ジェームス・テイラー(James Taylor/1948年3月12日~)は、

アメリカ合衆国出身のシンガーソングライター、ギタリスト。

 

 

マサチューセッツ州ボストン市で、父親のアイザック・M・テイラーが研修医として働いていたボストンのマサチューセッツ総合病院で生誕。彼の母親、元ガートルード・ウッダード(1921–2015)は、ニューイングランド音楽院でマリー・サンデリウスと歌を学び、1946年にアイザックと結婚する前はオペラ歌手を志望していた。ジェームスは5人の子どものうちの2番目であり、兄のアレックス(1947–1993)、妹のケイト(1949年生まれ)、弟のリヴィングストン(1950年生まれ)、ヒュー(1952年生まれ)がいる。

1951年、父のアイザックがノースカロライナ大学医学部の助教授として就職したため、一家はノースカロライナ州チャペルヒルに引っ越し、郊外に住んだ。アイザック・テイラーは後に、1964年から1971年にかけてUNC医学部の学部長に昇進した。

 

1953年から、テイラー家は夏をマーサズヴィニヤード島で過ごした。

ジェームズは子どもの頃、ノースカロライナでチェロのレッスンを受けた。

1960年にギターを学び始めた。

 

マーサズヴィニヤード島のブドウ園で家族と夏休みを過ごした時、ニューヨークのラーチモント出身の意欲的な10代のギタリスト、ダニー・コーチマーに出会う。ジェームスとダニーは一緒にブルーズとフォークを聴き、演奏するようになる。14歳でギターを弾き、彼は楽器を学び続けた。

1963年の夏までに、二人はブドウ園近くの喫茶店「ジェイミー&クーチ」で演奏した。

 

ジェームズは1961年にマサチューセッツ州の予備寄宿学校であるミルトンアカデミーに通う。3年生の時、学業成績は良好だったが、大学進学へのプレッシャーを感じて挫折。彼はノースカロライナに戻り、チャペルヒル高校の学期を終えた。そこで彼は兄のアレックスによって結成されたバンド「The Corsayers」(後にThe Fabulous Corsairs)に参加し、エレキギターを弾いた。 

1964年、バンドはシングルをリリースしたが、B面にはジェームズの曲“チャチャブルース”がフィーチャーされた。

 

ジェームズはバンドを結成するためにニューヨーク市に転居し、「フライングマシン」というバンドを結成、“ノッキン・ラウンド・ザ・ズー”、“ドント・トーク・ナウ”、“ブルースはただの悪い夢”など、ジェームスがマクリーンで書いた曲を演奏した。

1966年の夏までに、彼らはグリニッチビレッジのナイト・オウル・カフェ(Night Owl Cafe)で、他のバンドと一緒に定期的に演奏した。ジェームズは自身の麻薬体験を描くために“黒くぬれ!”の影響を受けた楽曲“レイニー・デイ・マン”を書いた。 

 

1967年後半彼はロンドンに移り、友人のコーチマーからアップルレコードのA&Rとなったピーター・アッシャーを紹介され、同レーベルと契約した最初の英国人以外の人物となった。

 

1968年12月6日、アップル・レコードからセルフタイトルのアルバム『ジェームス・テイラー』でデビュー。

 

1969年、シングル"Carolina in My Mind"を発売、Billboard Hot 100(以下「全米」)にチャート入りまであと一歩という118位に到達するが、自身の交通事故や当時のアップル社内の混乱もあり、契約を打ち切られる。

 

1969年10月、ワーナー・ブラザース・レコードと契約するとともに帰国。

 

1970年、移籍第1弾のアルバム『スウィート・ベイビー・ジェームス』(Sweet Baby James)がU.S. Billboard Top LPs & Tapes(以下「全米」)3位・全英6位とヒット。シングルカットされた“ファイアー・アンド・レイン”(Fire and Rain)は全米3位を記録した。同曲は、友人の自殺を綴った作品であるとされている。

 

 

1971年、映画『断絶』に主演。ザ・ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンとともに、賭けレースに参加しながら旅を続けるドライバーを演じた。しかし、映画には彼らの楽曲は一切使用されず、難解な内容のために興行的にも失敗に終わった。

3月16日、アルバム『Mud Slide Slim and the Blue Horizon』全米2位・全英4位

 

