ティナ・ターナー(Tina Turner/本名:アンナ・メイ・ブロック・バーク[Anna Mae Bullock- Bach]/1939年11月26日~2023年5月24日)は、アメリカ合衆国出身の歌手、ダンサー、俳優。

 

 

ティナ・ターナーは、1939年11月26日、母ゼルマ・プリシラ(旧姓キュリー)と、父フロイド・リチャード・ブロックの間に、テネシー州ヘイウッド・カウンティ、ナットブッシュ(Nutbush)の180号線に面したポインデクスター農場で生まれた。この農場は、父フロイドが小作人達の監督として働いていた農場だった。ティナはアフリカ系アメリカ人だが、先祖にはいくらかヨーロッパ人の血も入っている。彼女がPBSのドキュメンタリー番組である「アフリカン・アメリカン・ライヴズ2」で取り上げられた際、血液検査を受け、その結果番組のホスト、ヘンリー・ルイス・ゲイツから、「1パーセント、ネイティヴ・アメリカンの先祖の血が入っている」と告げられた。

 

ティナには、ルビー・アイリーンという歳上の姉がいた。第二次大戦中、両親がテネシー州ノックスヴィルに引越して防衛施設で働いた際には、まだティナが小さかったため、彼女と姉のアイリーンは別々に別れて暮らし、ティナは厳格で宗教心の強い父方の祖父母アレックスとロクサナのブロック夫妻に育てられた。夫妻は二人とも、19号線沿いのウッドローン通りに位置していたバプティスト派の教会ウッドローン・ミッショナリーで執事を務めていた。姉妹は再び両親と一緒に暮らすようになり、一家そろってノックスヴィルに移った。

2年後、一家はナットブッシュに戻り、フラッグ・グルーヴで暮らし始めた。ティナは1年生から8年生までフラッグ・グルーヴ・スクールに通った。この学校は、ティナの曾祖父の兄弟が土地を売り、その土地に管財人を立てて建設したものだった。

 

子どもの頃、ティナは、ナットブッシュにあるスプリング・ヒル・バプティスト教会の聖歌隊の一員として歌っていたが、彼女が11歳の時、母親が父との間の辛い関係に耐えかねて突然出て行き、彼女にとっての叔母、ティナにとっては祖母の姉妹の一人とともに暮らすため、セント・ルイスに移った。ティナが13歳の時、父が再婚しデトロイトに引越したが、姉妹は祖母ジョージアンナと一緒に暮らすため、ブラウンズヴィルに転居した。ティナは後に自伝『私、ティナ』の中で、自分は母親から愛されておらず、必要とされていないのだと感じた、と述べている。さらに、母は自分を妊娠していた時にも父を捨てようとしたことがあり、「私の母は、当時まだ若く、もう子どもはいらないと思っていたのよ」と語っている。

まだ10代前半だったが、彼女はヘンダーソン家でお手伝いさんとして働くことになった。

 

自称おてんば娘だったティナは、ブラウンズヴィルにあるカーヴァー・ハイ・スクールで、チア・リーダーと女子バスケット・ボールのチームの両方に入った。16歳の時、突然祖母が亡くなる。葬儀の後、ティナは自分の母親と暮らすため、ミズーリ州セント・ルイスに移ることになり、そこで姉と再会した。

 

 

1958年、セント・ルイスのサムナー高校を卒業。その後、バーンズ・ジューイッシュ病院で看護師の助手として働いた。そして看護師になることを夢見るようになった。

ティナと姉はこの頃、セント・ルイスやイースト・セント・ルイスのナイトクラブに頻繁に出入りし始めた。「クラブ・マンハッタン」というイースト・セント・ルイスにあるクラブで、ティナは初めてアイク・ターナーと彼のバンド「キングズ・オヴ・リズム」が演奏するところに遭遇し、バンドの音楽とアイクの才能に好感を持った。ティナは、アイクのバンドと一緒にステージに立って歌いたいという衝動を覚えた。

同年のある夜、キングズ・オヴ・リズムのドラマー、ジーン・ワシントンがマイクロフォンを自分のドラム・セットから取り出してティナとアイリーンのテーブルに置いた。アイリーンは拒んだが、ティナはマイクを手に取り、バンドの残りのメンバーが休憩している間に歌い始めた。アイクは彼女の声に唖然とさせられ、結局その夜はバンドと一緒に最後まで歌わせることにした。そしてその後、ティナを正式にバンドの一員として迎え入れた。この時期、アイクはティナに声のコントロールと舞台上での振る舞い方とについて、要点を教え込んだ。

