ピーター・フランプトン(Peter Frampton/出生名:Peter Kenneth Frampton/1950年4月22日~)は、イングランド出身のロックミュージシャン、シンガーソングライター、ギタリスト。

 

 

ロンドン出身。ピーター・ケネス・フランプトンは、父オーウェン(1919〜2005)と母ペギーの間に生まれた。父はブロムリー・テクニカル・ハイ・スクール(Bromley Technical High School)の美術教師で、フランプトンも同校に進学した。同校に在籍していた12歳の時、the Little Ravensというバンドに入っていたが、父オーウェンの生徒であった3歳年上の先輩デヴィッド・ボウイと親しくなり、一緒に昼休みを過ごしたり、バディ・ホリーの歌を演奏するなどしていた。

 

14歳の時、フランプトンはthe Trubeatsというバンドで演奏した後、ローリング・ストーンズのビル・ワイマンによってプロデュースとマネジメントされているバンドthe Preachersでプレイした。

 

1966年、16歳でアイドル・バンドの「ザ・ハード」(The Herd)に参加。バンドの結成はフランプトン加入前年の1965年で、それまでに3枚のシングルをリリースしていた。バンド名の意味は、「群集」や「聴衆」。フランプトンの参加後、マーキークラブでのライヴなどで認められて、フォンタナ・レコードと契約に至った。

 

1967年4月、再デビューといえる4枚目のシングル“アイ・キャン・フライ”(I Can Fly)はチャートインしなかったが、身長170cmと小柄ながら、繊細な顔立ちの美少年であったフランプトンは、ティーンエイジャーのアイドル的な人気者となる。続くシングルは、同年8月の“夜明けを求めて / 可愛いいウィリアム”(From the Underworld / Sweet William)が全英6位、同年12月の"Paradise Lost / Come on, Believe Me" が全英15位、1968年3月の"I Don’t Want Our Loving to Die / Our Fairy Tale"が全英5位と、3枚続けてヒット。

 

 

 

 

 

1968年、「1968年の顔」ともてはやされるようになる。特に、スコット・ウォーカーがレコーディング・スタジオに訪れたり、彼とは風貌が似ていたこともあって、ヤング・スコットと呼ばれたこともあった。しかし、アイドル扱いに嫌気がさしたフランプトンは、スモール・フェイセスのスティーヴ・マリオット達と密かにミーティングを重ねる。マリオットはフランプトンにスモール・フェイセスへの加入を打診するが、これは他のメンバーの反対に遭い頓挫。代わりに、フランプトンが構想する新バンドへメンバーを紹介するなど力を貸した。


1969年2月、ザ・ハードのメンバーのアンディ・ボウンと共作したオリジナル曲“サンシャイン・コテージ”(Sunshine Cottage)を発売。

 

その直後、フランプトンはバンドを脱退、時を同じくしてバンド内の確執からスモール・フェイセスを辞めたマリオットも加わり、「ハンブル・パイ」(Humble Pie)を結成。大きな成功を収めたミュージシャン達によるハンブル・パイの結成は「スーパーグループ」の誕生と大きく期待された。
グループはマリオットの所有するエセックス州モアトンのコテージで秘密裏にレコーディングを始める。彼らはアンドリュー・ルーグ・オールダムのイミディエイト・レコードと契約。

8月8日、デビュー・シングル“あいつ” (Natural Born Bugie)を発表、全英4位のヒットとなった。

 

同月、続いてリリースされたアルバム『アズ・セイフ・アズ・イエスタデイ・イズ』(As Safe as Yesterday Is)は、スモール・フェイセスを受け継いで発展させた作品として高評価を得た。全英チャート最高位は36位。

 

11月、2ndアルバム『タウン・アンド・カントリー』(Town and Country)がリリースされ、前作に比べよりアコースティックな路線の作品となった。この当時のハンブル・パイのコンサートはエレクトリック・セットに続くアコースティック・セットが設定され、後のバンドの多くがそのスタイルを取り入れるようになった。またこういったスタイルは、マリオットのロック志向とフランプトンのポップ志向の折衷といえた。しかし、それはバンドの方針に迷いを与える結果ももたらし、合わせてアコースティック路線は、アメリカのファンからはあまり歓迎されなかったといわれる。

