マリスカ・ヴェレス(Mariska Veres/ハンガリー語: Veres Mariska/本名:Maria Elisabeth Ender /1947年10月1日~2006年12月2日)は、オランダ出身の女性歌手。

ロックバンド「ショッキング・ブルー」のリードヴォーカルとして知られる。

 

 

オランダのハーグ(The Hague)生まれ。

父親はハンガリーから移動してきたロマ族(Roma)出身のヴァイオリン奏者であるヴェレシュ・ラヨシュ(本名:Sárközi István Lajos/1912~1981年)。母親のマリア・アントニア・エンダー(Maria Antonia Ender, 1912~1986年)はドイツ生まれで、フランス人とロシア人のハーフ。

姉イロンカと妹アイリーンがいる。

 

彼女はしばしば父親と一緒にピアノを弾き、姉のイロンカも一緒に練習をしたが、

妹のアイリーンは音楽活動はしなかった。

 

1963年、マリスカはギターバンド「レ・ミステレス」(Les Mysterés)にヴォーカルとして加入。

 

1964年、レ・ミステレスはEPを録音した。

 

1965年、マリスカのソロ "Topkapi" / "Is het waar"がインペリアル (Imperial)から発売。

 

1966年、「ブルー・ファイターズ」(Blue Fighters)というバンドに移籍した。

 

1967年、「バンブル・ビーズ」というバンドに参加。

同年、マリスカのソロ "Dag en nacht" / "Al wordt het nu winter"が

フィリップス (Philips)から発売。

同年末、「Motowns」というバンドに参加した。

 

1968年、オランダのバンド「Golden Earring」がシングル1位を記録した祝賀パーティーが開かれ、当時マリスカが所属していたバンブル・ビーズが前座を務めた。この時、彼女の歌唱力とエキゾチックなルックスに目をつけたのが、「ショッキング・ブルー」(The Shocking Blue)のマネージャーと広報担当だった。ショッキング・ブルーは1967年にロビー・ファン・レーベンがオランダで結成したバンドである。マリスカはロビーに誘われ、ちょうどオランダ陸軍へ召集されてしまうヴォーカルのフレッド・デ・ワイルド(Fred De Wilde)と入れ替わりで、ショッキング・ブルーに加入した。

 

こうして、紅一点となるマリスカ・ヴェレスをヴォーカルに迎えたショッキング・ブルーは、ロビー・ファン・レーベン (Robby Van Leeuwen / G、Sitar)、コーネリス・ファン・ダー・ビーク (Cornelius Van Der Beek / Ds)、クラーシェ・ヴァン・ダー・ヴァル (Kassje Van Der Wal / B)というラインナップで新たなスタートを切った。

 

1968年、シングル“センド・ミー・ア・ポストカード”(Send Me a Postcard)を発売、

オランダで11位を記録。

※音が大きめなので要注意

 

1969年、シングル“明日に向う道”(Long Lonesome Road)を発売。

オランダで17位、ビルボード75位。

同年、アルバム『At Home』をリリース。

1988年にニルヴァーナがカヴァーしデビューシングルとしてリリースする“Love Buzz”を収録。

 

同年7月、シングル“ヴィーナス” (Venus)を発売。本国オランダでの週間チャート最高位は第3位だったが、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーなどで、週間チャート1位を獲得した。作詞作曲のクレジットは、「Robbie van Leeuwen / Robert Leeuwen」。

同年、シングル“マイティ・ジョー”(Mighty Joe)を発売。オランダで1位、ビルボード43位に達した。同曲は世界各国でのトータル売り上げでミリオンセラーを記録した。

 

1970年2月7日、“ヴィーナス”がアメリカの『ビルボード』誌チャートで、週間ランキング第1位を獲得、さらに同誌における1970年の年間ランキングでは第22位となった。同誌の集計では、“ヴィーナス”はショッキング・ブルー最大のヒット曲となった。日本では1970年春に大ヒットを記録し、オリコン2位に達した。

同年、“悲しき鉄道員”(Never Marry a Railroad Man)を発売。ビルボード102位、

オランダで1位、オリコン2位。日本では回転数を早めたシングルにより、

同年秋から冬にかけて大ヒットを記録し。ロングセラーとなった。

8月29日、アルバム『Scorpio's Dance』を発売。

 

1971年、“グッド・サリー”は日本でのみシングルカットされた。

4月15日、アルバム『Third Album』をリリース。

ただし、バンドはマリスカ加入前の1967年、ヴォーカルにフレッド・デ・ワイルドを擁した

セルフタイトルのアルバム『Shocking Blue』をリリースしており、

それから数えると本アルバムは4枚目になる。

 

同年、シングル“悲しき恋心”(Blossom Lady)を発売。オランダで2位。

※音が大きめなので要注意

 

同年、初の来日公演が行われ、同曲の来日記念盤が発売された。

シングル“Out of Sight, Out of Mind” /“ I Like You”を発売。オランダ6位。

 

1972年、前年発売の『Third Album』から“夜明けの太陽”(I'll follow the sun)が、日本でのみシングルカットされた。なお、ビートルズが1964年のアルバム『ビートルズ・フォー・セール』(Beatles for Sale)に収録した“I'll follow the sun”とは同名異曲である。

 

3月20日、アルバム『Inkpot』をリリース。

同年、シングル“Inkpot” / “Give My Love to the Sunrise”発売。オランダ5位。

 

