南 沙織(みなみ さおり/本名:篠山 明美/旧姓:内間/1954年7月2日~)は、

日本の元歌手、元アイドル。別名「シンシア」、「SAORI」としても活動。

 

 

 

沖縄県嘉手納町で生まれ、4歳の頃からは宜野湾市で育った。

デビュー時は母親の郷里である鹿児島県奄美大島の生まれとされたが、実際は生まれも育ちも沖縄県で、出生から17歳までは琉球政府施政権下だった。

幼少の頃は宜野湾市でも何度か引越しをしたが、南によると「どういうわけか、自宅はいつも普天間飛行場のゲートの近くだった」という。

また、フィリピン人とのハーフであるとされてきたが、これは間違い。正しくは両親とも日本人で、母の再婚相手(義父)がフィリピン人である。義父はフィリピンが故郷で、第二次世界大戦後に沖縄に来たアメリカ合衆国の軍属であった。


生育環境からいわゆるバイリンガルである。異父妹弟がいる。

カトリック信徒で、英語名「シンシア」(Cynthia/月の女神、蟹座の守護神の意)が愛称。

母の勧めで真栄原の「クライスト・ザ・キング・インターナショナル・スクール」に通った。

歌手デビュー以前、地元沖縄で琉球放送の視聴者参加型のど自慢テレビ番組『オキコワンワンチャンネル』や『100万人の大合戦』などでアシスタントのアルバイトをしていた。

 

一方、その頃東京では、CBS・ソニーが新たな人材を探していた。ある時、琉球放送のテレビ番組にヒデとロザンナがゲスト出演した際、そのマネージャーが持ち帰った写真に偶然写っていた彼女の姿がソニー関係者の目に留まり、急遽、東京に呼び寄せられることとなった。

 

 

1971年春、本土復帰前の沖縄から母親と二で来日。CBS・ソニー社長との顔合わせを経て、デビューに向けたプロジェクトが開始。レコード・デビューまでわずか3ヶ月足らずという状況について、作詞家の有馬三恵子は「あんなにスムーズに新人歌手をデビューさせられた例は、他にない気がする」と述懐。そして「詩心を大いに刺激された」有馬が南のために書いた詞の中から、“17才”(作詞:有馬三恵子/作・編曲:筒美京平/以下、特記が無い限り同じ)がデビュー曲として採用された。なお、タイトルは音楽プロデューサーの酒井政利によるもの。

6月1日、「ソニーのシンシア」のキャッチフレーズとともに“17才”をリリースして歌手デビュー。約54万枚の大ヒットとなった。 楽曲作りに着手した時点で芸名は未定で、CBS・ソニーの社内公募では「南陽子」が1位だったが、有馬が言った「彼女のイメージは陽子じゃなく、沙織じゃないかしら」の一言で「南沙織」に決まった。

 

デビュー時の南のインパクトについて、写真家の篠山紀信は「彼女の登場は、返還を目前とした沖縄のイメージ・アップのための国策歌手かと思ったくらい良かった」と述懐しており、プロデューサーの酒井は「そのタイミングは、南沙織が持つ気運のひとつであったのではないか」と著書で書き記している。また、「世代的共感を歌うアーティストの始まり」、「日本におけるアイドルの第1号」、「元祖アイドル」と評されることもある。

10月1日、2ndシングル“潮風のメロディ”発売、オリコン7位。

 

同日、1stアルバム『17才』も同時発売、A面1~6曲はオリジナル、B面7~12曲が“ビー・マイ・ベイビー”(ロネッツ)等の洋楽ポップスのカヴァー。この構成が南のアルバムのスタンダードとなる。オリコン8位。

 

 

12月5日、2ndアルバム『潮騒のメロディ』発売、 “小さな恋のメロディ”(ビー・ジーズ)、“夢見るシャンソン人形”(フランス・ギャル)等のカヴァー集、オリコン10位。

暮れの第13回日本レコード大賞で新人賞を受賞。

NHK『第22回NHK紅白歌合戦』にも初出場。“17才”を歌唱した。

 

 

1972年2月1日、3rdシングル“ともだち”発売、オリコン7位。

 

6月1日、4thシングル“純潔”発売、オリコン3位。

 

6月21日、3rdアルバム『純潔/ともだち』を発売、オリジナル6曲 + カヴァー6曲、オリコン2位。

 

9月21日、5thシングル“哀愁のページ”発売、オリコン2位。

 

12月31日、NHK『第22回NHK紅白歌合戦』に連続出場。“純潔”を歌唱した。

 

プロマイドも、1971年、1972年の年間売り上げ実績では第1位を獲得している。また、同時期にデビューした小柳ルミ子・天地真理らとともに 「新三人娘」 と括られることもあり、当時のアイドルの代表格であった。

 

 

1973年1月21日、6thシングル“早春の港”発売、オリコン11位。

 

5月1日、7thシングル“傷つく世代”発売、オリコン3位。

 

