五木 ひろし(いつき ひろし/本名:松山 数夫[まつやま かずお]/1948年[昭和23年]3月14日~)は、日本の演歌歌手、作曲家、俳優。

 

 

京都府生まれ、福井県三方郡美浜町出身。

1963(昭和38)年3月、中学卒業の翌日、長姉を頼り単身京都へ移り、関西音楽学院に入学。

 

1964(昭和39)年5月、作曲家の上原げんとを紹介され、プロ歌手を目指し上京。上原の内弟子となり、松方弘樹らと歌を学ぶ。五木の歌が上手すぎ、松方は諦めて役者になったという。

同年9月、第15回コロムビア全国歌謡コンクールにて優勝、コロムビアの専属歌手となる。

「歌うミスター平凡」(雑誌『平凡』主催)に選抜される。

 

 

1965(昭和40)年5月5日、芸名「松山まさる」として、コロムビアから“新宿駅から/信濃路の果て”でデビュー。

同年8月、師事していた上原が軽井沢へ向かう車中で心臓発作のため急死、五木はまだ17歳だった。その後シングルを計6枚発売するもヒットに至らず。

 

 

1967(昭和42)年に日本グラモフォンへ移籍。この時期は都はるみや北島三郎らスター歌手の前座や、キャバレー回りが主な仕事で、大半は地方巡業だった。

同年4月、「一条英一」に改名して、ポリドール・レーベルから“俺を泣かせる夜の雨/流れ星”(B面は愛田健二)で再デビュー。

 

 

1968(昭和43)年、プロダクションの倒産とともに契約を解除される。

 

 

1969(昭和44)年、作曲家の遠藤実を紹介され、ミノルフォンと契約。

12月、「三谷謙」にまたもや改名して、“雨のヨコハマ/東京 長崎 札幌”(表題曲 作詞:北五郎/作曲:遠藤実)で再デビューを果たすもヒットに至らず。

 

 

1970(昭和45)年、「全日本歌謡選手権」でグランドチャンピオンに輝き、レコードデビュー権を獲得。

番組の審査員だった作詞家の山口洋子と、作曲家の平尾昌晃に師事。

1日だけ山口の命名したマツカワジュン名義で日劇の舞台に立つ。

 

 

1971(昭和46)年3月、「五木ひろし」として再々デビュー。苗字の「五木」は山口が五木寛之から借名したもので、また、「いいツキをひろおう」という意も入っている。曲は“よこはま・たそがれ”(作詞:山口洋子/作・編曲:平尾昌晃)で、 これがオリコン週間チャート1位、登場週数46週、1971年年間チャート6位、65万枚に迫る売上げを記録と大ヒット。

 

第2弾シングル“長崎から船に乗って”も最高位4位、45万枚に迫る売上げを記録。

 

同年、第4回日本レコードセールス大賞男性新人賞受賞。また“よこはま・たそがれ”で第4回新宿音楽祭金賞、第2回日本歌謡大賞放送音楽賞、第13回日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、念願のNHK紅白歌合戦(第22回)に初出場を果たす。以降、紅白は連続出場を継続中。

 

 

1972(昭和47)年、第3弾シングル“かもめ町みなと町”(作詞:山口洋子・作曲:筒美京平)は、最高位11位、登場週数18週、15万枚を超える売上げを記録。

 

第4弾シングル“待っている女”(作詞:山口洋子/作曲:藤本卓也)は、最高位6位、登場週数22週、25万枚を超える売上げを記録。この曲で第3日本歌謡大賞放送音楽賞を2年連続2回目の受賞。

 

“夜汽車の女”は、スマッシュ・ヒットに終わるが、この曲で第14回日本レコード大賞歌唱賞を2年連続2回目の受賞。

11月5日、“旅鴉”(作詞:藤田まさと/作曲:遠藤実/編曲:只野通泰)は、テレビ時代劇ドラマ『長谷川伸シリーズ』主題歌で、最高位19位、登場週数32週、15万枚を超える売上げを記録。

12月5日、“あなたの灯”(作詞:山口洋子/作曲:平尾昌晃/編曲:竜崎孝路)を発売し、最高位5位、登場週数26週、30万枚以上を売上げた。

 

 

1973(昭和48)年7月15日、“ふるさと”(作詞:山口洋子/作・編曲:平尾昌晃/編曲:竜崎孝路)は、オリコン最高位11ながら、五木のシングルとしては歴代上位に入るヒットとなった。

 

10月20日、“夜空”(作詞:山口洋子/作・編曲:平尾昌晃/編曲:竜崎孝路)は最高位4位、登場週数31週、45万枚に迫る売上げをそれぞれ記録。翌1974年、「夜空」で第11回ゴールデン・アロー賞音楽賞を受賞。

 

 

1974(昭和49)年、“別れの鐘の音”は、最高位15位、登場週数18週、15万枚を超える売上げを記録。この曲で第3回東京音楽祭国内大会ゴールデン・カナリー賞(初受賞)、世界大会外国審査員団賞(演歌系歌手としては初出場・初受賞)、第1回FNS歌謡祭'74音楽大賞上期最優秀視聴者賞(初受賞)を受賞。

