スティーヴ・ハウ(Steve Howe/本名:Stephen James Howe/1947年4月8日~)は、英国ロンドン出身のギタリスト。イエス、エイジアでの活動が有名。

 

 

スティーヴ・ハウはロンドン北部地域で生まれ、フィリップとジョンの兄弟、そして妹のステラがいる中流階級の家庭で育った。

 

1964年、「シンディキャッツ」というビート・バンドでプロ・デビュー、シングルを何枚か発表。

 

1965年、キース・ウェストなどとともに「ジ・イン・クラウド」を結成。

 

1967年にグループ名を「トゥモロウ」(Tomorrow)と改め、サイケデリックなサウンドで注目を集めた。後に英国のサイケデリック・ロック界の大物となるトゥインクとともに活動。

 

 

1968年、アルバム『トゥモロウ』(Tomorrow)発表、キース・ウェスト主演のロック・オペラ作品『A Teenage Opera』にも携わる。

その後はボダスト、P・P・アーノルドやデラニー&ボニーのツアー・バンドなどに在籍した。

 

1970年4月の公演後に解雇されたピーター・バンクスに替わりイエスに加入。7月からの欧州各地を含む数々のコンサートや、翌1971年3月からの初の本格的英国ツアー全16回に参加。

 

1971年3月19日、3rdアルバム『イエス・サード・アルバム』(The Yes Album)を発表、全英4位・全米40位。“アイヴ・シーン・オール・グッド・ピープル”(I've Seen All Good People)の前半部分“ユア・ムーヴ〜心の光〜”(Your Move)はシングル・カットされスマッシュ・ヒットとなった。ハウのお披露目となったアコースティック・ギター・ソロ“クラップ”(Clap)はライヴ録音で、敬愛するチェット・アトキンスの影響を素直に表現したカントリー・ピッキングの技巧が聴ける。

6月頃、初のアメリカ・ツアーを実施。

 

 

 

7月31日のライヴ後にトニー・ケイが解雇、元ストローブスのリック・ウェイクマン(Key)が加入。

 

1971年11月26日、英国で4thアルバム『こわれもの』(Fragile)を発売、アート・ワークにロジャー・ディーンを初起用し、全英7位・全米4位。“ラウンドアバウト”(Roundabout)がヒットした。

 

 

 

1972年9月13日、5thアルバム『危機』(Close to the Edge)を発表、全英4位・全米3位と、バンド初の大ヒットを記録。LP両面で3曲というイエスにとって初の大作主義的傾向を打ち出した作品で、シングルカットされた“同志” (And You And I)が全英4位・全米42位に到達した。プログレッシブ・ロックにおける一つの到達点ともされる。

 

 

ビル・ブルーフォード(Ds)が同アルバムを最後に脱退、キング・クリムゾンに加入する。後任は、ジョン・レノンのプラスティック・オノ・バンド等のセッションで活動していたアラン・ホワイト。

 

1973年10月26日、アルバム『海洋地形学の物語』(Tales from Topographic Oceans)を発表。同年の初来日公演中にアンダーソンが読んでいたヒンドゥー教僧侶の著書からインスパイアされ、ツアー中にハウと構想をまとめた作品。LPレコード2枚組で各面1曲、計全4曲という構成。全英1位・全米6位。

 

 

 

1974年5月、リック・ウェイクマンが脱退。

ウェイクマンの後任候補としてギリシャ人のヴァンゲリスの名が挙っていたが実現せず。プログレッシブ・バンド「レフュジー」のスイス人キーボード奏者パトリック・モラーツが参加した。

 

1975年8月、アルバム『リレイヤー』(Relayer)を発表。「戦争と平和」(トルストイの著作とは無関係)を主題とし、モラーツはフュージョンの要素を多く持ち込んだ。 “サウンド・チェイサー”

(Sound Chaser)でハウの長いギターソロを聴くことができる。全英4位・全米5位。

 

 

 

この時期、1976年まで続く精力的なツアーを行い、メンバー全員がソロ・アルバムを発表し、コンピレーション『イエスタデイズ』の発表も行っている。

1975年、ハウもアルバム『ビギニングス』(Beginnings)でソロデビューを果たす。

 

 

