ジョージ・マイケル(George Michael/出生名[英語]:Georgios Kyriacos Panayiotou/1963年6月25日~2016年12月25日)は、イギリス出身のシンガーソングライター。ポップデュオ「ワム!」の元メンバーとしても知られる。

 

 

 

1963年6月25日、イェオルイオス・キリアコス・パナイオトゥ(ギリシア語:εώργιος Κυριάκος Παναγιώτου)は、英国イングランドのロンドン郊外のフィンチレー(Finchley)チャーチ・レーン73番地にて、姉が二人いる3人姉弟の末っ子として産まれる。両親は、1950年代にイングランドに移住したギリシャ系キプロス人の父キリアコス・パナイオトゥ(後に改名してジャック・パノス/1935〜)と、ユダヤ人の血を引くイングランド人の母レズリー・アンゴールド・ハリソン(1937〜97)。

幼少期から内気で、自分の中で「ジョージ・マイケル」という架空のヒーローを想像し続け、後に自分がデビューしてから、もう一人の架空の自分「ジョージ・マイケル」を名乗るようになる。

 

1975年、ブッシー・ミーズ・スクールに入学し、アンドリュー・リッジリーと出会う。

 

1979年、ジョージ・マイケルとアンドリュー・リッジリーを中心に、「エグゼクティブ」を結成。他のメンバーは、アンドリューの実兄ポール・リッジリー、デヴィッド・オースティン、アンドリュー・リーヴァーで5人グループ。複数のレコード会社に持ち込むが相手にされず、後に解散する。

 

1981年、アンドリュー・リッジリーとポップ・デュオ「ワム!」を結成、音楽面をジョージが、ステージ構成やビジュアル面をアンドリューがそれぞれ分担して受け持った。

 

 

1982年6月16日、シングル“Wham Rap!(Enjoy what you do?)”でデビュー、彼らの友人が運営していたインナーヴィジョン・レコーズよりCBSレコード経由でのリリースで、全英8位となった。

 

10月4日、2ndシングル“Young Guns(Go for it!)”が全英3位になり、人気に火が付いた。

 

 

1983年5月2日、“バッド・ボーイズ”(Bad Boys)をリリース、全英2位・全米60位。

 

7月9日、1stアルバム『ファンタスティック』(Fantastic)を発表。イギリスでは史上4組目となるデビュー・アルバムの初登場1位を獲得。イギリス国内では瞬く間にトップスターとなる。同時期にアメリカでもデビュー。しかし、米国ではチャートインこそしたが、ヒットにはならなかった。

 

7月23日、シングル“クラブ・トロピカーナ”(Club Tropicana)リリース、全英4位を記録した。

 

同年、所属していたインナーヴィジョン・レコーズが、本人達の承諾を得ずに勝手にアルバム収録曲をメガミックスした12インチ・シングル『CLUB FANTASITIC MEGAMIX』(日本未発売)をレコードとして発売した。この行為にジョージが激怒し「この12インチ・シングルを、絶対に購入しないように」とファンに呼びかけた。これが、所属レーベル移籍の原因となる。

年末、プロモーションで初来日し、『レッツゴーヤング』等の歌番組などにも出演した。

 

 

1984年5月14日、“ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ”(Wake Me Up Before You Go-Go)を本国イギリスでリリースし、2週にわたりチャート首位に立った。遅れて発売されたアメリカでは3週間No.1を維持し、デュオにとって全英・全米ともにNo.1になった初のシングルとなった。

 

7月24日、シングル“ケアレス・ウィスパー” (Careless Whisper)をリリース。作詞・作曲のクレジットがGeorge MichaelとAndrew Ridgeleyの共作であり、ワム!の2ndアルバム『メイク・イット・ビッグ』やベスト・アルバム『ザ・ファイナル』に収録されていることから、ワム!の楽曲に思われがちだが、厳密にはジョージ・マイケルのソロ曲。ただし、その扱いは国によって異なり、英国はじめ欧州諸国で「ジョージ・マイケル」の単独名義であるのに対し、米国では「Wham! featuring George Michael」名義、日本では「ワム!」名義で発売された。また、日本の「新御三家」の郷ひろみが“ケアレス・ウィスパー”(日本語詞:ヘンリー浜口/編曲:大村雅朗)を、西城秀樹も“抱きしめてジルバ”(訳詞:森田由美/編曲:丸山恵市)のタイトルでカヴァーしている。

 

10月1日、シングル“フリーダム”(Freedom)リリース、全英1位・全米3位。

 

10月23日、2ndアルバム『メイク・イット・ビッグ』(Make It Big)を発表、英米両方で1位を記録した他、欧州や豪州でもNo.1を獲得、日本でもオリコン洋楽アルバムチャートで1984年12月3日付から通算11週1位を達成し、本アルバムからは数々のヒット曲が誕生した。

 