同年、ティナの最初のスタジオでの録音が行われた。「リトル・アン」という名でアイク・ターナーの曲“ボックス・トップ”にバックコーラスとして参加したのが最初である。他に歌手のカールソン・オリヴァーが参加していた。

 

 

1960年にはアイクが“ア・フール・イン・ラヴ”を書き上げた。元々キングズ・オヴ・リズムのリード・ヴォーカルだったアート・ラシターのために書いた曲だったが、アートがレコーディングに姿を現さなかった時、アイクがティナに「仮歌」として歌って欲しいと頼んだ。デモ・テープの音源は、その出来の良さからラジオの電波に乗った。セント・ルイスのDJ、デイヴ・ディクソンは、アイクを説得してこのテープをR&Bのレーベル「スー・レコーズ」の社長ジャギィ・マレイ宛に送らせた。曲を聴いてティナの声を気に入ったマレイはこの曲の録音権と出版権を買い取る決意をし、代わりにアイクに2万5千ドルの前金を支払った。マレイはまた、ティナを「ショーの目玉」にすべきだとアイクを説得した。アイク・ターナーがアンナ・メイ・ブロックのことを「ティナ」と名付けたのは、この時である。

7月、“ア・フール・イン・ラヴ”が発売され、即座にヒットとなった。R&Bチャートでは2位まで上がり、同年10月のビルボードの最新ヒット100のチャートでは第27位まで上がっている。

 

 

1961年、続いてヒットした“イッツ・ゴナ・ワーク・アウト・ファイン”はトップ20に届き、アイク&ティナの二人組はグラミー賞「ベスト・ロック・アンド・ロール・パフォーマンス部門」にノミネートされることとなった。

 

スー・レコーズに在籍していた期間に発売された重要なシングル・レコードとしては、R&Bのヒットである“アイ・アイドライズ・ユー”、“プア・フール”、“トゥラ・ラ・ラ・”等が挙げられる。

 

 

1962年、ティナはアイクと結婚(後の自伝の中で、「1962年にメキシコのティフアナで結婚した」と述べている)。

 

 

1964年、アイク&ティナはスー・レコーズを離れ、ケント・レコーズと契約。成果としてはやや売り上げが落ちたが、“アイ・キャント・ビリーヴ・ホワット・ユー・セイ”がヒット。

 

 

1965年、二人はワーナー・ブラザースの子会社であるローマ・レコーズと契約する。ボブ・クランショウが経営に当たっていたが、二人組がスー・レコーズを離れた直後、ほどなくして彼らのマネージャーとなったのがクランショウだった。1964年から1969年までの5年の間、アイク&ティナは10以上のレーベルと契約を交わしている。

同年、フィル・スペクターがアイク&ティナ・ターナーの公演をロサンゼルスで観て、ティナと一緒に仕事がしたいと考えた。話がまとまり、スペクターはアイクに前金として2万ドルを支払った。ティナは、スペクターのプロデュースのもと、“リヴァー・ディープ-マウンテン・ハイ”を吹き込んだ。この曲は1966年にスペクターのフィルズ・レーベルから発表された。アメリカ国内では今一つの手応えだったが、海外では成功し、特に英国ではシングルチャート第3位まで上った。この曲の成功により、アイク&ティナ・ターナーは1966年秋のローリング・ストーンズの英国内ツアーで前座を務めることになった。そして、これが契機となり、ヨーロッパ全域とオーストラリアでも演奏することになった。

 

 

1968年、ブルー・サム・レコーズと契約し、アイク&ティナ・ターナーは強いブルース志向を感じさせるアルバム2枚、『アウタ・シーズン』と『ザ・ハンター』を発表する。『アウタ・シーズン』ではオーティス・レディングの“アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー・トゥー・ロング”のカヴァーを収録。一方、『ザ・ハンター』が発表されると、ティナの歌ったアルバート・キングのカヴァーであるタイトル曲がグラミー賞のベスト女性R&Bヴォーカル賞にノミネートされた。

 

この2枚のアルバムが好成績を残し、デュオはラスベガスで自分達の公演を行うことになった。このショーには、デヴィッド・ボウイ、スライ・ストーン、ジャニス・ジョプリン、シェール、ジェイムズ・ブラウン、レイ・チャールズ、エルトン・ジョン、そしてエルヴィス・プレスリーなど様々な有名人達が彼らのことを観に訪れた。

 

 

