尾崎 豊(おざき ゆたか/1965年11月29日~1992年4月25日)は、

日本のシンガーソングライター。

 

 

1965年11月29日、東京都世田谷区、自衛隊中央病院にて生まれる。

兄弟は5歳年上の兄尾崎康がいる。

練馬区で育ち、練馬区立田柄第二保育園から練馬区立田柄第二小学校に入学。

 

1974年、小学3年生の時に初めて詩を書く。タイトルは“雨”。

 

1976年、埼玉県朝霞市に転居。

 

1978年、本人の希望で練馬区立練馬東中学校へ越境入学。生徒会副会長、文化祭実行委員長を務めたが、喫煙により停学処分が下る。

 

1980年、原宿音楽祭に出場、“町の風景”などを歌う。

 

1981年4月、青山学院高等部に入学。

12月26日、「NOA」というバンド名で新宿ルイードにてライヴハウスでの初ライヴを行う。

 

1982年夏、“ダンスホール”、“もうおまえしか見えない”、“町の風景”、“Street Blues”の4曲の入ったカセットテープをCBSソニーへ送る。

10月11日、CBSソニーのオーディション『CBS SONY Sound Development Audition 1982』にて“ダンスホール”と“もうおまえしか見えない”を歌う。

11月20日、オーディションに合格。辻仁成がいたECHOESとともに、同年の最優秀アーティスト賞に選出される。

 

1983年12月1日、シングル“15の夜”でデビュー。

 

同時発売のファーストアルバム『十七歳の地図』には同曲の他、“はじまりさえ歌えない”、“I LOVE YOU”、“十七歳の地図”、“OH MY LITTLE GIRL”、“僕が僕であるために”などを収録。

 

 

 

 

1984年1月25日、青山学院高等部を自主退学。

3月15日、青山学院高等部の卒業式の当日、新宿ルイードにてデビュー後初ライヴを行う。

札幌ペニーレインでのライヴ。初めてのライヴツアーとなる6大都市ツアー「LIVE HOUSE APPEARANCE」がスタート。

3月21日、アルバムから表題曲“十七歳の地図”をシングルカット。

 

8月4日、日比谷野外音楽堂でのライヴイベント「アトミック・カフェ」出演中、7メートルの高さの照明台から飛び降り、左足を骨折。以降のスケジュールがすべてキャンセルとなる。

 

1985年1月21日、シングル“卒業”がオリコンチャート初登場で20位、最高位8位を獲得、歌詞の一部の過激な表現が話題となる。

 

 

3月21日、2枚目のオリジナルアルバム『回帰線』が初登場1位を獲得。“卒業”の他、“Scrambling Rock'n'Roll”、“ダンスホール”、“シェリー”等を収録。第27回日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞。

 

 

 

3月、渡米。約1か月の休暇をニューヨークで過ごす。

8月25日、初の単独野外スタジアムライヴとなった大阪球場公演で、2万6,000人を動員。

10月21日、シングル“DRIVING ALL NIGHT”をリリース。オリコン9位。

 

11月14・15日、代々木オリンピックプール第一体育館でライヴを行い、2日間で3万人を動員。

11月28日、20歳の誕生日前日に10代最後となる3枚目のオリジナルアルバム『壊れた扉から』をリリース。シングル“DRIVING ALL NIGHT”の他、“Forget-me-not”、“ドーナツ・ショップ”などを収録。オリコン5位。

 

 

1986年1月1日、福岡国際センターでのライヴ後に無期限活動停止を発表。

6月9日、単身ニューヨークへ渡る。

12月23日、帰国。

 

1987年2月10日、CBSソニーから新レーベル「MOTHER&CHILDREN」に移籍。同レーベルにはHOUND DOGも所属していた。

7月1日、1年7か月ぶりのライヴツアーがスタート。

8月29・30日、有明コロシアムで公演。2日間で約2万人を動員する。

9月28日、公演会場に入るも、ライヴ前に倒れ、帰国後初のライヴツアーが中止。

10月1日、シングル“核”をリリース。2位を獲得。

 

10月21日、初のライヴアルバム『LAST TEENAGE APPEARANCE』を発売。

 

12月22日、覚醒剤取締法違反容疑で逮捕。

 