5月21日、6thアルバム『傷つく世代』発売、SEを織り込んだ、サウンドドラマ仕立ての意欲作。オリコン9位。

 

7月5日、8thシングル“カリフォルニアの青い空”(作詞:A.Hammond/作曲:M.Hazlewood/編曲:穂口雄右)発売、原曲はアルバート・ハモンドによる1972年のヒット曲“It Never Rains In Southern California”で、カヴァー曲を初めてシングルA面として発表した。オリコン5位。

 

8月21日、9thシングル“色づく街”発売、オリコン4位。自身も代表曲のひとつと認める楽曲。

 

9月21日、7thアルバム『20才まえ』発売、ナレーションを多用したコンセプチュアルな作品。

 

12月5日、10thシングル“ひとかけらの純情”発売、オリコン8位。

 

 

1974年3月21日、11thシングル“バラのかげり”発売、オリコン15位。

 

6月21日、12thシングル“夏の感情”発売、オリコン16位。

 

9月21日、13thシングル“夜霧の街”発売、オリコン17位。

 

12月10日、10thアルバム『20才』発売、オリジナル作品で松本隆を初起用。

 

12月21日、14thシングル“女性”(編曲:高田弘)発売、オリコン23位。

 

 

1975年4月21日、15thシングル“想い出通り”(編曲:萩田光雄)を発売、 オリコン19位。

 

8月1日、16thシングル“人恋しくて”(作詞:中里綴/作曲:田山雅充/編曲:水谷公生)はカヴァーを除き初の有馬・筒美コンビ以外のシングルA面曲となった。同曲で第17回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。以後、松本隆や荒井由実等の作家も起用するようになる。オリコン8位。

 

11月21日、17thシングル“ひとねむり”では再び筒美の作曲に、作詞は当時文化放送を退社したばかりの人気ディスクジョッキー落合恵子を初起用、オリコン27位。B面“おはようさん” (作詞:小原弘亘/作曲:奥村貢/編曲:萩田光雄)はNHK朝の連続テレビ小説『おはようさん』イメージソング。

 

12月5日、12thアルバム『人恋しくて』では矢沢永吉(「五大洋光」 名義)から“哀しみの家”の作曲提供を受け、落合恵子から先のシングル曲を含め2曲の作詞提供を受けている。

 

 

1976年、明治製菓(現:明治)の「チェルシー」CMに出演、CMソング“チェルシーの唄”(作詞:安井かずみ/作曲:小林亜星)も歌唱した。

 

9月1日、本人が大のお気に入りに挙げる20thシングル“哀しい妖精”を発表、オリコン20位。松本隆による日本語歌詞のシングル・ヴァージョンの他、作曲者のジャニス・イアンの原詞そのままの英語ヴァージョンが15thアルバム『ジャニスへの手紙』に収録された。

 

11月21日、21thシングル“愛はめぐり逢いから”(作詞:岡田冨美子/作・編曲:林哲司)発売、TBS系テレビドラマ『結婚するまで』主題歌。オリコン45位。

 

同年末、『第27回NHK紅白歌合戦』に通算6回目の出場を果たし、“哀しい妖精”を歌唱した。

 

 

1978年1月、尾崎亜美が他アーティストに初めて提供した作品でもある25thシングル“春の予感 -I've been mellow-”を発売、資生堂・春のコマーシャルソング、オリコン25位。 

 

7月2日、24歳の誕生日を迎えたこの日、当時在学中だった上智大学での学業に専念するため、歌手活動にピリオドを打つ事を突如発表する。

7月3日、南自身の誕生日パーティーでの席上と、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』の生出演時に、改めて活動停止の報告を自ら行った。

8月21日、27thシングル“Ms.”発売。

 

9月25日、『夜のヒットスタジオ』においては「南沙織 サヨナラ企画」が放送され、同期デビューで奇しくも同じ誕生日の小柳ルミ子(南が2歳年下)や、当時同じ所属事務所(T&C ミュージック)だったピンク・レディーらが共演、特に小柳と増田恵子が感極まって惜別の涙を流した。

10月1日、アルバム『Simplicity』発売。オリコン37位。

10月7日、調布市市民福祉会館で「さよならコンサート」を開催。この日を以って歌手を含む芸能活動から引退した。

10月21日、28thシングルとしてカヴァー曲“グッバイガール”(訳詞:中里綴/作曲:D.Gates/編曲:川村栄二)を発売、B面は英語の原詩(作詞:D.Gates)で同曲を歌唱した。これが引退前野の最後の作品とされる。

 

12月5日、引退コンサートの模様をライヴ録音したレコード『Good-by Cynthia』をリリース。

 

 

1979年、引退後に交際がスタートしたという写真家の篠山紀信と結婚。

紀信との間に3人の息子をもうける。次男の篠山輝信(しのやま あきのぶ)は2006年に俳優デビューを果たし、その後タレント活動も行っている。

 

 