同年5月、キャロル・キング作のカヴァーシングル“君の友だち”(You've Got a Friend)が全米ナンバー1になる大ヒット、数多くのアーティストに取り上げられる代表曲となった。

 

1972年、“寂しい夜”(Don't Let Me Be Lonely Tonight)が『ビルボード』誌「アダルト・コンテンポラリーチャート」(以下「AC」)3位になる。同曲で1972年アカデミー賞「 Best Pop Vocal Performance, Male」を受賞。

 

11月1日、アルバム『One Man Dog』リリース、全米4位。

ジェームスはカーリー・サイモンと結婚。サイモン、サリー、ベンとの彼の子供たちもミュージシャンとなった。

 

1974年、“愛のモッキンバード”(Mockingbird)を「ジェームス・テイラー&カーリー・サイモン」名義でリリース、全米5位のヒットとなった。同曲はアメリカだけでなく、日本でも小ヒットした。しかし、サイモンとは後に離婚している。

 

1975年、“ハウ・スウィート・イット・イズ”(How Sweet It Is [To Be Loved By You])が全米5位・AC1位のヒット。

5月1日、アルバム『Gorilla』リリース、全米6位。

 

 

1976年、 "愛の恵みを"(Shower the People)が全米22位・AC1位。

 

1977年、"Handy Man"が全米4位・AC1位。

6月、アルバム『JT』をリリース、全米4位。

 

 

1979年、アルバム『フラッグ』(Flag)リリース、全米10位。

 

1981年、JDサウザーと“憶い出の町”(Her Town Too)をリリース、全米11位・AC5位。

同年、アルバム『ダディーズ・スマイル』 (Dad Loves His Work)リリース、全米10位。

 

 

1983年、ジェームスはカーリー・サイモンと離婚。

 

1985年、"Everyday"全米61位・AC3位。

 

12月14日、ニューヨークのセントジョンザディバイン大聖堂にて女優のキャスリン・ウォーカーと式を挙げ、結婚。

 

1988年、"Never Die Young"が全米80位・AC3位。

 

1993年、同じシンガーソングライターである実兄のアレックス・テイラーが死去。

 

1996年、キャスリン・ウォーカーと離婚。

 

1997年、"Little More Time with You"がAC3位。

同年、アルバム『アワーグラス』(Hourglass)リリース、全米9位。

 

 

2000年、「ロックの殿堂」入りを果たす。

 

2001年2月18日、ボストンのエマニュエルエピスコパル教会で、テイラーはボストン交響楽団の広報およびマーケティングのディレクターであるキャロライン(「キム」)スメドヴィグと3度目の結婚をした。

同年4月に双子の男の子であるルーファスとヘンリーが誕生した後、ジェイムスは家族とともにマサチューセッツ州レノックスに引っ越した。

 

2002年、アルバム『オクトーバー・ロード』(October Road)をリリース、全米4位。

 

その後、グラミー賞獲得やロックの殿堂入りなど、輝かしいキャリアを積み重ねて来た。

 

アコースティック・ギターの名手としても知られている。ギブソンJ-50を主に使用している。 

 

2015年、13年ぶりのオリジナル・アルバム『ビフォア・ディス・ワールド』(Before This World)が全米アルバムチャート(Billboard 200)で自身初の1位(7月4日付)を獲得、全英でも1位を記録した。1970年に『スウィート・ベイビー・ジェームス』で初のビルボード・チャート入りから45年にして初の1位獲得は、2011年トニー・ベネットが『Duets II』で記録した54年に次ぐ記録である。

アルバムからのシングルは、"Today Today Today"、"Angels of Fenway"、"Montana"。

 

 

2016年12月、母国の名誉である『ケネディ・センター名誉賞』を受賞。 

 

2020年2月28日、アルバム『American Standard』をリリース、全米4位・全英11位を記録した。11月24日に「ベストトラディショナルポップボーカルアルバム」のカテゴリーでグラミー賞にノミネートされた。

 

なお、ジェームスの兄弟は全員(アレックス・テイラー、ケイト・テイラー、リヴィングストン・テイラー、ヒュー・テイラー)がミュージシャンとしてデビューしている。また、カーリー・サイモンとの間に生まれた2人の子供(サリー・テイラー、ベン・テイラー)も、それぞれミュージシャンとして活動中である。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジェームス・テイラー」「James Taylor」