小室 等(こむろ ひとし/ 1943年11月23日~)は、

日本のフォークシンガーで、PPMフォロワーズ、六文銭のリーダー。

 

 

東京都葛飾区出身。

聖学院中学校・高等学校卒業、多摩美術大学彫刻科卒業。

 

1962年、FEN(現・AFN)から流れてきたPP&M(ピーター・ポール&マリー)の曲“レモン・トゥリー” (Lemon Tree)を聴いた小室等が感銘を受ける

 

1963年、多摩美術大学在籍中だった小室(Vo、G)が、小林雄二(Vo、G)、依田由紀子(Vo)との3人で「PPMフォロワーズ」を結成。

 

1964年、田辺勝治(B)が加入後、ブリヂストン・ホールでリサイタルを開くが、まもなく解散。

 

1965年、小室、小林と、新たに加わった山岩爽子(Vo)、吉田勝宣(Vo、B)の4人で「PPMフォロワーズ」再結成。

 

1966年2月、日本ビクター(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)から発売されたオムニバスLP『カレッジ・フォーク・フェスティバル』に、当時としては異色のオリジナル曲2曲収録“冬の日”、“目を開けよう”(小室作)で参加。

 

その後、再び活動を休止する。

 

1967年、レコーディングのために再々結集。

9月、唯一のアルバム『オリジナル・フォーク 君はある日』をキングレコードからリリース。

 

1968年、山岩はキングレコードからソロデビューした。

同年、小室は小林とともに「六文銭」を結成。初期の主なメンバーに、岩沢幸矢、石川鷹彦、入川捷、小室のり子がいた。その後、別役実の芝居などに楽団「六文銭」として参加。この時期には歌手・役者など様々なメンバーが出入りしたという。

バンド名は三途の川の渡し賃とされる六文銭に由来とされているが、小室は「月と六ペンス」の「六ペンス」を「六文銭」と訳したとしている。また、「四谷3丁目で目に付いた居酒屋の名」を採ったと岩沢が書いていた。最近のインタビューによれば、日本語によるグループ名を決めようとしている際に見かけた、居酒屋の看板「六文銭」に着想を得、「月と六ペンス」にひっかけて命名したとしている。

 

1969年4月、中川五郎とのカップリングアルバム『六文銭・中川五郎』でURCレコードからデビューする。

 

 

最盛期の六文銭の主なメンバーには、及川恒平、四角佳子、原茂、橋本良一がいた。

 

 

1971年4月1日、小室がファーストソロシングル“雨が空から降れば”をリリース。

後にNHK『みんなのうた』1976年10月〜11月使用曲になった。

 

4月25日、ファーストソロアルバム『私は月には行かないだろう』をリリース。

 

上條恒彦と共演した曲“出発の歌”(たびだちのうた/作詞:及川恒平/作曲:小室等/編曲:木田高介)が、三重県の合歓の郷で行われた「ポピュラーソング・フェステバル'71」でグランプリ受賞。

同年11月、第2回世界歌謡祭でグランプリを獲得。

“出発の歌”の作詞は元々、かぜ耕士が書く予定だったが、「体調が悪くて書けない、降ろしてくれ」と連絡が来たことから、及川恒平が「出発の歌 -失なわれた時を求めて-」というタイトルで詩を書き、会場に向かう新幹線の中で、手直しして完成させた。なお、詩の構想は上條恒彦が1年前からあたためていたものだったという。

 

 

1972年1月1日、この日放送開始のテレビドラマ『木枯し紋次郎』の主題歌“誰かが風の中で”を上条が歌唱、小室は作曲提供した(作詞:和田夏十/作曲:小室等/編曲:寺島尚彦)。

 

4月25日、ベルウッドレーベルの第1回新譜として、六文銭のアルバム『キング・サーモンのいる島』をリリース。同アルバムからは“私の家”、“夏・二人で”、“春は日傘の”、

“サーカス・ゲーム”等を収録。

 

 

 

 

 

同年、六文銭は解散。

11月25日、解散に伴い2枚組アルバム『六文銭メモリアル』をリリースした。

 

 

1973年1月、前年によしだたくろうのバックバンドを務めた柳田ヒロのグループと小室等が組んで「新六文銭」を結成。メンバーは小室(Vo、G)、柳田ヒロ(Key)、後藤次利(B)、チト河内(Ds)、よしだたくろう(リードG、Vo)という顔ぶれ。ところが、ツアーの最中にたくろうが暴行を働いたと女子大生から訴えられたため拘留、ツアーのキャンセルなどを余儀なくされたこの件は女子大生の訴えが虚偽だったとして釈放されるが、新六文銭はまともに音源を残さぬまま消滅した。この新六文銭の消滅の経緯については、たくろうと小室の出会いとその後の付き合いを歌った合作のデュエット曲“君に会ってからというものボクは”で互いがコミカルな掛け合いで触れている。