1983年、「Cynthia」名義で作詞家としての活動を1曲のみ行っている。森山良子が作曲し“ウ・フ・フ”というタイトルでアグネス・チャンのアルバム『小さな質問』に収録された。

 

 

1991年末、第42回NHK紅白歌合戦に14年ぶり8回目の出場、“色づく街”を歌った。なお、本人が登場する直前のコーナーでは、阿久悠が執筆した南の紹介文を渡辺美佐子が朗読し、BGMに“17才”のメロディーを流すという演出があった。 

 

 

1992年、前年の紅白出場を機に、「家庭が第一」のため基本的にはレコーディングのみと限定的ながら、活動を再開。

5月21日、通算29枚目となるシングル“青空”(作詞:来生えつこ/作曲:都志見隆/編曲:萩田光雄)で歌手に復帰。同曲は松下電工「エステ商品」イメージソング、収録曲“ファンレター(Remix version)”(作詞:阿久悠/作・編曲:筒美京平)はNHK-BS・イメージソング。これ以降、しばらく「シンシア」名義で活動。ただし後に、他に同じ芸名の歌手がデビューしたと言う事もあり、「南沙織」に戻っている。

 

 

1993年3月21日、30thシングル“約束”(作詞:阿久悠/作曲:伊勢正三/編曲:萩田光雄)を発売、JR東日本CMソング。

 

10月1日、21thアルバム『Art of Loving』発売。

 

 

1994年6月22日、31thシングル“よろしく哀愁”(作詞:安井かずみ/作曲:筒美京平/編曲:服部隆之)を発売、郷ひろみ1974年のヒット曲のカヴァー。南沙織(シンシア)の全シングル33曲のうち表題曲またはA面曲にて、日本の歌手が歌った楽曲をカヴァーしたのは本楽曲のみ。KDD(現:KDDI)「ファミリートーク」CMソング。

 

 

1996年1月21日、32thシングル“愛は一度だけですか”(作詞:阿久悠/作曲:都志見隆/編曲:重実徹)発売、フジテレビ・東海テレビ系列の昼ドラマ『その灯は消さない』主題歌。

 

 

1997年4月21日、33thシングル“初恋”(作詞・曲:山本次郎/補作詞:夏実唯/編曲:梅垣達志)発売、フィリップモリスCMソング。これ以降、新譜の発表はされていない。

 

 

2000年6月、歌手デビュー満30周年を記念した完全限定生産CD-BOX『CYNTHIA ANTHOLOGY』が発売された(CD5枚+DVD1枚の全6枚組)。日本の音楽CD-BOXとしては初めてDVDが同梱された作品であり、オリコンのアルバムヒットチャートでは最高62位にランクイン、再プレスもされた。

またこの頃、リリースに当ってソニーミュージックの公式サイト「Art of loving」では、記念作品が完成した事に対して自ら謝辞コメントを寄せた音声が公開されていた。 

 

 

2002年、沖縄本土復帰30周年となった年、『沖縄タイムス』(5月15日付)のインタビューで沖縄への思いを語った。

 

 

2003年7月には浴衣姿で被写体となった新聞広告(撮影: 篠山紀信)が掲載された。

 

 

2006年3月、デビュー時の担当プロデューサーだった酒井政利の「文化庁長官表彰・音楽プロデューサー45周年」パーティに、久しぶりに夫婦で公の場に登場し、乾杯の音頭をとった。

6月、歌手デビュー35周年を迎え、全スタジオ・アルバム21枚を紙ジャケット仕様で復刻した完全限定生産CD-BOX『Cynthia Premium』を発売(CD21枚+DVD1枚の全22枚組)。「篠山シンシア」名で監修も務めた本作は、オリコンのアルバムヒットチャート最高84位にランクインした。

 

 

2008年10月、週刊誌『アサヒ芸能』(第63巻第39号)内特集 「70年代アイドルを[感涙の総直撃]」に特別メッセージを寄稿。歌手デビュー当時の思い出や近況等が記載された。

 

 

2011年1月17日付の東京新聞・朝刊において、「この人-南沙織さん」の記事と顔写真(当時56歳)が掲載される。生まれ育った沖縄県の普天間基地移設問題に関し、南自ら「あの危ない飛行場が何故、未だに有るのか?移設先が辺野古の海というのも駄目です」と猛反対するコメントを述べ、またデビュー40年を機に再び歌手業へ復帰するかについては、「もう声、出ませんよ」と首を振り完全否定していた。

 

 

2020年、週刊現代にて「いまもって特別な存在 なんで南沙織だったんだろう」の見出しのもと 4ページに渡り特集記事が組まれた。

同年7月2日、自身の誕生日のこの日、歌手デビュー50周年目を迎えた記念企画6枚組CD-BOX『CYNTHIA ALIVE』を発売。この中で、監修・選曲を行ったクリス松村と対談している。

 

 

 

 


 

 

 

(参照)

Wikipedia「南沙織」「チェルシーの唄」