スライ・ストーン(Sly Stone/本名:Sylvester Stewart/1943年3月15日~)は、アメリカ合衆国のミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー。スライ&ザ・ファミリー・ストーンのリーダー。

 

 

シルヴェスター・スチュアートは5人兄弟姉妹の第2子としてテキサス州デントン(Denton)に生まれ、カリフォルニア州ヴァレーホ(Vallejo,)に育った。

ヴァレーホに移ってから、彼は弟フレディや、妹のローズ(ロージー)とヴィエタ(ヴェット)とともにザ・スチュアート・フォーというバンドを結成して教会でゴスペルを歌うようになる。

 

ニックネームの「スライ」(Sly)は、小学校の時につけられたもの。彼が小学校に通っていた早い段階で、クラスメートは彼の名前「シルベスター」(Sylvester)の綴りを「スライベスター」(Slyvester)と間違え、それ以来、「スライ」(Sly)が彼のニックネームになった。

 

1952年、シングルレコードをリリースした。姉ロレッタを除き、スチュアート家の子どもは後に全員「ストーン」という苗字を名乗り、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのメンバーとなった。 

 

やがて彼は複数の楽器(主としてギター)を演奏するようになり、高校時代には複数のバンドに参加した。それらのバンドの一つがドゥーワップグループ「ザ・ヴィスケインズ」であり、メンバーはシルヴェスターとフィリピン系の友人フランク・アレラーノを除いては全員が白人だった。人種混合バンドであることがザ・ヴィスケインズを「いかした」ものにした。そして、この時の経験に基づき、彼は後にスライ&ザ・ファミリー・ストーンを結成する。

ザ・ヴィスケインズは"Yellow Moon"や"Stop What You Are Doing"など少数のローカルシングルを出した。同じ時期、彼は「ダニー・スチュアート」という芸名で少数のソロシングルを録音してもいる。

 

スライは高校を卒業してから地元のコミュニティカレッジに進み、音楽理論を学ぶ。

1963年、カレッジ卒業後、彼はカリフォルニア州オークランドのラジオ局KSOL(後にはKDIA)でDJを務め、傍らでオータムレコードでレコードプロデューサーを務めた。この時に手がけたバンドには、「ザ・ボー・ブランメルズ」や「ザ・モジョ・メン」、「ザ・グレイト・ソサエティ」がある。

 

1966年、芸名「スライ・ストーン」を名乗り、トランペット奏者のシンシア・ロビンソンを含め「ザ・ストーナーズ」というバンドを結成した。

同年末、スライは、シンシアとともに、アフリカ系のフレディ・ストーン(G,Vo)とラリー・グラハム(B,Vo)、イタリア系のグレッグ・エリコ(Ds)とジェリー・マーティーニ(Sax)とともに「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」(Sly and the Family Stone)を結成。スライ自身はギターとピアノとハーモニカ等を演奏した。

 

スライ&ザ・ファミリー・ストーンの最初のレコーディングには、ヴェット・ストーンとメアリー・マクリアリーとエルヴァ・ムートンから成るリトル・シスターがバックヴォーカルとして参加している。1968年にはロージー・ストーン(ピアノとヴォーカル)がスライ&ザ・ファミリー・ストーンの一員となった。 スライはKSOL-AMをソウルミュージックの専門局に育てた。

 

1967年10月、スライ率いるスライ&ザ・ファミリー・ストーンは1stアルバム『新しい世界』(A Whole New Thing)をエピック・レコードからリリースしてデビュー。しかしこのアルバムはチャートに顔を出すことさえなかった。

 

11月7日、シングル"ダンス・トゥ・ザ・ミュージック"(Dance To The Music)を発売すると、『ビルボード』誌「US Hot 100」(以下「全米」)8位・同誌R&Bチャートで9位に入る初のヒットとなる。

 

1968年、2ndアルバム『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』(Dance to the Music)をリリース、ヒットした先行シングルの表題曲を収録するも、『ビルボード』誌全米アルバムチャート142位・R&Bアルバムチャート11位と今一つ。