 

 

 

1970年、イミディエイトの経営が破綻、このためバンドはA&Mレコードへ移籍、マネージメントの体制も変化した。

同年、アルバム『大地と海の歌』(Humble Pie)を発表、本作をプロデュースしたグリン・ジョンズはバンドの過去の作品に関して「君達の強みが完全には出ていない」と主張し、スティーヴ・マリオットがヴォーカリスト、フランプトンがギタリストと、役割分担を明確化させたという。本アルバムでフランプトン名義の唯一の曲が"Earth and Water Song"。

 

 

 

1971年、『ロック・オン』(Rock On)をリリース。それはプログレッシブ・ロックとブギー・ロックスタイルが交互に表れたものだった。この頃からマリオットの持ち味であるソウルフルな歌が前面に押し出され始める。しかしフランプトンも"Shine On"など作曲面でも存在感を放っている。

 

 

11月、彼らのフィルモア・イーストでのステージを捉えた『パフォーマンス〜ロッキン・ザ・フィルモア』(Performance Rockin' the Fillmore)をリリース、当時最高のロック・ライブ・アルバムのひとつと見なされた。収録曲の レイ・チャールズのカヴァー“アイ・ドント・ニード・ノー・ドクター”

(I Don't Need No Doctor)はアメリカのFM局で大きなヒットとなり、アルバムをバンド最高の商業的成功作へと導いた。 しかし、本作リリース時点で、フランプトンは音楽性の相違からバンドを脱退していた。

 

 


1972年、ハンブル・パイを円満に脱退したフランプトンは、1stソロアルバム『ウインド・オブ・チェンジ』(Wind of Change)をリリース、元ビートルズのリンゴ・スターやビリー・プレストンなどをゲストに迎えた本作で、ソロとしてのキャリアをスタートさせた。

 

 

その傍ら、ギタリストとしてジョージ・ハリスンやニルソンのアルバムに参加して腕を磨く。

 

1973年、自身が立ち上げたグループ・プロジェクトの一環として、続くアルバム『フランプトンズ・キャメル』(Frampton's Camel)をリリース。

 

 

1974年、アルバム『サムシンズ・ハプニング』(Somethin's Happening)をリリース、プロモーションのためにこの頃から精力的に草の根全米ツアーを始め、地道にファンを増やしていく。

 

1975年3月、アルバム『フランプトン』(Frampton)をリリース、全米32位のヒットになった。

 

 

1976年、前年の全米ツアーの模様を収録した2枚組ライヴアルバム『フランプトン・カムズ・アライヴ! 』(Frampton Comes Alive!)がアメリカのアルバムチャート「Billboard 200」で計10週もの間1位を占め、また全英6位を始めとする各国でチャートイン、全世界で1,000万枚を売り上げる驚異的な大ヒット作となる。さらに、全英10位・全米6位になった“ショウ・ミー・ザ・ウェイ”(Show me the way)、全英43位・全米12位の“君を求めて”(Baby, I Love Your Way)、全英39位・全米10位に達した“ライク・ウィ・ドゥ”(Do You Feel Like We Do)の3作がシングルとして大ヒットしたこともあり、年間通してこのアルバムは莫大なセールスを記録した。この結果、ロック界ではライブアルバムがブームとなり、他のミュージシャン達もこぞってリリースした。 また、この作品の成功を機に、アメリカではアルバムのビッグセールス時代が始まったといわれる。

 

 

 

 

 

1977年、アルバム『アイム・イン・ユー』(I'm in You)が全英19位・全米2位になり、タイトルトラック“アイム・イン・ユー”(I'm in You)も全米2位に到達するなどのヒットを放ち、"Signed, Sealed, Delivered (I'm Yours)"も全米18位にチャートインした。