1969年、デュオはローリング・ストーンズのアメリカ・ツアーで前座を務め、ますますその名を高めた。

 

 

1970年、リバティ・レコードでアルバムは2枚を制作、『カム・トゥゲザー』が1970年に、『ワーキン・トゥゲザー』が1971年に、それぞれ発表された。『カム・トゥゲザー』からは、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのカヴァー“アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー”がデュオ初のトップ40シングルとなった。同アルバムは、このデュオが自分達のレパートリーをR&B中心からよりロック寄りの曲を採り入れる方向に切り替えたという点で、彼らの転機となったアルバムだった。

 

 

1971年の初めにデュオはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの“プラウド・メアリー”をカヴァーして発表、この曲が過去最高のヒットとなった。全米4位まで上昇、同時に100万枚を越える売り上げを記録し、そしてデュオもしくはグループ部門で、グラミー賞のベストR&Bパフォーマンス賞を獲得。

 

 

1971年、カーネギー・ホールでのライヴ録音を使用したライヴアルバム『ホワット・ユー・ヒア・イズ・ホワット・ユー・ゲット』が彼らの初のゴールド・ディスクとなった。

 

 

1972年、アイク・ターナーはスタジオを建設し、ボリック・サウンズと名付けた。このスタジオは彼らのイングルウッドの自宅近くに造られたものだった。リバティ・レコードがユナイテッド・アーティスツ・レコードに買収された後、デュオはユナイテッドと契約し、3年間に10枚のアルバムを制作することが決まった。

 

 

1973年、このデュオの最後のヒットシングル、“ナットブッシュ・シティ・リミッツ”が発売され、全米22位まで上昇。特に英国では最高第4位まで上がっている。

 

 

1974年、ティナは初のソロ・アルバム『ティナ・ターンズ・ザ・カントリー・オン』を発表し、グラミー賞にノミネートされた。

この年ティナは、ロック・ミュージカル「トミー」の撮影に参加するためロンドンまで出向いている。同映画の中で、彼女はアシッド・クイーンを演じ、また同名の曲を歌っている。ティナの歌は評論家から賞賛された。映画の撮影が終わって程なくして、ティナはアン・マーガレットとともに、ロンドンでテレビの彼女の特集番組に出演している。アメリカに戻り、ティナはデュオでの活動を再開する。「トミー」が公開されてまもなく後、

1975年に、ティナは次のソロアルバム『アシッド・クイーン』を発表した。

 

この頃、1975~1976年の2年間ずっと、アイクがアルコール依存症とコカイン中毒に陥り、公演も中止や延期となるものが出てきて、チケットの売り上げも低落した。ティナは1971年に法華宗に帰依したが、彼女を苦しめたのはアイクによる虐待だった。

 

 

1976年7月2日、一晩コンサートを開いたことがあるテキサス州ダラスにあるダラス・スタットラー・ヒルトンに向かう途中、ティナとアイクは激しい殴り合いの喧嘩をしてしまう。到着後まもなく、ティナはアイクを置いて、ほとんど何も持たないままで逃げ出した。

7月27日、ティナは裁判所に離婚の訴えを起こした。これはデュオを永遠に終わらせることを意味していた。以後数ヶ月の間、アイクが離婚に同意するのを待つため、ティナは色々な友達の家でアイクから隠れて過ごした。ツアー最中にアイクを見捨てて立ち去ったことで中止されたショーに対して彼女が法的責任を負うようになったことを彼女は後に知った。

 

 

1978年3月29日、一年間法廷で争った後に彼らの離婚は確定。これによりティナは完全にアイクと道を分かち、芸名はそのまま彼女のものとし、また中止されたツアーにより生じた負債と国税庁が要求していた相当な額の担保について彼女が引受けること等が決まった。

 

 

1977年、ユナイテッド・アーティスツの役員リチャード・ステュワートから資金を援助されて、ティナはコンサートを再開した。ラスヴェガスのキャバレーを巡る方法を採用したのだが、かつてアイクと一緒にコンビを組んでいた時に試したやり方だった。ティナはアメリカ国内の小さなキャバレーを会場として選んだ。また、「ハリウッド・スクエアズ」、「ドニー・アンド・マリー」、「ザ・ソニー・アンド・シェール・ショウ」、「ブラディ・バンチ・アウア」といった番組に出演することで収入を増やすことに努めた。1977年も後半になって、ティナの初めてのソロ・コンサート・ツアーをオーストラリアで行った。

 

 