1988年1月11日、覚せい剤取締法違反で起訴。1月21・22、25・26日に予定されていた初の日本武道館公演が幻に終わる。

2月22日、東京地方裁判所刑事11部第531号法廷にて、懲役1年6か月・執行猶予3年の判決が下される。午後1時30分ごろに東京拘置所から釈放。

5月12日、一般女性と入籍。

6月22日、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に最初で最後のテレビ出演。放送前日21日に発売された新曲“太陽の破片”を歌う。同曲はランキング最高位3位に到達。

 

9月1日、度重なる発売延期を乗り越え、4枚目のオリジナルアルバム『街路樹』を発売。シングル“核 (CORE)”や“街路樹”等を収録。オリコン2位。「MOTHER&CHILDREN」から発表したアルバムは本作のみとなった。

 

 

9月12日、東京ドームで一夜限りの復活ライヴ「LIVE CORE」を行い、5万6,000人を動員。

 

1989年7月24日、長男・裕哉が誕生。

 

1990年1月、所属事務所をデビュー時より在籍していたマザーエンタープライズから、浜田省吾の在籍するROAD & SKYに移籍。

10月21日、レコード会社を再びCBSソニーに移籍。

同日、シングル“LOVE WAY”をリリース、2位を記録。

 

11月15日、5枚目のオリジナルアルバム『誕生』(2枚組)を発売。ヒットシングル“LOVE WAY”の他、“永遠の胸”や“黄昏ゆく街で”、長男・裕哉に贈った“きっと忘れない”、表題曲“誕生”などを収録。自身のアルバムで2度目の1位を獲得。

 

 

 

 

12月19日、個人事務所・ISOTOPE(アイソトープ)設立。

 

1991年3月、雑誌『月刊カドカワ』での対談がきっかけとなった女優・斉藤由貴との不倫が発覚。その後10月に別離したことが報じられる。

3月、公式ファンクラブ「Edge Of Street」設立。

3月21日、シングル“I LOVE YOU”を発売、JR東海のCMに使用され、話題になる。

同曲はデビューアルバム『十七歳の地図』からのシングルカット。

 

5月20日、3年ぶりのライヴツアーが横浜アリーナでスタート。

10月30日、代々木オリンピックプールにてライヴを行う。結果的にこれが生涯最後のライヴとなった。生前最後に歌った曲はオーディションでも歌われた“ダンスホール”だった。

12月29日、母親が急死。

 

1992年4月25日早朝、東京都足立区千住河原町の民家の庭にて泥酔状態で発見され、警察に通報される。救急車で墨田区の白鬚橋病院に運ばれ診察を受け、妻と兄とともに自宅マンションに帰宅する。その後、夫人、兄、マネージャーが見守るなか、自宅マンションで暴れたり眠ったりを繰り返しながら、突如危篤状態となり、救急車で日本医科大学の緊急病棟に収容される。蘇生措置がされるが午後0時6分に死亡。26歳没。

4月30日、東京都文京区の護国寺で行われた追悼式には3万7,500人のファンが詰めかけた。

5月10日、死の直前に完成させた6枚目のオリジナルアルバム『放熱への証』とシングルカットされた“汚れた絆”とが遺作としてリリースされる。“汚れた絆”は7位、『放熱への証』はアルバムとして3度目の1位を2週連続で獲得、累計109.8万枚を売り上げ、ミリオンセラーを達成した。

 

 

1993年5月10日、生涯最後の公演の模様を収録したライヴアルバム『約束の日 Vol.1』、『約束の日 Vol.2』が同時リリースされる。オリコンではそれぞれ1位、2位を記録。

 

 

1994年1月21日、シングル“OH MY LITTLE GIRL”がリリースされる。フジテレビ系テレビドラマ『この世の果て』の主題歌に使用される。1983年のデビューアルバム『十七歳の地図』から11年の時を経てのシングルカットながら107万枚を売り上げ、尾崎にとってシングル初にして唯一のミリオンセラーを達成。

 

 

1995年4月25日、四回忌にあたるこの日、10代のころのアルバムを収録したボックスセット『TEENBEAT BOX』がリリースされる。

 

1996年3月27日、未公開音源集『無題 (WHITE ALBUM)』がリリースされる。

 

4月25日、“もうおまえしか見えない”が『無題』からシングルカットしてリリースされる。

9月30日、初のベストアルバム『愛すべきものすべてに』がリリースされる。

 