 

7月、3枚目のアルバム『ライフ』(Life)も売れ行きは芳しくなかった。

 

11月、シングル“エヴリデイ・ピープル”(Everyday People)をリリースすると、翌1969年に全米チャートとR&Bチャートの両方で1位を獲得した。

 

1969年3月、アルバムから先行シングル“スタンド!”(Stand!)を発売、全米22位・R&B23位を記録。カップリング曲“アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー”(I Want to Take You Higher)はB面ながら全米60位・R&B67位にチャートインし、後述の「ウッドストック」でも演奏された。

 

 

5月、4枚目のアルバム『スタンド!』(Stand!)を発表、全米13位・R&B3位になり、セールス面でも300万枚以上の大成功を収める。

 

8月、伝説的な大規模野外コンサート「ウッドストック・フェスティヴァル」に出演し、グループの演奏場面は映画『ウッドストック』にも収められた。 

8月発売の“ホット・ファン・イン・ザ・サマータイム”(Hot Fun in the Summertime)が全米2位、

 

12月、“サンキュー(フォレッティンミー・ビー・マイス・エルフ・アギン)”(Thank You [Falettinme Be Mice Elf Agin])をリリースすると全米・R&Bチャートともに1位になるなど、スライ&ザ・ファミリー・ストーンは音楽界最大級のビッグネームとなっていた。

 

同年秋、スライはサンフランシスコからロサンゼルスに転居した。

この頃スライは、売れ行きに関するレコード会社からの圧力、スライの音楽をもっと戦闘的にしてブラックパワー運動の影響の濃いものにしたいというブラックパンサー党やその他の黒人解放運動家からの圧力、そして、ザ・ファミリー・ストーンのメンバーたちとの個人的軋轢など、複数のストレスを抱え、麻薬中毒に侵されていく。 

 

 

1970年、ベストアルバム 『グレイテスト・ヒッツ』(Greatest Hits)リリース、全米2位・R&B1位。

 

1971年、5枚目のアルバム『暴動』(There's a Riot Goin' On)をリリース。ザ・ファミリー・ストーンのメンバーたちが全員、同時に演奏することを拒んだため、本アルバムの収録曲の大半はオーバーダビングで録音、スライが大半の楽器を自身で演奏し、通常よりも多くのリードヴォーカルを担当した。『暴動』自体はファンクの傑作アルバムとなり、全米チャート1位に到達。

10月にリリースされたシングル“ファミリー・アフェア”(Family Affair)も全米・R&Bともにナンバー1の大ヒットとなり、自身3度目の全米1位、後年に至るまで人気の一曲となった。 

 

 

同年、エリコが脱退し、アンディ・ニューマークが後任ドラマーとなった。

 

1972年初頭、前年から軋轢が生じて既に友人ではなくなっていたラリー・グラハムを解雇、ラスティ・アレンがベーシストとなった。

 

1973年、1月30日リリースのアルバム『フレッシュ』(Fresh)は全米7位・R&B1位になり、アルバムからカットされたシングル“イフ・ユー・ウォント・ミー・トゥ・ステイ”(If You Want Me to Stay)は全米12位・R&B15位を記録、ともにゴールドディスク認定を受け、高い評価も得た。

 

 

1974年7月、アルバム『スモール・トーク』(Small Talk)をリリース、本作でスライの出番が多くなった一方、他のメンバーの出番は減少した。シングル“Time for Livin'”が全米32位・R&B39位とヒットは出たものの、評論家やファンにはすでに全盛期を過ぎた印象を与えた。コンサートではドタキャンを繰り返すようになったため、プロモーターから見放されるようになった。

 

 

そして1975年1月、ラジオシティ・ミュージックホールでの公演が大失敗に終わった後、ザ・ファミリー・ストーンは完全に解散してしまった。

 

ソロ活動に入ったスライは、この後さらに4枚のアルバムを出した。

1975年、アルバム『ハイ・オン・ユー』(High on You)をスライのみの名義でリリース。残りの3枚はスライ&ザ・ファミリー・ストーン名義である。

 