1978年、ユナイテッド・アーティストから3枚目のソロ・アルバム『ラフ』(Rough)が発売、北米とヨーロッパにはEMIによる配給が決まった。しかし同アルバムは、続く4枚目のアルバム『ラヴ・エクスプロージョン』(Love Explosion)とともに、ディスコ・リズムを採り入れ新たな方向性を示す曲が収録された意欲作だったが、結局チャート入りは逃した。

 

 

 

この2枚のアルバムでユナイテッド・アーティスト/EMIとの契約は終了し、契約が更新されることのないまま、このレコード会社との縁はなくなった。ティナは、二度目のソロ公演の宣伝を行い「ロックンロールのワイルドなレディ」と銘打ってライヴ活動を続けた。

 

 

1979年、オリビア・ニュートン=ジョンの米国の特別番組『ハリウッドの夜』に出演したのが契機となり、ティナはニュートン=ジョンのマネージャーだったロジャー・デイヴィスに自分とも契約してくれないかと申し出た。

 

 

1980年2月、ソロ公演を観たデイヴィスは、自分がマネージャーとしてティナと一緒に働く決心した。デイヴィスはティナに、「今のバンドはここで解散して、もっと時代に合ったロックンロールバンドを組んで、ショーの内容を見直したほうがよい」と助言した。

 

 

1981年、デイヴィスはティナにニューヨークのリッツでの公演話を取ってきた。この公演後、ロッド・ステュワートがティナに『サタデイ・ナイト・ライヴ』で彼のヒット曲である“ホット・レッグズ”のデュエットヴァージョンを歌うオファーを出した。さらにロッドの全米ツアーの前座を務め、その後、ローリング・ストーンズの前座を三度務めた。

 

 

1982年、ティナは、チャック・ベリーとの共演に続いて英国と欧州で短期ツアーを行った後、再び1982年12月にリッツでライヴを実施。その結果、デヴィッド・ボウイの後押しもあり、キャピトル・レコードとの間でシングル発売の契約を結ぶことになった。

 

 

1983年11月、アル・グリーンのカヴァー曲“レッツ・ステイ・トゥゲザー”がキャピトルから発売、欧米のいくつかの国でチャート入りし、英国では上位10位以内にチャートイン。全米では最高26位を記録。この曲は米国で、ティナ・ターナー個人で初めてチャート入りした曲となった。この曲の成功により、キャピトルはターナーとの契約を見直し、アルバム三枚を発売する契約を申し出てて、すぐにもまず一枚目を出してもらいたいと言い出した。この結果、ターナーは再び舞台に立つこととなった。

 

 

1984年6月、ロンドン録音のアルバム『プライヴェート・ダンサー』が発売。

 

同6月、2枚目のシングル “ホワッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット”を発売、9月には全米第1位となった。この他にも“ベター・ビー・グッド・トゥ・ミー”や“プライヴェート・ダンサー”といったヒット曲を収録したアルバムも全米3位まで上り、米国内だけで500万枚、世界中では1,100万枚のセールスを記録、彼女のアルバムで最も売れた作品となった。復活劇は1985年初頭に最高潮を迎え、グラミー賞4つを獲得した(“ホワッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット”で獲得した「最優秀レコード賞」を含む)。

 

 

 

 

1985年2月、アルバム『プライヴェート・ダンサー』の販売促進を兼ねて、二度目のワールドツアーに出ている。このツアーでは英国バーミンガムのNECアリーナで大観衆を前に演奏し、このライヴは後に映像作品として発売された。

この頃、ティナは“ウィ・アー・ザ・ワールド”の録音にも参加している。

 

 

1985年もティナの成功は続き、映画「マッド・マックス/サンダードーム」に、バータータウンの支配者であるアウンティ・エンティティの役で10年ぶりの映画出演を果たした。同映画は、公開後3,600万ドルの売り上げを上げている。後に、ティナはこの映画での演技を評価され、全米黒人地位向上協会から主演女優賞を与えられている。彼女はこの映画のサウンド・トラックにも、“ウィ・ドント・ニード・アナザー・ヒーロー”と“ワン・オヴ・ザ・リヴィング”の二曲で参加、いずれもヒットとなり、後に“ワン・オヴ・ザ・リヴィング”でティナはグラミー賞の「最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞」を獲得した。

 

同年7月、ミック・ジャガーとともにライヴ・エイドに出演。英国でのソロ・コンサート収録の際に共演したブライアン・アダムズは、この共演からヒントを得て、ティナとのデュオ曲を発売した。このデュオ曲“イッツ・オンリー・ラヴ”は、結局、グラミー賞デュオ部門の「最優秀ロック・パフォーマンス賞」を受賞することになった。