 

前年の日本公演の模様を録音したライヴアルバム『Live in Japan』を発売。

 

1973年、アルバム『Ham』を発売。

 

シングル“Let Me Carry Your Bag” / “I Saw You in June”と、

“Oh Lord” / “In My Time of Dying”を発売。前者は本国では振るわなかったものの

フランスで2位を獲得、後者はオランダで14位、ベルギーで6位を記録した。

同年、ロビー・ファン・レーベンがバンドを脱退。

 

1974年半ばにマリスカも去り、バンドは事実上、空中分解。

同年6月1日、ショッキング・ブルーの解散を発表し、マリスカはソロ歌手に転向した。

同年、マリスカのソロシングル"Need You Near Me" / "It's A Long Hard Road" がPolydorから、日本でのみ発売された。

 

1975年、ショッキング・ブルーのシングル“Gonna sing my song”が発売される。

所属レコード会社との契約上の関係から、解散の翌年にリリースされた。日本未発売。

同年、マリスカがソロシングル"Take Me High" / "I Am Loving You"を

Pink Elephant, Polydor, Deccaから発売。主にオランダ、ベルギー、ドイツで人気があった。

 

 

1976年、ソロシングル"Tell It Like It Is" / "Wait Till' I Get Back To You" をPink Elephant, Polydorから発売。

同年、ソロシングル "Loving you" / "You Showed Me How"をPink Elephantから発売。オランダの他、ベルギー、ドイツでも人気があった。

 

1977年、ダスティ・スプリングフィールドのカヴァー"Little By Little" / "Help The Country" をソロシングルとしてPink Elephantから発売。

 

1978年、ソロシングル"Too Young" / "You Don't Have To Know"をSerambleから発売。

同年、ソロシングル"Bye Bye To Romance" / "It's A Long Hard Road" をCNRから発売。

 

1979年、ショッキング・ブルーは最も有名な顔触れで再結集し、1974年の解散以来の最初のシングルとして“ルイーズ”をレコーディングした。しかし、理由は不明だが、この曲はリリースされなかった。

 

1980年、ライヴを行い、“ヴィーナス”や“悲しき鉄道員”などの初期の曲を演奏した。

同年、ソロシングル"Looking out for number one" / "So Sad Without You" をCNRから発売。

 

1982 年、ソロシングル"Wake Up City" / "In The Name Of Love"をEMI Recordsから発売。

 

1984年、バンドは再々結成を試みるが、オリジナルメンバーであるロビー・ファン・レーべンは参加しなかった。

 

1986年、イングランドのガール・グループ「バナナラマ」(Bananarama)が“ヴィーナス”をカヴァー。バナナラマのヴァージョンは、ビルボード誌の「Hot 100」で、1986年9月6日に週間ランキング第1位を獲得した。ビルボード誌1986年年間ランキングでは第30位。ビルボード誌の集計では、バナナラマ最大のヒット曲となった。日本のオリコンでは最高43位だったが、洋楽チャートでは1986年11月17日付から9週連続1位を記録。ビルボード誌Hot 100およびオリコン洋楽チャートにおいて、同一曲で2組のアーティストにより1位を獲得した曲となった。

同年、バンドは“I Am Hanging on to Love”と“The Jury and the Judge”をレコーディング。

さらにまた、彼らは別の未発表曲“TimeIsa Jetplane”を録音した。

 

1993年、マリスカはジャズグループ「The Shocking Jazz Quintet」を立ち上げ、1960年代と1970年代のポップソングをジャズバージョンでレコーディング。

「Mariska Veres Shocking Jazz Quintet 」名義でアルバム『Shocking You』としてリリースした。

 

 

1994年、マリカスはバンドの元メンバー、ロビー・ファン・レーベンがプロデュースした

“Body and Soul”と“Angel”などをレコーディング。

同年、“Body and Soul”/“Angel”がショッキング・ブルー名義でシングル発売される。

 

1998年4月2日、ショッキング・ブルーのドラムス担当だったコーネリス・ファン・デル・ビークが

ロッテルダムにて49歳の若さで逝去。

 

2003年、Andrei Serbanとともにレコーディングを行い、「Mariska Veres & Ensemble Andrei Serban 」名義でアルバム『Gipsy Heart』をRed Bulletからリリース。

 

マリスカはギタリストのアンドレ・ファンジェルドルプと長い間付き合っていたが、

結婚したり子どもを産んだりすることはなかった。

 

2006年12月2日、マリスカは胆嚢がんが原因で、生まれ故郷のハーグにて死去した。59歳。

一生独身を通し、子どもがいなかった彼女は、猫とお茶とケーキを愛した生涯を終えた。

 

2007年、「Mariska Veres & Dolf de Vries」名義で、アルバム『Another Touch』をRed Bulletからリリース。

 

2018年2月12日、ショッキング・ブルーのベーシスト、クラーシェ・ヴァン・デル・ヴァルが69歳で逝去。

 

なお、ショッキング・ブルーの代表曲“ヴィーナス”はいずれのオリジナルアルバムには

収録されていない。

現在手に入るベスト盤だったら、これが適当か。

 

 

 

(参照)

Wikipedia「マリスカ・ヴェレス」「ショッキング・ブルー」「Mariska Veres」「Shocking Blue」(英語版)