1997年11月15日、ライヴベストアルバム『MISSING BOY』がリリースされる。

 

1999年2月24日、未発表音源が“風にうたえば”としてシングルリリース。

3月27日、 “風にうたえば”が沢田研二主演の映画『大阪物語』で初の映画主題歌として

起用される。

 

2001年4月25日、尾崎の10周忌に“Forget-me-not”、“OH MY LITTELE GIRL”が両A面シングルとしてリリースされる。

 

4月28日、公式に初の映画音楽起用となった仲間由紀恵主演の『LOVE SONG』で“OH MY LITTELE GIRL”、“Forget-me-not”が主題歌として起用される。須藤晃が音楽監修を務め、ソニー・ピクチャーズ エンタテインメントが配給している。

 

2002年4月、『週刊少年マガジン』誌上で『尾崎豊物語』が掲載される。

 

2004年3月24日、13回忌企画のトリビュートアルバム『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』、『"GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』の2枚が同時リリース。

10月27日、ボックスセット『TEENBEAT BOX 13th MEMORIAL VERSION』がリリース。

 

2006年3月18日、かつて東海ラジオで尾崎がパーソナリティーを務めていたラジオ番組『誰かのクラクション』の復刻版『尾崎豊 誰かのクラクション Again』が放送される。パーソナリティーは須藤が務める。

Yahoo! オークションに、当時使用していたエレキギター、エレキベース、ギターストラップ、エフェクター、チューナー、ハーモニカ、望遠鏡など多数が、使用していた状態そのままでチャリティーオークションに出品され、ユニセフに全額寄付された。

 

2007年4月25日、尾崎が遺した全71曲を網羅したCD-BOX『71/71』リリース。生前に発売されたオリジナルアルバム6作品をすべて収録し、4枚目のアルバム『街路樹』に“太陽の破片”、“街角の風の中”を加えた『街路樹+2』を特別収録している。

 

 

2008年4月16日、ベスト・アルバム『WEDNESDAY 〜LOVE SONG BEST OF YUTAKA OZAKI』と『SATURDAY 〜ROCK'N'ROLL BEST OF YUTAKA OZAKI』が2枚同時リリースされる。

 

2009年4月18日〜5月5日、尾崎の楽曲から生まれた青春群像劇『MISSING BOYs 〜僕が僕であるために〜』が赤坂ACTシアターにて上演される。

4月22日、オリジナルアルバム6枚とベスト・アルバム『愛すべきものすべてに』がBlu-spec CDで再リリースされる。『街路樹』はシングル“核 (CORE)”と“太陽の破片”のそれぞれA面・B面収録曲を加えた2枚組スペシャルエディションとして発売された。

4月25日、TOKYO-FM(JFN38局)にて『KDDI presents 尾崎豊メモリアルスペシャル「BIRTH 〜From 1991 to 2009〜」』がオンエアされる。番組は、1991年5月20日に横浜アリーナで行われたツアー初日の初公開音源に加え、尾崎作品の音楽プロデューサーだった須藤晃が明かす尾崎のエピソードで構成された。

同日、auの音楽配信サービスLISMOにて、全71曲の着うた配信が開始。同CMに“I LOVE YOU”が使用される。映像は1985年1月12日、日本青年館で行われたライヴの一編である。このCMで尾崎自身の映像がテレビCMに初めて使われる。

 

2011年3月21日、テレビ東京系列にて彼の半生を描いたドラマ『風の少年〜尾崎豊 永遠の伝説〜』(尾崎役は俳優の成宮寛貴)が放映される。

 

2012年9月、20回忌にあわせて東京・原宿のラフォーレミュージアムで特別展「OZAKI20」が開始。その後、10月に名古屋、12月に大阪、翌2013年3月に福島、4月に横浜のみなとみらい駅特設会場で開催。

 

2013年3月23日、東京ドームでのライヴを完全収録した『LIVE CORE 完全版〜YUTAKA OZAKI LIVE IN TOKYO DOME 1988・9・12』が発売される。

11月27日、デビュー30周年を記念してベスト・アルバム『ALL TIME BEST』が発売される。

 

2020年1月3日、佐藤輝監督による映画『尾崎豊を探して』が公開される。

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「尾崎豊」

所属事務所「アイソトープ」による公式サイト

http://www.ozaki.org/topflame.html