 

 

1986年、ティナはアルバム『ブレイク・エヴリ・ルール』を発売する。“ティピカル・メイル”、“トゥー・ピープル”や“ウォット・ユー・ゲット・イズ・ウォット・ユー・シー”といった曲が収録されており、この作品は全世界で400万枚を越える売り上げを記録した。

 

 

アルバムの発売に先立って、ターナーは自叙伝『私、ティナ』を出版した。この自叙伝は後にベストセラーとなり、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムの星を贈られた。ティナのツアーは1987年3月にドイツのミュンヘンで最高潮を迎えたが、このツアーは、レコードの売り上げとコンサートへの観客動員数に関して記録破りの結果をもたらすことになった。

 

 

1988年1月、ブラジルはリオデジャネイロのエスタジオ・ド・マラカナンにおいて、入場料を支払って集まった約18万4千人という過去最大の人数の観衆の前で、単独で公演を行った。この公演はポール・マッカートニーと並んでギネス世界記録となった。二つのライヴ・ツアーを成功させたことで、ライヴアルバム『ティナ・ライヴ・イン・ヨーロッパ』が制作、4月に発売された。ティナはツアー終了後、代表曲の一つとなった“ザ・ベスト”が収録されたアルバム『フォーリン・アフェア』で再びその姿を現した。その後、同アルバムの発売記念ツアーで欧州を回っている。米国で同アルバムはゴールド・ディスクになり、その中の“ザ・ベスト”と“スティーミィ・ウィンドウズ”はトップ40入りした。また、ターナーが私的に転居した先のヨーロッパでもこのアルバムは大ヒットとなった。

 

 

1991年、アイク&ティナ・ターナーはロックの殿堂入りが決定した。フィル・スペクターは後に彼らのために賛成している。

同年、元夫婦は自分達の生き様をドラマ化する権利を他人に譲渡しており、二人の半自叙伝的映画『ウォッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット』は1993年に公開されたが、ティナ役をアンジェラ・バセット、アイク役をローレンス・フィッシュバーンが演じ、その他アカデミー賞の最優秀女優賞や最優秀男優賞の候補者が共演して、元夫婦とその周囲の人間模様が描かれた。ティナは“ウォッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット”を初めて再録音し、サウンドトラックに参加した。また、後にアメリカでトップ10入りした“アイ・ドント・ウォナ・ファイト”など数曲を新たに録音している。

 

映画の封切りとサウンドトラック発売に合わせて、ティナは7年ぶりの全米ツアーを開始。ツアー終了後、ティナはスイスに移り、以後1年間の休暇を取っている。

 

 

1995年、ティナはU2の曲“ゴールデンアイ”とともに戻ってきた。ジェイムズ・ボンド映画で使用されたタイトル曲だった。ヨーロッパで大ヒットとなった同曲は、母国アメリカではほどほどの成功だったが、結果としてティナは新しいアルバムを録音することになった。

 

 

1996年、『ワイルデスト・ドリームズ』が発売された。アメリカ国内では大きな成功を収めた訳ではなかったが、ワールドツアーが行われたこと、そしてヘインズがコマーシャルで楽曲を使用したことによって、結局アメリカでゴールド・ディスクとなった。ヨーロッパではプラチナ・ディスクとなり、“ウォットエヴァ・ユー・ウォント”、“ミッシング・ユー”といった曲が小ヒット。“サムシング・ビューティフル”、そして官能的なバリー・ホワイトとのデュエット“イン・ユア・ワイルデスト・ドリームズ”などもヒットしている。

 

 

 

1997年にツアーが終わり、ティナは1999年にケーブルテレビVH-1の「歌姫達のライヴ99」で再び聴衆の前に登場するまで、またもや休息に入ることになる。

 

 

1998年、イタリア人ミュージシャンのエロス・ラマッツォッティと“浮世の事”(Cose della vita)でデュエットを歌い、ヨーロッパでヒットとなった。

 