 

同年、“浜昼顔”は、デビュー当初から熱望していた「古賀メロディー」を自分の持ち歌にできた曲。元は1936年7月に藤山一郎の「さらば青春」、1955年12月の青木光一の「都に花の散る夜は」をリメイクし、詩人の寺山修司が題と詞を付け直したものである。前述の“旅鴉”を除き、山口洋子以外のゲスト作詞家を迎え入れたのは自身ではこれが初めて。最高位5位、登場週数29週、40万枚に迫る売上げを記録。この曲で第5回日本歌謡大賞放送音楽賞を4年連続4回目の受賞。 

 

同年、“みれん”は最高位6位、登場週数22週、35万枚を超える売上げを記録。この曲で第2回FNS歌謡祭'74音楽大賞下期最優秀視聴者賞(2期連続2回目)、第2回FNS歌謡祭'74音楽大賞年間最優秀グランプリ(初受賞)、第16回日本レコード大賞最優秀歌唱賞(初受賞)を受賞。第7回日本レコードセールス大賞LPゴールデン賞を受賞。

 

 

1975(昭和50)年、“哀恋記”(作曲:森田公一)は、最高位10位、登場週数16週、15万枚以上の売上。同曲で第3回FNS歌謡祭'75音楽大賞上期最優秀視聴者賞を3期連続3回目の受賞。

 

5月、“千曲川”(作詞:山口洋子/作曲:猪俣公章/編曲:森岡賢一郎)オリコン6位、第17回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞 第6回日本歌謡大賞・放送音楽賞。

 

 

1976(昭和51)年、猪俣公章の作曲による第三弾“愛の始発”は、最高位10位、登場週数21週、25万枚を超える売上げを記録。

同年の勝負作として投入した“北酒場”は、「フォークの神様」岡林信康を作曲に迎え、五木が初めて取り組んだフォーク作品で、最高位13位、登場週数17週、15万枚以上の売上を記録。

 

 

1977(昭和52)年、心情演歌“風の子守唄”を最後に、師匠である山口洋子から巣立ち、本格的に外部の作詞家の作品を歌い始める。

その第一弾“灯りが欲しい”(作詞:藤田まさと/作曲:遠藤実/編曲:斉藤恒夫)では、初めて男ごころを取り上げ、最高位14位、登場週数23週、20万枚を超える売上げを記録。

 

第28回NHK紅白歌合戦に“灯りが欲しい”で3年連続3回目の白組トリ、初の大トリを務める。

 

 

1979(昭和54)年、独立を果たす。

独立後第一弾“おまえとふたり”(作詞:たかたかし/作曲:木村好夫/編曲:京建輔)は、折りからのカラオケブームに乗り、最高位3位、登場週数41週、最終的にはミリオン・セラーに至り、自身最大のヒット曲となる。同曲で第21回日本レコード大賞金賞を初受賞。第30回NHK紅白歌合戦では4回目の白組トリを務め、“おまえとふたり”を歌唱。

 

 

1982(昭和57)年、“契り”は映画(東映系)『大日本帝国』の主題歌として発表された自身初の映画タイアップ作品。其の他、改名後では初めて自らが作曲を手懸けたシングル曲であること、非・演歌であること、売れっ子作詞家の阿久悠と初めてタッグを組んだことなど、新しい試みの多い楽曲となった。最高位20位、登場週数30週、20万枚を超える売上げを記録。

 

“居酒屋”は元々、五木のLPに収録されていたソロ曲だったが、同じ徳間音工「バーボン・レーベル」所属の木の実ナナが同曲カヴァーをデュエット企画でシングル発売するに当り、相手に五木が指名された。 自身初のデュエット・シングルで、最高位29位、登場週数48週、20万枚に迫る売上げを記録。 現在もカラオケの男女デュエット・ソングの定番として人気が高い。

 

 

1983(昭和58)年、谷崎潤一郎の同名小説に材を得た文芸艶歌(つやうた)“細雪”(作詞:吉岡治/作曲:市川昭介/編曲:池多孝春)は最高位9位、登場週数33週、45万枚に迫る売上げ。

 

 

1984(昭和59)年4月、“長良川艶歌”(作詞:石本美由起/作曲:岡千秋/編曲:斉藤恒夫)は、オリコン10位。第26回日本レコード大賞・大賞 第17回日本歌謡大賞・大賞 第13回FNS歌謡祭・グランプリ受賞。

 

 

1985(昭和60)年、“そして…めぐり逢い”(作詞:荒木とよひさ/作曲:中村泰士/編曲:池多孝春)は最高位12位、登場週数38週、25万枚を超える売上げを記録。

 

 

1989(平成元)年 4月25日、久しぶりに山口を作詞に起用した“面影の郷”(作詞:山口洋子/作曲:猪俣公章/編曲:池多孝春)発売。

 

 

1990(平成2)年、正統派演歌として発売した“心”(作詞:星野哲郎/作曲:船村徹/編曲:南郷達也)は、最高位17位、登場週数26週、15万枚を超える売上げを記録。