 

1976年、アルバム『Heard Ya Missed Me, Well I'm Back』をリリース、クレジットはスライ&ザ・ファミリー・ストーン。

 

“Love and Affection”がシングルリリースされ、全英10位になった。

 

1979年、ワーナーに移籍し、最初のアルバム『Back on the Right Track』をスライ&ザ・ファミリー・ストーン名義でリリース、全米152位・R&B31位。シングル“Remember Who You Are”も全米104位・R&B38位、“Who's to Say”はランク外に終わる。

 

 

1981年、ファンカデリックのアルバム『エレクトリック・スパンキング・オブ・ウォー・ベイビーズ』(The Electric Spanking of War Babies)で彼らと共演したものの、傾いたキャリアを立て直すことはできなかった。 

 

1982年、アルバム『Ain't But the One Way』をスライ&ザ・ファミリー・ストーン名義で発表。

 

1984年夏、スライはボビー・ウーマックと短期のツアーを開始した。そしてコンピレーションアルバムや他の複数アーティストたちのレコードに時々登場することもあった。

 

1986年、スライはザ・タイムのメンバーのジェシー・ジョンソンによるソロアルバム『ショッカデリカ』に収録された1曲“クレイジー”に登場、同曲のMVではキーボードとヴォーカルを担当し、ブラック・エンターテインメント・テレビジョンの音楽番組でオンエアーされた。 

同年、スライはシングル“イーク=ア=ブー・スタティック・オートマティック”(Eek-a-Boo Static Automatic)をリリース、1987年公開の映画『ソウル・マン』のサウンドトラックに提供した。

 

1987年頃、スライは半引退状態となり、隠遁生活に入った。

 

1989年にはバーケイズのアルバムのために“ジャスト・ライク・ア・ティーター=トッター”を共作し、共同でプロデュースもしている。

 

1990年、スライはアース・ウィンド・アンド・ファイアーの“グッド・タイム”に参加し、力強い歌声を披露した。

 

1991年、彼は日本のバンド「13キャッツ」による“サンキュー(フォレッティンミー・ビー・マイス・エルフ・アギン)”のカヴァーに登場した。

 

1993年、ボビー・ウーマックのアルバム『アイ・スティル・ラブ・ユー』に収められた1曲“ウェン・ザ・ウィークエンド・カムズ”でウーマックとともにリードヴォーカルを担当している。

同年、スライ&ザ・ファミリー・ストーンがロックの殿堂入りを果たした際のセレモニーに登場し、ザ・ファミリー・ストーンの他のメンバーたちと一緒にステージに立って皆を驚かせた。

 

1997年、息子シルヴェスター・ジュニアが『ピープル』誌の取材に応えたところによると、スライはアルバムが出せるほどの新曲を作り続けているという。その中には、マイルス・デイヴィスに捧げた“マイルス・アンド・マイルス”という曲も含まれている。 

 

2003年、ザ・ファミリー・ストーンの初代メンバーたち6人が新しいアルバムを録音しようとスタジオに集まったが、この時に参加を求められたスライは拒絶している。 

 

2007年、スライは2名の女性アシスタントとともにナパヴァレーで居住。ホームスタジオで録音することもあれば、趣味でオートバイに乗ることもある。自宅で録音された曲のいくつか(1980年代後期の作品と考えられている)はスライの歌とキーボードとドラムの演奏が入った形でブートレグとして出回っている。

 

2005年8月15日、スライは妹ヴェットとともにスライ&ザ・ファミリー・ストーンのトリビュートバンド「ファンク・ファミリー・アフェア」と共演。スライのウェブサイトによると、彼はファンク・ファミリー・アフェアのために新曲を書いてプロデュース、このバンドをファミリー・ストーンと改名した。

 