 

 

同年、ビージーズのギブ兄弟らと映画『サージェント・ペパーズ』(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)にも出演した。

 

1978年10月に来日。

 

1979年5月30日、アルバム『Where I Should Be』をリリース、全米19位に到達。また、シングルカットされた"I Can't Stand It No More"が全米14位を記録した。

 

 

 

1970年代は稀に見る大成功を収めるも、若さ故に経済観念が乏しく、業界の大人達に巧妙な手段で操られ、レコード印税やコンサート収益など殆どを搾取され、僅かな身銭のみとなってしまう。

 

1980年代に入ってからはセールスには恵まれなかったものの、コンスタントに作品をリリースし続けていた。

 

1981年5月14日、アルバム『Breaking All the Rules』をリリース、全米43位。

 

1986年、アルバム『Premonition』からのシングル“Lying”がビルボードのメインストリーム・ロック・チャートで最高位4位を記録し、久々のヒットとなる。

 

 

1987年、旧知のデヴィッド・ボウイのアルバム『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』にギタリストとして全面的に参加、その後のツアー「グラス・スパイダー・ツアー」にもギタリストとして同行した。

 

1988年、中森明菜のアルバム『Femme Fatale』に、ゲスト・ギタリストとして参加。また、これ以外にも、スティーヴィー・ニックスのツアーにもギタリストとして参加している。

 

1990年代には小さなクラブ周りを続ける。

 

1991年、スティーヴ・マリオットと再会し、共同でアルバムを作る計画を立てる。

同年4月20日、マリオットがエセックスの自宅にて死亡。海外旅行から帰宅した彼が、たばこの火を付けたまま寝込んでしまったことが原因となる火災で焼死した。

 

1994年、生前のマリオットと共作した曲“アウト・オブ・ザ・ブルー”(Out of the Blue)を含むアルバム『ピーター・フランプトン』(Peter Frampton)を発表する。

 

 

 

1995年、『フランプトン・カムズ・アライヴ!』の続編に当たるライブ・アルバム『フランプトン・カムズ・アライヴII』 (Frampton Comes Alive II)をリリース。この時期になると彼のギターは円熟味を増し、ギターレジェンドの一人に数えられるようになった。

 

2001年、マリオットの他界から10年が経ったこの年に行われた「スティーヴ・マリオット・メモリアル・コンサート」にて、ハンブル・パイの一時的な再結成に参加。

 

2006年、多数のゲストを迎えてのインストゥルメンタル・アルバム『Fingerprints』を発表。フランプトンは同作で自身17年ぶりのBillboard 200入りを果たし、ラリー・カールトンらをおさえて、2007年の第49回グラミー賞で最優秀ポップ・インストゥルメンタル・アルバムに選出される。

"Cornerstones"では。チャーリー・ワッツとビル・ワイマンという今や懐かしい元ストーンズのリズム隊が参加している。

 

 

 

2010年、4年ぶりのアルバム『サンキュー ミスター・チャーチル 』(Thank You Mr Churchill)を発表。このアルバムには、北朝鮮拉致被害者の横田めぐみに捧げられた曲“Asleep At The Wheel”と“Suite: Liberte” の前半部分“Megumi”が収められている。

 

 

 

 

2016年、活動50周年を迎え、アルバム『Acoustic Classics』を発表。

 

2019年2月23日、米CBS放送のモーニング・ショー『This Morning』に出演し、自身が筋肉に慢性的な炎症/変性が生じ、筋力が徐々に低下する難病の封入体筋炎の診断を受けていること、病気の進行に伴って今後ギタープレイへの影響が予想されるため、同年夏のツアーが最後となる旨を発表した。

同年6月7日、ブルーズの楽曲を取り上げたカヴァー・アルバム『All Blues』を発表。全米183位にチャートインした。

 

 

 

2021年4月23日、アルバム『Frampton Forgets the Words』をリリース。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ピーター・フランプトン」「Peter Frampton」「ザ・ハード(バンド)」「ハンブル・パイ」