60歳の誕生日を前に、ティナは、ダンス音楽そのものである“ホエン・ザ・ハートエイク・イズ・オーヴァー”を、そして同曲を収録したアルバム『24/7』(24時間週7日、の意)をその翌月に発売した。北米では2000年に入ってすぐに、このシングルとアルバムの両方を発売している。“ホエン・ザ・ハートエイク・イズ・オーヴァー”の成功と、アルバム発売記念ツアーの結果、このアルバムは米国で再びゴールド・ディスクを獲得。24/7ツアーは、現在に至るまでティナの最も成功したツアーとなり、また同時に、2000年に最も収益を上げた(ポールスターによると、1億ドルを超える売り上げ)ツアーとなった。ギネス世界記録は後に、「ティナ・ターナーは単独でのコンサートで、音楽史上チケットの最多売り上げをあげた」と発表した。その後、ターナーは半ば引退することを発表したのである。

 

 

2002年、テネシー州の州道19号線の、ブラウンズヴィルとナットブッシュの間は「ティナ・ターナー・ハイウェイ」と名付けられた。

 

 

2003年、ティナはディズニーの映画「ブラザー・ベア」の中の曲“グレイト・スピリッツ”をフィル・コリンズとのデュエットで録音している。

 

 

2004年、ターナーは引退を宣言して以来、初めて公の場に姿を現し、編集盤である『オール・ザ・ベスト』を発売した。そして、この編集盤からはシングル“オープン・アームズ”を発売している。結果、アメリカ国内で100万枚以上の売り上げを上げている。

 

 

2005年12月には、ワシントン・DCのジョン・F・ケネディ・センターで、舞台芸術に対してのケネディ・センター名誉賞を授与されている。また、芸能人のエリートの集団に選出された。ジョージ・W・ブッシュ大統領はティナの持つ「天性の才能、エネルギーと性的魅力だ」と述べ、そしてティナの両脚のことを「芸能界で一番有名な脚だね」とも言った。

11月、『オール・ザ・ベスト-ライヴ・コレクション』を発売。同アルバムはアメリカレコード協会からプラチナ・アルバムに認定された。ティナは『オール・ジ・インヴィジブル・チルドレン』のサウンドトラックに参加し、イタリア人歌手エリザと共にデュエット曲“ティーチ・ミー・アゲン”を録音、同曲はイタリアでヒットし第1位まで上昇した。

 

 

2007年、ティナは7年ぶりにライヴを再開。慈善事業のためのコンサートを、ロンドン自然史博物館で主催した。

同年、ハービー・ハンコックがジョニ・ミッチェルへの証として制作したアルバム「River: The Joni Letters」中のジョニ・ミッチェルの曲“Edith and the Kingpin”に参加している。

12月12日、前夫、アイク・ターナーがコカインの過剰摂取が原因で死亡。アイクはまた、肺気腫と心臓血管疾患も長く患っていた。

 

 

2008年2月、ティナはグラミー賞の授賞式でビヨンセと一緒に出演し、正式に復帰。さらに、「River: The Joni Letters」に参加したアーティストとしてグラミー賞を受賞した。

10月、「ティナ!50周年記念ツアー」と題して約10年ぶりにツアーを開始。新たな編集盤が発売され、ツアーは大成功し、DVD『ティナ・ライヴ』も発売された。

2009年、ターナーは仲間であるレグラ・キュルティ、セダ・バグキャン、ディシェン・シャク・ダグセイらとともに、「ビヨンド・シンギング・プロジェクト」に参加している。このアルバムでは、仏教の詠唱とキリスト教の合唱曲を、ティナが読み上げる宗教的なセリフと組み合わせるということが行われた。本アルバムはドイツとその他わずかな国で発売されたのみだったが、スイスではチャート7位まで上昇した。

 

 

2010年4月、主に、グラスゴウ・レインジャーズ・フットボール・クラブのファンによるインターネット上での運動による結果だと思われるが、ティナの1989年のヒット、“ザ・ベスト”がUKのシングル・チャートに再登場し、第9位まで上昇している。

 

 

2011年、スイスで“チルドレン・ビヨンド”が前回同様再びチャートに入っている。

12月、ドイツとスイスのテレビに出演し、アルバムの販売促進を行っている。

 

 

2012年5月、ジョルジオ・アルマーニの北京でのファッション・ショウに随行した。

 

 

2013年4月にはヴォウグのドイツ版の表紙になっている。この時ターナーは73歳で、世界でヴォウグの表紙に登場した最年長の人物となった。

同年、スイスの市民権を得ている。

 

 

2014年2月3日、新しい編集盤『Love Songs』がパーロフォンから発売された。

同年後半になって、ティナ・ターナーが何曲かに参加している『Beyond: Love Within』が発売されている。

 

 

2023年5月24日、スイス・チューリヒ近郊の自宅で死去。83歳だった。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ティナ・ターナー」「アイク&ティナ・ターナー」

公式サイト