12月3日、シングル"Everything She Wants"が“ラスト・クリスマス”(Last Christmas)とのカップリングで発売。前者が全英1位・全米2位、後者が全英9位・全米2位を記録。日本では“ラスト・クリスマス”が同年12月15日に発売されてオリコンで総合12位・洋楽1位、"Everything She Wants"が“恋のかけひき”のタイトルで翌1985年にリリースされた。

 

 

1985年1月には来日公演も行われた。

同年、英米のポップ・アーティストとしては初の大々的な中華人民共和国での公演を行った。

11月11日、シングル"I'm Your Man"をリリース、全英3位・全米1位。

 

 

1986年、人気絶頂の最中、ワム!は解散を発表。解散の理由としては、日本版ベスト・アルバムのライナーノーツ等には「ユニットとしてやることはやりつくしたから」ということが挙げられていたが、実際は所属レーベルの親会社であるソニーが、当時アパルトヘイト政策を実施していた南アフリカ共和国と貿易を続けていることへの抗議だったという。また、同時期にジョージがソロ活動を本格的に開始したことも理由の一つだった。

3月24日、ジョージのソロシングル“ディファレント・コーナー”(A Different Corner)発売、全英1位・全米7位。

 

5月31日、ベストアルバム『ザ・ファイナル』(The Final)を発売、全英2位

 

6月9日、シングル"The Edge of Heaven"をリリース、全英10位・全米1位。

 

6月28日、ウェンブリー・スタジアムにて解散コンサートを行う。

7月1日、アルバム『エッジ・オヴ・ヘヴン』(Music from the Edge of Heaven) 発売、全米10位。

 

10月、アレサ・フランクリンのアルバム『Aretha』にジョージがソロで参加し、“I Knew You Were Waiting (For Me)”をデュエット、翌1987年1月にシングルカットされて全英・全米で1位を獲得、邦題は“愛のおとずれ”。

 

 

1987年10月30日、1stソロアルバム 『フェイス』 (FAITH)を発売、記録づくめの大ヒットとなる。

 

この時に作った数々の記録として、Faithツアー(1988年)がアメリカでのその年のヒット商品に選出、“一番セクシーなお尻”(男性部門・1988年)に選出、Billboard アルバム部門年間チャート1位(1988年)、シングル部門年間チャート1位(『Faith』 1988年)、白人アーティストとして初のブラックアルバムレギュラーチャート(Hot R&B/Hip-Hop Songs)1位(1988年)といったものがある。リードシングルの“Faith”から始まり、“Father Figure”、“One More Try”、“Monkey”と4曲立て続けにNo.1ヒットとなり、“Kissing a Fool”も全米5位にチャートイン、シングル5曲すべてがトップ5に入った。

 

 

 

 

 

 

1988年2月19日、東京・日本武道館公演からFaithワールド・ツアーがスタート。

 

 

1990年9月3日、2ndアルバム『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』発売。本来2枚組になる予定だった『LISTEN WITHOUT PREJUDICE』が、2枚目の制作が間に合わず、先行して1枚をvol.1として発売したもので、欧州では『FAITH』より多く売れた。全英1位・全米2位を記録。アルバムからの1stシングル“プレイング・フォー・タイム”(Praying for Time)が全米1位、 "Freedom! '90"が全米8位を記録した。

 

 

 

ジョージ個人としてはアルバムの出来に満足していたが、前作ほど所属レーベルがプロモーションに力を入れなかったこともあり米国での売れ行きは鈍く、しかもレーベル会社のソニー・ミュージック(SME)の当時の社長が商業的に前作を下回った本作を酷評をする。これに怒ったジョージは、「ソニー(SME)はアーティストをアーティストとして扱わない。こんな会社ではクリエイティヴな仕事は出来ない」と、SMEを相手に契約無効を訴える裁判を起こす。

本アルバム発売後、ワールドツアー「COVER TO COVER TOUR」を日本より行う。タイトル通り、ツアーでは半分以上がカバヴァー曲で構成され、オリジナル曲もワム!時代の曲を織り交ぜ、ソロデビュー後の曲は殆ど歌わなかった。カヴァーの選曲が欧米では有名な曲ばかりだったが、日本ではそれらの曲を殆ど知らない客が多かった為、評論家からは酷評された。このツアー以降、本人は「ツアーは行わない」と発言し、長年ツアーを行っていなかった。

 

“Crazyman Dance”、“Happy”等を収録したアルバム『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 2』を出す予定だったが、この泥沼化した裁判により発売が頓挫。後に“Happy”は、エイズ・チャリティ・アルバム『Red Hot + Dance』に収録して発表。“Crazyman Dance”は、『Red Hot+Dance』に提供した新曲 “Too Funky”のカップリングとしてシングル発表した。

 

 

1991年、エルトン・ジョンとのデュエット"Don't Let the Sun Go Down on Me" (with Elton John) で全英・全米ともに1位を獲得。

 

 

1992年、"Too Funky"をシングル発売、全英4位・全米10位。

 

4月、フレディ・マーキュリーのトリビュート・コンサートに参加、クイーンの他のメンバーとともに"Somebody to Love"を歌唱。

 