 

 

1991(平成3)年、「財団法人 国際親善協会」の設立をプロデュース。

10月1日、20周年ゴールド・シングル“おしどり”(作詞:石坂まさを/作曲:弦哲也/編曲:前田俊明)は、翌1992年にかけて最高位15位、登場週数42週、35万枚を超える売上げを記録。

 

同年、第33回日本レコード大賞特別賞を“「財団法人 国際親善協会」及びそのプロデューサー五木ひろし”として2回目の受賞。

 

 

1995(平成7)年2月、自ら作曲を手懸けた“パパと遊ぼう”(作詞:高田ひろお/作曲:五木ひろし/編曲:ボブ佐久間)で、初めて童謡に挑戦した。

 

8月、“酒 尽々”(作詞:能吉利人/作曲:桜井順/編曲:竜崎孝路)は最高位22位、登場週数24週、20万枚に迫る売上げを記録。

同年、『五木ひろしベストコレクション'94 女ひとり』で第9回日本ゴールドディスク大賞アルバム賞演歌・男性部門を受賞。

 

 

1998(平成10)年6月24日、俳優・鶴田浩二が16枚目のシングルとして1970年12月25日にリリースした“傷だらけの人生”(作詞:藤田まさと/作曲:吉田正)をシングルカヴァー。

 

 

2000(平成12)年4月、“山河”(作詞:小椋佳/作曲:堀内孝雄/編曲:川村栄二)は小椋・堀内コンビにより中国を舞台とした大作に仕上がり、ミレニアム・シングルと銘打って発売。

 

 

2002(平成14)年、自身のレコード会社「ファイブス・エンタテインメント」を設立、長年所属してきた徳間ジャパン・コミュニケーションズから移籍。

移籍シングル第一弾“傘ん中”(作詞:阿久悠/作曲:舩村徹/編曲:蔦将包)は最高位21位、登場回数28回、10万枚に迫る売上げを記録。第35回日本作詩大賞を阿久悠(歌:五木ひろし)が受賞。

 

“愛のメリークリスマス”(作詞:阿久悠/作曲:舩村徹/編曲:若草恵)は堀内孝雄やハロー!プロジェクト(モーニング娘。など)とのデュエット企画であり、自身初のクリスマスソングである。同曲で第44回日本レコード大賞企画賞を受賞。

 

12月31日、第53回紅白歌合戦で“おふくろの子守唄”で11回目の白組トリ、5回目の大トリ。

 

 

2004(平成16)年、3月、第54回芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を文化庁より受賞

 

 

2005(平成17)年3月、“ふりむけば日本海”(作詞:五木寛之/作曲:五木ひろし/編曲:川村栄二)では芸名を頂戴した五木寛之と初コラボ。最高位14位、登場回数52回、10万枚に迫る売上げを記録した。

 

 

2006(平成18)年、京都の高瀬川を舞台に、自ら作曲した艶歌“高瀬舟”(作詞:水木れいじ/作曲:五木ひろし/編曲:池多孝春)は、最高位9位、登場回数44回、10万枚に迫る売上を記録。

 

 

2007(平成19)年、紫綬褒章を受章。

 

 

2014(平成26)年3月19日、芸能生活50周年記念シングル“桜貝”(作詞:水木れいじ/作曲:弦哲也/編曲:南郷達也)発売。同年3月31日、4月7日付のオリコン演歌・歌謡シングルチャートで1位を獲得した。

 

9月、五木ひろしの生みの親とも言える作詞家の山口洋子が逝去。

 

 

2018(平成30)年8月28日、“VIVA・LA・VIDA! 〜生きてるっていいね!〜”(作詞:なかにし礼/作曲:杉本眞人/編曲:猪股義周秋)発売。

 

秋の叙勲で、旭日小綬章を受章。

平成のカラオケで歌われた歌手ランキングでは第10位にランクインした。

12月12日、ベストアルバム『五木ひろし全曲集2019 ベストセレクション』発売。1.VIVA・LA・VIDA!~生きてるっていいね!~ 2.よこはま・たそがれ 3.ふるさと 4.夜空 5.千曲川 6.おまえとふたり 7.人生かくれんぼ 8.細雪 9.契り 10.長良川艶歌 11.追憶 12.暖簾 13.汽笛 14.山河 15.ふりむけば日本海 16.夜明けのブルース 17.恋歌酒場 と厳選された五木の代表的なヒット曲が網羅されている。

 

 

2020(令和2)年2月5日、“春夏秋冬・夢まつり”(作詞:田久保真見/作曲:五木ひろし/編曲:猪股義周)発表。

 

7月8日、“遠き昭和の…”(作詞:高田ひろお/作曲:杉本眞人/編曲:義野裕明)発表。

12月31日、『第71回NHK紅白歌合戦』に、北島三郎以来2人目の50回出場および史上初の50年連続出場を達成。また、正規出場に限れば北島に並ぶ最多出場記録となった。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「五木ひろし」