 

11月25日、セカンドソロアルバム『東京』をリリース。

 

 

その後、新六文銭に名を連ねていたチト河内と後藤次利はフラワー・トラベリン・バンドの元メンバーらと共にトランザムを結成した。

 

 

1974年6月25日、『SINGLES 六文銭』をベルウッドレコードからリリース。

 

この頃、「THE ALFEE」の母体となったフォークグループ「コンフィデンス」が出場したアマチュアのフォークコンテストで彼らの才能に注目し、自身が企画した映画(この映画は諸問題によって計画が頓挫している)のサウンドトラックに参加のオファーを出し、「コンフィデンス」としてのアルバムとシングルのリリースに至った。その後も小室とTHE ALFEEとは現在に至るまで公私に渡り交流が続いている。

11月25日、初のライヴアルバム『デッドヒート』をベルウッドレコードから発売。

 

 

1975年4月11日、小室等・吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるのフォークシンガー4人らで「フォーライフ・レコード」を設立。小室が初代代表取締役社長、後藤由多加が副社長、井上・吉田・泉谷が取締役に就任した。吉田はこの機に芸名を漢字表記の吉田拓郎としている。

10月25日、フォーライフからの小室のソロ第一弾シングル“愛よこんにちは”を発売。

11月25日、フォーライフでの小室のソロアルバム一作目『明日』をリリース。

 

 

1976年6月10日、シングル“お早うの朝”をリリース。TBS系ドラマ『高原へいらっしゃい』主題歌に採用された。

 

9月25日、アルバム『いま 生きているということ』をリリース。

 

11月10日、フォーライフ・レコード創立1周年記念として、小室等・吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるのスプリットアルバム『クリスマス』をリリース。

 

 

1977年、小室に代わり吉田がフォーライフ代表取締役社長に就任。

 

 

1978年9月21日、アルバム『プロテストソング』をリリース。

 

 

1980年1月21日、アルバム『長い夢』をリリース。

 

 

1981年9月5日、アルバム『目撃者 (Eyewitness)』をリリース。

 

 

1982年6月4日、西田敏行主演のTBS系テレビドラマ『淋しいのはお前だけじゃない』が放送開始。西田が歌う同名の主題歌を作詞・作曲し提供した。

 

1990年12月15日、シングル“老人と海”をリリース、ドキュメンタリー映画『老人と海』主題歌。

 

 

1991年5月21日、アルバム『午後のレフュージー 』をリリース 。

 

 

1993年、『小室等 東京昔の音』(文化放送)、『ソングス〜小室等と子どもたち』(日本短波放送)のラジオパーソナリティーが評価され、第30回ギャラクシー賞・ラジオ部門個人賞を受賞。

 

 

1996年、“俺たちの朝”をセルフカヴァーした“青空に問いかけて”が映画『八つ墓村』(市川崑監督)の主題歌に起用される。

 

 

1999年8月21日、「小室等 & 清水國明」名義でシングル“まゆげの唄”をリリース、NHK『みんなのうた』1999年8月〜9月使用曲となる。

 

 

2000年10月、小室と及川恒平、四角佳子の3人で「六文銭」時代の曲を歌ったことをきっかけに「まるで六文銭のように」としての活動が始まる。

 

 

2002年、中山千夏、永六輔、矢崎泰久と設立した「学校ごっこ」にて、月に1度「小室等的フォークの歴史」講座を日本青年館で開く。この活動は2007年まで続いた。

 

 

2009年4月22日、小室の実娘「こむろゆい」が加入。ユニット名を「六文銭'09」に改め、アルバム『おとのば』を発売。

12月2日、こむろゆいとの父娘ユニット「Lagniappe」としての活動を始め、

アルバム『ここ』をリリース。

 

 

2010年、伊豆総合高等学校校歌の作曲を手掛ける。

 

 

2011年10月26日、ライヴアルバム『 小室等 音楽活動50周年ライブ 〜復興〜 <実況録音盤>』をリリース。

 

 

2017年9月20日、アルバム『プロテストソング2』をリリース。

 

 

2018年11月7日、アルバム『自由』をリリースするのと同時に、ユニット名を元々の

「六文銭」に戻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「小室等」「PPMフォロワーズ」「六文銭 (音楽ユニット)」「フォーライフ・レコード」

所属事務所「オフィス・キーズ」公式サイト

office-khys.com