1976年、新作アルバム制作のリハーサルがスイスで始められたが、音楽性の相違や諸々の問題が表面化してモラーツが脱退し、セッション・マンとして招かれたウェイクマン(Key)が結局正式メンバーとして復帰、レコーディングもそのままスイスで遂行された。

 

1977年7月15日、8thアルバム『究極』(Going for the One)を発表。ジャケット・アートをシュールなフォトコラージュのヒプノシスへ切り替え、セルフ・プロデュースで制作された。全米1位・全米7位。“不思議なお話を”(Wonderous Stories)がリカットされ、トップ10ヒットとなる。

 

 

 

1978年9月8日、アルバム『トーマト』(Tormato)を発表。楽曲のコンパクト化をより推し進め、歌詞のテーマも身近で手軽なものを多く取り上げた作品となった。全英8位・全米10位。

 

 

1978年はイエス結成10周年でもあり、回転する円形ステージのライヴもこの頃に開始した。

 

1979年、パリで始めた新作のリハーサルが頓挫し、アンダーソンとウェイクマンが脱退。ポップ・デュオ「バグルス」の二人、トレヴァー・ホーン (Vo)とジェフ・ダウンズ (Key)を迎え入れる。

同年、2ndソロアルバム『スティーヴ・ハウ・アルバム』(The Steve Howe Album)、全英68位。

 

1980年、アルバム『ドラマ』(Drama)を発表、欧米ツアーを行うが、評価も観客動員も良い結果を残せなかった。ツアー後にトレヴァー・ホーンが脱退、スクワイアとホワイトもジミー・ペイジとバンドを結成するため離脱。こうした状況に、ハウはイエス再編も考えたが、当時のマネージャー、ブライアン・レーンの助言もあり新バンド、エイジア結成へシフト。イエスは活動を停止。

 

エイジアのメンバーは、ジョン・ウェットン(Vo,B/元キング・クリムゾン、ロキシー・ミュージック、U.K.)、スティーヴ・ハウ(G,Vo/元イエス)、カール・パーマー(Ds/元エマーソン・レイク・アンド・パーマー)、ジェフ・ダウンズ(Key/元バグルス、イエス)。バンド名はレーンが提案したエイジア(Asia)となった。世界的なキャリアや知名度を得ていたミュージシャンが集まったため、デビュー時点からスーパーグループとして注目された。

 

1982年3月8日、エイジアは1stアルバム『詠時感〜時へのロマン』(Asia)でデビュー、イエス無き後のレーンのマネージメントするバンドとして、ロジャー・ディーンのアートワークとバンド名のロゴも採用された。本作で全米1位を9週間獲得し、年間アルバム・チャートでもNo.1に輝く大ヒット作となった。なお、英国では最高11位。シングル“ヒート・オブ・ザ・モーメント”(Heat of the Moment)も全米4位に到達した。

 

 

 

 

1983年、エイジアの2ndアルバム『アルファ』を発表。だがウェットンとダウンズの作曲チーム中心となり、初期主要メンバーのハウが作曲に参加した作品は収録されず。シングル“ドント・クライ”(Don't Cry)が全米10位、全米ロックチャート1位となり、アルバムも全米6位となる。しかし前作の1/5程の売上に留まり、ツアーの観客動員数も減少。バンド内で軋轢が始まる。

 

 

同年の初来日ツアー前、ウェットンがアルコール依存症を理由で解雇される。後任にはヴォーカルとベースを兼任できるグレッグ・レイク(元キング・クリムゾン、エマーソン・レイク・アンド・パーマー)を招集。元エマーソン・レイク・アンド・パーマー、元イエスが各2人の編成になる。

その後、日本の三重県志摩市のヤマハの合歓の郷で1ヶ月に渡るリハーサルが行なわれた。

12月6日、ワールドツアーが日本から開始、日本国内では4公演が開催された。

12月7日、MTVの企画で日本武道館公演の模様を衛星生中継する『ASIA in ASIA』を実施。本公演は米国での放送時間に合わせ日本の平日昼間に演奏時間も短く行われ、入場料は安く設定された。同公演はテレビ神奈川(TVK)でも同日14:00-14:54に特別番組として一部同時生中継された。後に、この模様は『エイジア・イン・エイジア/ライブ・イン・武道館』としてビデオテープ、レーザーディスクで市販された。

