倉沢 淳美(くらさわ あつみ/1967年4月20日~)は、日本のタレント、歌手、女優。

 

 

 

神奈川県相模原市出身。

堀越高等学校卒業、日本女子体育短期大学保育科卒業。

 

出生地は川崎市。4歳の時に川崎市から相模原市へ移る。

小学生時代はサッカーをやっていた。

小学5年生から中学2年までピアノを習っていたこともあり、子どもの頃の将来の夢はピアノの先生か歌手だったという。子どもの頃から歌うことは大好きであり、地元・相模原市の「桜まつり」で毎年歌っていたことがあった。

 

中学生の時に歌手のものまねが得意になり、中学1年生の時にTBS『欽也のそっくりベスト10』に予選を通過して出場、松田聖子の曲“夏の扉”を歌って79点で合格。この時に観ていた芸能事務所の社長からスカウトされ、所属することとなり、芸能界入り。

 

 

1982年、『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS)のオーディションに合格するが、同番組出演者の佐藤B作・小西博之らとのバランスを考えた上で、萩本欽一の判断によりテレビ朝日の番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』へ異動。

9月、『欽ちゃんのどこまでやるの!』に初出演、「萩本家3人娘」の成長に伴い登場する三つ子設定のユニット「わらべ」を、「のぞみ」役の高部知子、「たまえ」役の高橋真美とともに組み、「かなえ」役で芸能界にデビューした。

10月13日、この日放送回のエンディングにて“めだかの兄妹”が初披露。たちまち子どもたちの間で流行し始め、幼稚園関係者からも楽譜を求める問い合わせが殺到する。

12月21日、坂本龍一編曲による最初のシングル“めだかの兄妹”(作詞:荒木とよひさ/作曲:三木たかし)がフォーライフ・レコード(現:フォーライフミュージックエンタテイメント)よりリリースされた。翌年1月のシングル化が決まったが、反響の大きさから予定を前倒した。オリコンの週間チャート最高位3位を記録、1983年年間チャートでは第3位のロングヒットとなった。

その後、高部が「ニャンニャン事件」のために番組を降板、ユニットからも脱退したため、3人体制でリリースしたシングルはこれが最初で最後となった。

 

 

1983年3月5日、わらべ初のアルバム『のぞみ・かなえ・たまえ めだかの兄妹』をカセットテープでリリース。

12月21日、2枚目のシングル“もしも明日が…。”(作詞:荒木とよひさ/作曲:三木たかし/編曲:佐藤準)がリリース。高橋とのデュオとなったが、前作“めだかの兄妹”を上回る売上を記録し、オリコン1984年度年間シングルチャート第1位となる大ヒット曲となった。

 

 

 

1984年3月5日、わらべのアルバム『もしも明日が』をLP・カセットでリリース。

3月21日、「倉沢淳美」名義で、シングル“プロフィール”(作詞:売野雅勇/作・編曲:井上大輔)をリリースしてソロ歌手デビュー。オリコン4位。

 

同曲はタイトル通り倉沢の生年月日・身長・性格・身体的特徴などを歌詞に盛り込んでおり、16歳という年齢を歌った松本伊代のデビュー曲“センチメンタル・ジャーニー”と同様、歌手のプライバシーが織り込まれた楽曲として一部で話題になった。そのためNHKでは“センチメンタル〜”同様自己宣伝になるという理由で歌う事が出来ず、B面の楽曲“内気なくらい優しくどうぞ”(作家はA面と同じ)を歌った事もあった。

 

4月8日午後3時45分頃、札幌市で開催されたサイン会会場で、会終了後に会場玄関にてファンの見送りと握手をしていたところに、サイン会に参加していた男から突然、刃物で斬り付けられ右手首を約6cm切る傷を負った。犯人は26歳の会社員で警察の取調べに対し「『のぞみの分まで頑張る』とか言って生意気だから切った」と供述した。

5月23日、ファースト・ソロアルバム『メッセージ』がリリース。

 

7月11日、2枚目のソロシングル“ある愛の詩”(作詞:康珍化/作・編曲:馬飼野康二)をリリース。オリコン17位。

 

