リトル・リチャード(Little Richard/本名:リチャード・ウェイン・ペニマンRichard Wayne Penniman/1932年12月5日~2020年5月9日)は、アメリカ合衆国のミュージシャン、シンガーソングライター。

 

 

ジョージア州メイコン(Macon)のアフリカ系アメリカ人の家庭に生まれる。

メイコンのニューホープバプテスト教会の会員だったレバ・メイ(旧姓スチュワート)と、教会の執事とレンガ造りの石工であったチャールズ・ "バッド"・ペニマンの間に、12人の子どもの3人目として生まれた。父チャールズは、海賊版の密造酒を横に売り、Tip InInnと呼ばれるナイトクラブを所有していた。

 

恐らく出生時の合併症の結果、リチャードはわずかな奇形を起こし、片方の足がもう片方の足よりも短くなった。これにより妙な歩行を生み出し、彼は女々しい容姿で嘲笑された。

 

宗教への傾倒が強い家族の中で、リチャードも教会へ通い、ゴスペルを歌った。当時から大きな歌声だったリチャードは、「常にキーを上向きに変えていた」という。

彼の最初の音楽的影響は、ジョーメイ兄弟、シスターロゼッタサープ、マヘリアジャクソン、マリオンウィリアムズなどのゴスペルパフォーマーだった。 5月、その驚異的な範囲と声の力で「中西部のサンダーボルト」として知られている歌の伝道者は、リチャードに説教者になるよう促しました。彼はクララウォードシンガーズの特徴的なホラーの1つを称賛しました。リチャードはマコンのハドソン高校に通い、彼は最終的にアルトサックスを演奏することを学び、5年生のときに学校のマーチングバンドに参加した。

 

同性愛嗜好であったため、実の父親に疎んじられ白人の家庭へ養子に出される。

皿洗いの仕事をしながら歌い続ける。

 

1951年から1954年にかけて、友人ジョニー・オーティスの推薦でピーコック・レコーズ等から数枚のシングルを出したがほとんど売れなかった。

1951年11月、シングル"Taxi Blues"をRCA Victorからリリース。

 

1953年6月、シングル"Ain't That Good News"を「Duces of Rhythm and Tempo Toppers, lead Little Richard」名義で、移籍したPeacockからリリース。

 

1955年、粘り強くデモテープをレコード会社に送り続けた結果、スペシャルティ(Specialty)・レコーズから再デビューが決まる。

10月、シングル“トゥッティ・フルッティ”(Tutti Frutti)をリリースすると、Billboard Hot 100(以下「全米」)17位、Hot R&B/Hip-Hop Songsチャート(以下「R&Bチャート」)2位、全英29位のヒットとなった。エネルギッシュな歌唱法で、草創期のロックに決定的な影響を与えた。激しいアクションでピアノを弾く姿も話題となった。

 

1956年3月、シングル“のっぽのサリー”(Long Tall Sally)をリリース、全米6位、R&Bチャート1位、全英3位と前作を上回る大ヒット、B面の"Slippin' and Slidin'"も全米33位、R&Bチャート2位とヒットした。“のっぽのサリー”は後にザ・ビートルズをはじめ様々なアーティストにカヴァーされた。

 

6月、“リップ・イット・アップ”(Rip It Up)をリリース、全米17位、R&Bチャート1位、全英30位とスマッシュヒット。

 

同年12月1日、この日にアメリカで公開された映画『女はそれを我慢できない』に主題歌を提供する一方、自らも出演した。彼は人種差別とゲイに対する差別が激しい時代に、自ら同性愛者であることを公表し、派手な化粧をして歌っていた。日本公開は1957年6月26日。

 

1957年2月、“ルシール”(Lucille)をリリース、全米21位、R&Bチャート1位、全英10位。

 

3月、アルバム『Here's Little Richard』をリリース、“トゥッティ・フルッティ”や“のっぽのサリー”、“リップ・イット・アップ”などのヒット曲を満載し、アメリカの有力なアルバムチャート「Billboard 200」で13位とヒットを記録。

 

6月、“ジェニ・ジェニ”(Jenny, Jenny)、全米10位、R&Bチャート2位、全英11位。

 

8月、"Keep A-Knockin'"、全米8位、R&Bチャート2位、全英21位。

 

同年、人気の絶頂期に突如引退を発表し、アラバマ州のオークウッド大学(Oakwood College)に入学して神学を修め牧師となった。

しばらくはロックを罪深い悪魔の音楽として遠ざけゴスペルを歌っていた。

 