同年、イエスは『ロンリー・ハート』(90125)をリリース、“ロンリー・ハート”(Owner Of A Lonely Heart)が全米Billboard Hot 100における1位を獲得した。

 

1984年、エイジアにウェットンが復帰。だがハウとの仲がうまくいかず、サード・アルバムのリハーサル中に今度はハウが脱退した。

 

エイジアを辞めたハウは、元ジェネシスのスティーヴ・ハケット(G)と組んで「GTR」(「GUITAR」の略語)を結成。メンバーは他に、マックス・ベーコン(Vo/元ナイトウィング、ブロンズ、マイク・オールドフィールド)、フィル・スポルディング(B/トーヤ、マイク・オールドフィールド、ミッシェル・ポルナレフ)、ジョナサン・ムーヴァー(Ds/元マリリオン)。

 

1986年、GTRはシングル“ハート・マインド” (When the Heart Rules the Mind)とアルバム『GTR』をリリース、ともに全米15位以内に入り、アルバムはプラチナ・レコードを獲得した。

 

 

 

しかし、ライヴツアーの後、ハケットが脱退。後任にロバート・ベリー(G,Vo/後にキース・エマーソン、カール・パーマーと「3(スリー)」を結成)を迎え「ネロトレンド」と改名して再開するが、今度はヴォーカルのマックス・ベーコンが脱退。結局、GTRは1年ほどの活動で解散した。

 

1988年、ジョン・アンダーソン(Vo)が中心となり、ビル・ブルーフォード(Ds)、リック・ウェイクマン(Key)、そしてハウと結成したイエスの分家バンド、アンダーソン・ブルーフォード・ウェイクマン・ハウ(ABWH)を結成。ベースにはキング・クリムゾンからトニー・レヴィンを起用した。マネージメントは1970年代にイエスを担当していたイエスブライアン・レーン。アルバムのジャケットも1970年代にイエスの作品を描いていたロジャー・ディーンが起用された。

 

1989年、アルバム『閃光』(Anderson Bruford Wakeman Howe)を発表。全英14位・全米30位。ライヴ・ツアーも行い、『イエス・ミュージックの夜』(An Evening Of Yes Music Plus)とのタイトルでCD化・映像化。だが、タイトルに「Yes」を使ったことで本家「Yes」と訴訟騒ぎになる。

 

1991年1月30日、ハウが参加したクイーンのアルバム『イニュエンドウ』がリリース。

 

ABWHはアルバムとシングルのヒットと、ツアーの好評を受けて、次のアルバム『ダイアログ』(Dialogue/未発表)のレコーディングに入る。しかし、楽曲数不足のため、アンダーソンはラビンに楽曲提供を依頼。ラビンもこの依頼に応えて楽曲を提供。この流れでスクワイアがコーラスとしてABWHの曲に参加。結局、二つのバンドは合流してイエスとなる。そして、ほぼ録音が完了していたABWHの『ダイアログ』に「90125イエス」側の新作4曲を加えて再編集し、1991年4月30日、アルバム『結晶』(Union)を発表、イエス名義で発表された本アルバムは、正式メンバー8名+トニー・レヴィン、ビリー・シャーウッドら多数のサポート・メンバーによって制作された。

ハウ作の“マスカレード”(Masquerade)がグラミー賞ベスト・ロックインストゥルメンタル・パフォーマンスにノミネート。アルバムに伴うツアーは小説『80日間世界一周』をモチーフに「Round the World in 80 Days」と名づけられ、8人の正式メンバーで敢行、大いに盛り上がった。

 

 

 

8人編成イエスのツアー終了後、ブルーフォードが脱退。またレーベル側の意向で、次作にハウが召集されなかった。さらにウェイクマンが自身のソロ活動との両立が難しいと判断して脱退した結果、イエスの編成は90125バンドの5人のメンバーに戻り、1994年にアルバム『トーク』(Talk)を発表。日本を含むワールド・ツアーが催されたが、ツアー後にラビンとケイが脱退。

 

1996年、ラビンとケイの後釜に、ハウとウェイクマンが復帰。イエスのオフィシャル・サイト「Yes World」は「Yes Know」のタイトルで、アンダーソン、スクワイア、ホワイト、ハウ、ウェイクマンでのイエス復活を発表し、同年3月にカリフォルニア州のサン・ルイス・オビスポの劇場にて、この編成での復活ライヴ(3度の公演)を行なった。