10月25日、2枚目のソロアルバム『プライベート』がリリース。

12月12日、わらべ3枚目のシングル“時計をとめて”(作詞:荒木とよひさ/作曲:三木たかし/編曲:松武秀樹)がリリースされた。オリコン週間最高6位・1985年度年間79位を記録したが、以前ほどの大ヒットとはならなかった。これがわらべとして最後のシングルとなった

 

 

1985年2月14日、4枚目のソロシングル“卒業”(作詞:売野雅勇/作曲:林哲司/編曲:萩田光雄)がリリース。同年は倉沢の他に、尾崎豊・斉藤由貴・菊池桃子の計4人が同名異曲をシングルリリースし、大きな話題を呼んだ。卒業式シーズンになると、いわゆる「卒業ソング」が、毎年発売されるきっかけとなった。

 

3月の番組のリニューアルとともに、わらべも解散。

3月25日、3枚目のソロアルバム『卒業』がリリース。

5月29日、5枚目のソロシングル“六月の花嫁”(作詞:森雪之丞/作曲:吉田拓郎/編曲:武部聡志)がリリース。キリンレモン・オレンジ キャンペーンソング。

 

9月25日、4枚目のソロアルバム『ベルビティ』がリリース。

12月21日、ソロ初のベストアルバム『SWEET ANGEL ATSUMI BEST』がリリース。

 

 

1986年6月10日、7枚目のソロシングル“優しくてもサヨナラ”(作詞:ありそのみ/作曲:いけたけし/編曲:寺田十三夫)がリリース。表題曲はTBS系『まんがなるほど物語』エンディングテーマ、B面の“どんな時でも…”(作家はA面と同じ)は同オープニングテーマ。

 

萩本欽一の教えもあり、学業優先で大学に進学したが、合格記者会見時に「芸能界の仕事がだめでも食べるのに困らないように進学した」と述べて、物議を醸した。

 

 

1987年4月25日、9枚目のソロシングル“元気ですか”(作詞:田口俊/作曲:和泉常寛/編曲:戸塚修)がリリース、表題曲はTBS系『まんがなるほど物語』エンディングテーマ。

 

9月25日、10枚目のソロシングル“センチメンタル・ミニ・ロマンス”(作詞:吉元由美/作曲:和泉常寛/編曲:新川博)がリリース。TBS系『まんがなるほど物語』オープニングテーマ。B面“ピンクな瞳でタッチダウン”(作家はA面と同じ)は同番組エンディングテーマ。現在、本曲が最後のソロシングルとなっている。

 

 

 

1995年11月17日、わらべのベストアルバム『めだかの兄妹〜わらべ全曲集〜』リリース。

 

その後、オーストラリア人男性と結婚して渡豪。専業主婦のかたわら、時折わらべの再結成等でテレビ出演している。3児(長男・長女・次男)の母でもある。

 

 

2008年3月19日、ソロデビュー後のシングルA・B面を網羅したベストアルバム『シングル・コレクション 〜スゥィート・エンジェル〜』リリース。

 

 

2011年8月、ドバイのパーム・アイランドに在住。

 

 

2013年6月18日、ドバイでの暮らしぶりがテレビ番組『世界の日本人妻は見た!』で放送された。

 

 

2016年2月24日、「欽どん」からデビューしたイモ欽トリオとわらべの代表曲を集めたコンピレーションアルバム『イモ欽トリオ&わらべゴールデン☆ベスト~欽ドン! 欽どこ! ?秘蔵っ子! ! ~』がリリース。わらべの楽曲は、“もしも明日が”、“レンゲ畑でいねむりしたら”、“黄色いボタン”、

“めだかの兄妹”、“昔むかしは・・・”、“時計をとめて”、“ここへおいでよ”、“How to 悲しみのクッキング”を収録。

 

8月、テレビ番組『思い出のメロディ』で萩本等と共演、高橋とともに「わらべ」として、“もしも明日が…。”を歌唱した。

 

 

2020年7月9日、テレビ番組『直撃!シンソウ坂上』でドバイでの生活の模様が放送された。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「倉沢淳美」「わらべ」