2005年7月12日、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのトリビュートアルバム『リ・スライ〜ディファレント・ストロークス・バイ・ディファレント・フォークス』がスターバックスのヒアーミュージックレーベルから出たこのアルバムの内容は原曲のカヴァーとサンプリング作品であり、スティーヴン・タイラー、ジョン・レジェンド、ヴァン・ハント、ロバート・ランドルフなどが参加している。 

 

2006年2月7日、エピックレコーズから『リ・スライ〜ディファレント・ストロークス・バイ・ディファレント・フォークス』がリリースされ、エピック盤では“ドント・コール・ミー・ニガー、ホワイティ”、“サンキュー(フォレッティンミー・ビー・マイス・エルフ・アギン)”の2曲が加わった。

2月8日、トリビュートアルバムに参加したミュージシャンたちが2006年度グラミー賞授賞式の会場に集まりスライの曲を演奏。この時スライも会場に現れ“アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイヤー”の演奏に参加した。彼がライヴを行ったのは、1987年以来初めてのことである。短時間ではあったが、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのオリジナルメンバー(ただしラリーを除く)が一堂に会して演奏した。 

 

2007年1月14日、スライは彼のサポートバンド「ザ・ニュー・ファミリー・ストーン」のハウス・オブ・ブルーズ公演に短時間出演した。

4月1日、スライはザ・ファミリー・ストーンのメンバーとともにフラミンゴ・ラス・ヴェガス・ショールームに出演した。前座はジョージ・ウォレスの漫談だった。 

7月7日、スライはザ・ファミリー・ストーンとともにサンノゼのカリフォルニアサマーフェストに短時間出演、“シング・ア・シンプル・ソング”と“イフ・ユー・ウォント・ミー・トゥ・ステイ”を歌い、“ハイヤー”を歌い終える前に舞台から降りた。彼は全盛期と変わらぬ力強い歌声を披露した。

 

2009年6月30日、ウッドストックに参加した5組のウッドストックでのライヴパフォーマンスとスタジオアルバムを集めたCD10枚組ボックス『The Woodstock Experience』に、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが選ばれ、スタジオバンは枚目の『スタンド!』が収録された。

同年、スライの私生活に迫るドキュメンタリー映画『Coming Back For More』が完成、同年秋にはヨーロッパで封切られた。オランダのウィレム・アルケマが監督した同映画によると、スライは1980年代にマネージャーと「楽曲の権利を譲る代わりに一定額の給与と経費を支払い続ける」という契約を結んだものの一方的に権利を奪われたまま契約を無視されたために収入源を失い、65歳となった当時、生活保護を受けながらホテルを転々として暮らしており、訴訟を起こすために弁護士を雇う費用も稼げず、ひたすら貧しい生活を送っているという。また、「惜しくも未完となってしまった故マイケル・ジャクソンのニュー・アルバムのために、スライが作曲を行っていた」ことも明らかにされている。

 

2010年1月、スライはこの元マネージャーのジェリー・ゴールドスタインをロサンゼルス高等裁判所に提訴、20年間以上にわたる詐欺・契約不履行・横領などの行為に対し、懲罰的損害賠償を含む5000万ドルの損害賠償を請求している。スライの代理人であるロバート・J・アラン弁護士によると、ゴールドスタインはスライ個人から搾取するだけでなく、スライに無断で「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」の商標名を自分の会社の名義で米国特許商標庁に登録、スライに入るべき数百万ドルの収入を横取りしたという。

同年8月、ゴールドスタインもコーチェラ・フェスティバルのステージ上でスライから中傷を受けたと主張し、名誉毀損でスライを訴えた。 

 

2011年8月、ニューアルバム『I'm Back! Family & Friends』をスライ・ストーン名義でリリース。

 

同年9月、しかしスライは浪費により再びホームレスとなり、白いキャンピングカーで生活し、支援者から食事とシャワーの世話を受けていることを報じられた。 

 

2015年1月、元マネージャーであるジェリー・ゴールドスタインに対する損害賠償を500万ドル(約6億円)で勝訴した。

 

 

 

(参照)

Wikipedia「スライ・ストーン」「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」「Sly Stone」「Sly and the Family Stone」