 

1993年、前年のトリビュートコンサートで演奏した"Somebody to Love"をシングル発売し、全英1位を記録。クレジットは「George Michael and Queen with Lisa Stansfield」。

 

 

1996年5月13日、3rdソロアルバム『Older』を発売、全英1位・全米6位・日本3位。ともに全英1位になった"Jesus to a Child"と"Fastlove"は、全米でもそれぞれ7位、8位を記録した。

 

 

 

 

1999年12月6日、カヴァー集となった4thソロアルバム『Songs from the Last Century』を発売、全英2位、欧州各国でチャート上位に入ったが、ジョージのアルバムの中では唯一全英1位を記録しなかった。

 

 

 

 

 

 

2002年、シングル"Freeek!"をリリース、全英7位。

 

同年、シングル“シュート・ザ・ドッグ”(Shoot the Dog)をリリース、全英12位。

 

 

2004年3月1日、シングル"Amazing"リリース、全英4位。

 

3月15日、5thソロアルバム『Patience』を発売、本国イギリスでは初登場で全英1位に返り咲き、欧州各国で1位か2位になるなど、前作以上の結果を出した。米国版では“ペイシェンス(パート2)”(Patience [Pt. 2])と当時のイラク戦争を批判した“シュート・ザ・ドッグ”(Shoot the Dog)は除外され、全米12位。

 

6月28日、アルバムから“Flawless (Go to the City)”をリカット、全英8位。

 

 

2006年9月、デビュー25周年ツアーとして25LIVEツアーをスタート、ヨーロッパ、オーストラリア、北米を回る。

ロンドンの新しいウェンブリースタジアムのこけら落とし公演はジョージ・マイケルによるもの。

12月、ジョージのソロ公演においてアンドリューが15年振りにゲストとして参加。その後再結成の話も持ち上がったが、最終的にこの話は流れた。

 

 

2009年、シングル"December Song (I Dreamed of Christmas)"をリリース、全英14位。

 

 

2011年8月よりSymphonicaツアーをスタートしたが、ツアー途中の同年10月26日、ウイルス感染症のためロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートが中止となる。その後回復してツアーを続行していたものの、翌月11月21日、ウイーンでのコンサート開始2時間前に胸の痛みを訴え、その日のコンサートは急遽中止となる。ウィーン総合病院に緊急入院し、肺炎と診断されたため、以降のツアースケジュールも全て延期となった。さらに入院後、病状の悪化により意識不明となり、一時は集中治療室に入るなど、重篤な病状であることがマスコミに伝えられる。その後12月21日に退院し、その際の記者会見では、彼の命を救った病院スタッフに対する感謝の意味を込めて病院スタッフを自身のコンサートに無料招待したいと語るなど、感極まった様子を見せた。また、会見では気管切開を受けていたことも明らかにした。

 

 

2012年2月21日、ロンドン・O2アリーナで開催された2012年ブリット・アワードにサプライズ出演し、退院後2ヶ月ぶりにライヴパフォーマンスを見せるとともに、最優秀ブリティッシュ・アルバム賞を受賞したアデルの紹介にあたってはプレゼンターも務めた。

7月2日、シングル"White Light" / "Song to the Siren"をリリース、全英15位。

 

8月12日、ロンドンオリンピック閉会式に出演し“Freedom'90”と“White Light”の2曲を歌った。 

 

 

2014年3月、オリジナルとしては10年ぶりとなるライヴアルバム『Symphonica』をリリース。前述したSymphonicaツアーからの音源を収録した作品で、前年に亡くなったフィル・ラモーンにとっては生涯最後のプロデュース作品となるとともに、ジョージ・マイケル本人にとっても生涯最後の作品、かつ生涯唯一のライヴアルバムとなった。 全英1位。

 

 

 

2016年12月25日午後、イングランド南部オックスフォードシャー州(the county of Oxfordshire) の自宅で死去。53歳没。死因は、検視官の見解では「拡張型心筋症、心筋炎、脂肪肝の症状が見られた自然死」であった。

街に“ラスト・クリスマス”が流れる中、ジョージ・マイケルの訃報が世界各国に伝えられた。

 

 

 

ワム!時代にジョージが作った“ラスト・クリスマス”は1985年のリリース以来、クリスマスの定番ソングとして広く親しまれ、レコードやCDの再発売が繰り返されてきた。特に2007年以降は英国をはじめヨーロッパで毎年チャート入りを欠かしたことが無い。

2016年12月25日、ジョージの訃報が世界を駆け巡った以降も、“ラスト・クリスマス”はチャートインを続けるどころか、年々順位を上げるようになり、2020年にはついに、再発にもかかわらず全英で1位、全米でも1985年の初出と同じ9位に達した。

 

クリスマスソング以上の、忘れられない1曲。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジョージ・マイケル」「George Michael」「ワム!」

 

ジョージ・マイケル公式サイト