同年、ソロアルバム『ホームブリュー1』(Homebrew )発表。

 

 

1997年、アルバム『キーズ・トゥ・アセンション2』を発表。

アルバムに伴うツアーが計画されていたがマネジメントの問題でスケジュールが決まらず。

5月、ウェイクマン4度目の脱退が正式発表され、ツアー予定はキャンセルされた。後任のキーボーディストに、ロシア出身のイゴール・コロシェフをツアー用メンバーとして採用。その後、正式メンバーとなったビリー・シャーウッド(G,Key,Vo)が最終ミックスダウンを行ったアルバム『オープン・ユア・アイズ』(Open your eyes)を発表した。

 

1999年、バンドはプロデューサーにブルース・フェアバーンを迎えてアルバム『ラダー』(The Ladder)を発表。本アルバムではコロシェフは正式メンバーに昇格している。その後シャーウッドが自分の活動に専念するため脱退。

 

2001年、オーケストラとの共演アルバム『マグニフィケイション』(Magnification)を発表。更には欧米でオーケストラとの共演のツアーを実現した。

 

マグニフィケイション・ツアーを終えたイエスは、ウェイクマンの復帰を発表。その後、イエスは2002年のクラシック・ツアー、2003年のフルサークル・ツアー、2004年の35周年記念ツアーと大規模なツアーを行った。

 

ソロ活動は1970年代から行ってはいるが、バンド活動と並行して精力的に開始したのは1990年代に入ってからである。

 

2005年、「今年はツアーをやりたくない」というアンダーソンの意向を受けて、イエスはグループとしての活動を停止し、メンバーはソロ活動に入った。また、ウェイクマンが、公式に次のイエスの活動には参加しないことを表明した。

 

2006年、エイジアのオリジナル・メンバーによる再結成に参加、精力的にライヴツアーを行う。

 

2007年、長男ディラン・ハウ(Ds)、ハモンド・オルガン奏者のロス・スタンリーと「スティーヴ・ハウ・トリオ」を結成、2008年にかけてヨーロッパをツアーした。なお、ディラン・ハウのドラムの先生はビル・ブルーフォード。

 

またキーボード奏者である次男ヴァージル・ハウ、それとディラン・ハウをメンバーに加えたファミリー・バンド「スティーヴ・ハウ・レメディ」としても活動を行なっている。ヴァージル・ハウはその後(2008年)に、ドラマーとしてリトル・バーリーのメンバーになっている。

 

2008年4月、エイジアが新作アルバム『フェニックス』(Phoenix)を発表。

同年夏、イエス久々の再始動となるアメリカ・ツアーを交え、エイジアとしても2013年に脱退するまで活動を継続していた。

 

2009年のイエスとエイジアの合同アメリカツアーでは、両バンド在籍者として全編の演奏を務めあげ、2010年はイエス、エイジア、スティーヴ・ハウ・トリオのツアーに参加して世界中を飛び回るなど、60歳を過ぎてなお精力的な活動を展開。

 

2010年、ソロアルバム『コンプリート・オブ・ホームブリュー』(Complete of Homebrew )発表、『Homebrew』シリーズ1から4までを収録。

同年、エイジアのアルバム『オメガ』(Omega)を発表。

 

2011年、アルバム『フライ・フロム・ヒア』(Fly from Here)を発表。

 

 

2013年1月、ハウが再度エイジアを脱退。

同年、ソロアルバム『Homebrew 5』発表。

 

2014年、アルバム『ヘヴン&アース』(Heaven & Earth)を発表。

 

 

 

2015年、ソロのベストアルバム『アンソロジー』(Anthology)発売。

 

2016年、ソロアルバム『Homebrew 6』発表。 

 

2018年、アルバム『フライ・フロム・ヒア:リターン・トリップ』(Fly from Here : Return Trip)を発表、2011年作をリミックスし、歌唱を元ボーカルのトレヴァー・ホーンが担当した作品。
 

2020年、ソロアルバム『Love Is』発表。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「スティーヴ・ハウ」「イエス」「エイジア」「GTR」「Steve Howe」「Yes」「Asia」

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