Is Sex)をリリース。
1984年6月9日、ムーアはキム・ゴードンと結婚。
1985年3月、アルバム『バッド・ムーン・ライジング』(Bad Moon Rising)をリリース。
1986年5月、アルバム『EVOL』をリリース。
1987年6月、アルバム『シスター』(Sister)をリリース。収録曲"Schizophrenia"(統合失調症)は、彼女の兄に一部触発されて作られた楽曲。
1988年、アルバム『デイドリーム・ネイション』(Daydream Nation)を発表すると傑作と評される。 ムーアの曲"Teen Age Riot"がアメリカのオルタナティヴ・エアプレイ(Alternative Airplay/以下オルタナチャート)で20位に入った他、 "Silver Rocket"もムーアの曲である。
バンドはメジャーのDGCレコード(当時ゲフィン・レコード傘下、2011年現在はインタースコープ・レコード傘下)と契約を果たした。自分達がメジャーシーンに移行することで、オルタナシーン全体の過小評価を覆したいとの思いが強かった。実験的な楽曲が多く、その音楽性には高い評価があるものの、セールス面との対比から「無冠の帝王」などと揶揄されることもあった。
1990年、DGCから第一弾アルバム『Goo』をリリース、全米アルバムチャート96位に入り、全英では32位を記録した。アルバムからの1stシングル"Dirty Boots"はムーア作で、オルタナチャート7位に入り、全英81位になった。
1992年、アルバム『ダーティ』(Dirty)リリース、全米86位と本国では商業的に成功したとは言えなかったが、全英6位をはじめヨーロッパでは高い評価を得た。arubamukarano
1stシングル"100%"はオルタナチャート4位、全英28位となった他、"Youth Against Fascism"が全英52位、"Sugar Kane"が全英26位、と、ムーアの曲が多くシングルヒットした。なお、ジャケットはマイク・ケリーの作品より。
1994年、アルバム『エクスペリメンタル・ジェット・セット、トラッシュ・アンド・ノー・スター』(Experimental Jet Set, Trash & No Star)をリリース、全米34位・全英10位と米国では自己最高位を記録した。キムの作詞による“ブル・イン・ザ・ヘザー”(Bull in the Heather)は米国のオルタナチャートで13位に到達し、全英では24位と自己最高を記録、バンド史上最も高いセールスを記録したシングルとなった。
7月1日、キムが一人っ子の娘ココ・ヘイリー・ゴードン・ムーアを出産した。ココは後に、ダイナソーJr.のアルバム『Beyond』に収録されている"Been There All The Time"という曲のPVで、父と共演している。
1995年9月26日、アルバム『ウォッシング・マシーン』(Washing Machine)をリリース。全米58位・全英39位。20分近いムーアの大作"The Diamond Sea"がアルバムの最後を締めた。
シングルとしてはゴードンの曲"Little Trouble Girl"が全英81位に入った。
1998年5月12日、アルバム『A Thousand Leaves』をリリース。全米85位・全英38位。
ムーア作のシングル"Sunday"をリリース、全英72位。
2000年、アルバム『NYC ゴースツ&フラワーズ』(NYC Ghosts & Flowers)をリリース。全米172位・全英113位。
2002年6月25日、アルバム『ムーレイ・ストリート』(Murray Street)をリリース。 全英126位・全英77位。
2004年6月7日、アルバム『ソニック・ナース』(Sonic Nurse)をリリース。全米64位。
2006年、アルバム『ラザー・リップト』(Rather Ripped)のリリースをもって、バンドはインタースコープとの契約が満了。全米71位・全英64位。アルバムからのはムーア作の"Incinerate"がシングルカットされた。
バンドはその後マタドール・レコードと契約(日本のみホステス・エンタテインメントと契約)して、再びインディーズに戻った。
2009年6月9日、移籍第1作となる『ジ・エターナル』(The Eternal)をリリース。全米18位・全英42位。
シングル"Antenna"も同時発売。
2011年10月、ムーアは27年連れ添ったキムとの結婚生活を終え離婚。
11月14日、南米ツアーの最後にブラジルのサンパウロのイトゥーで開催されたSWUミュージック&アーツフェスティバルで最終コンサートを行い、バンドは活動を停止した。
ムーアはその後、いくつかのプロジェクトを立ち上げる。
2012年、ムーアは新しいバンド「チェルシーライトムービング」(Chelsea Light Moving)を開始し、最初のトラック“バロウズ”(Burroughs)を無料でダウンロードしてリリースした。
2013年3月5日、チェルシーライトムービングの名を冠したデビューアルバムがリリースされた。
バンドはその後に解散した。
2014年、ムーアは自らのバンド、サーストン・ムーア・グループを率いてアルバム『THE BEST DAY』をリリースした。
2017年、サーストンムーアグループは、プロデューサーのポールエプワースとともにロンドンのチャーチスタジオで録音されたフルアルバム『Rock n Roll Consciousness』をリリース。全英65位を記録した。
2020年、ソロアルバム『By the Fire』リリース。
2021年2月5日、ソロアルバム『screen time』リリース。
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(参照)
Wikipedia「Thurston Moore」「ソニック・ユース」「Sonic Youth」