1958年1月、“グッド・ゴリー・ミス・モリー”(Good Golly, Miss Molly)、全米10位、R&Bチャート4位、全英8位。

 

5月、"Ooh! My Soul"をリリース、全米35位、R&Bチャート15位、全英22位を記録。

 

7月、"Baby Face"をリリース、全米41位、R&Bチャート12位と本国では振るわなかったが、

全英では2位と大ヒットした。

 

同年、アルバム『Little Richard』をリリース、引退発表前のヒットシングル“ルシール”や"Keep A-Knockin'"などを収録したが、チャートの動きは良くなかった。

 

1962年にロック歌手として復帰。この復帰コンサートの前座を務めたのが、無名時代のビートルズである。また、この時期のサポート・ギタリストの一人に、ジミ・ヘンドリックスがいた。

 

1967年7月、ライヴベストアルバム『Little Richard's Greatest Hits: Recorded Live!』をリリース、「Billboard 200」に184位でチャートインした。

 

1970年4月、シングル"Freedom Blues"をRepriseからリリース、全米47位、R&Bチャート28位。

 

8月、シングル"Greenwood, Mississippi"をリリース、全米85位を記録。

 

同月、"Freedom Blues"や"Greenwood, Mississippi"を収録したアルバム『The Rill Thing』をリリース。

 

1986年1月23日、チャック・ベリー、ジェリー・リー・ルイスらとともに、第1回「ロックの殿堂」(Rock and Roll Hall of Fame)入り第1号となる。

また、この他にリチャードは、「ソングライターの殿堂」入りも果たし、レコーディングアカデミーから生涯功労賞を、リズムアンドブルース財団から生涯功労賞を受賞した。

同年、アメリカのコメディ映画『Down and Out in Beverly Hills』のサウンドトラックに“トゥッティ・フルッティ”と"Great Gosh A'Mighty! (It's a Matter of Time)"を提供、後者はシングルリリースされ、全米42位、全英62を記録した。

 

1990年、アメリカのヘヴィーメタル・バンド、リヴィング・カラー(Living Colour)の制作した、ロックン・ロールは黒人のものと唄う楽曲“エルヴィスは死んだ” (Elvis is Dead)にメイシオ・パーカーとともにゲスト参加。

 

1988年、アーノルド・シュワルツェネッガーが主演したアメリカ合衆国のコメディ映画『ツインズ』(Twins)の主題歌"Twins"を、アース・ウィンド・アンド・ファイアーのリードシンガーでもあるフィリップ・ベイリーとともに書き下ろし、ともに歌唱した。全英82位を記録。

 

1992年11月14・15日、2日間に渡って東京ベイNKホールでの来日公演が予定されたが、告知不足でチケットが僅か50枚しか売れなかったために中止となった。

 

1994年5月10日、この日放映のアメリカのテレビドラマ『フルハウス』第7シーズン第23話『必死の場つなぎ』(原題:Too Little Richard Too Late)に「リトル・リチャード」本人役で出演。

 

1996年、アトランタオリンピック閉会式で、ピアノを演奏。

 

2006年、ジェリー・リー・ルイス(Jerry Lee Lewis)のアルバム『ラスト・マン・スタンディング』(Last Man Standing)にゲスト参加。同アルバムは好評を博し、インディ・チャートで2週連続第1位となるなどビルボードの4部門のチャートにランクインした。

 

2010年、“トゥッティ・フルッティ”が、「魅力的なビートをめぐる独特の発声が音楽の新時代を築いた」として、米国議会図書館の国立録音登録簿に登録された。

 

2013年9月、アーティスト活動から引退することを音楽雑誌『ローリング・ストーン』誌上で発表した。

 

2015年、リチャードは、ポピュラー音楽のジャンル形成における重要な役割と、音楽チャートの人種的格差を終わらせたこと等の功績により、国立アフリカ系アメリカ人音楽博物館から「ラプソディ&リズム賞」を受賞した。

 

2020年5月9日、息子のダニー・ペニマンが死去を公表し、癌(骨肉腫)によりテネシー州ナッシュビルで病死したと伝えている。

 

リトル・リチャードの影響を受けたアーティストの名前を挙げればきりがないが、中でもポール・マッカートニーはその影響の大きさを明言していた。リチャードの訃報にふれたポールの追悼の言葉を載せておく。

https://nme-jp.com/news/88801/

(NME JAPAN 2020.5.11 月曜日)

 

当ブログの追悼記事

https://ameblo.jp/inoueno2000/entry-12595941751.html

 

 

 

(参照)

Wikipedia「リトル・リチャード」「Little Richard」(英語版)