リアム・ギャラガー(Liam Gallagher /本名:William John Paul Gallagher/1972年9月21日~)は、英国のミュージシャン。元オアシス、元ビーディ・アイのリード・ヴォーカリスト。
イングランドのマンチェスター南部に位置するバーナッジ(Burnage)で、アイルランド系の両親、母ペギーと父トミー(1945〜)の間に三男として生まれる。
1966年生まれの長男ポール、後にオアシスでともに音楽活動をする1967年生まれの次男ノエル(Noel Thomas David Gallagher/1967年5月29日~)がいる。
10代前半から音楽にはまっていた兄のノエルとは違い、リアムは18歳頃まではほとんど音楽に関心がなかったが、ストーン・ローゼズのライヴを観たことで音楽に目覚める。
音楽に開眼した後、リアムはザ・キンクスやザ・フー、ザ・ジャム、T・レックス、ビートルズなどを熱心に聴くようになり、最も影響を受けたと思われるジョン・レノンを知る。
その後、学校の友人であったギグジーことポール・マッギーガンからの誘いを受け、
バンド「ザ・レイン」(The Rain)にヴォーカリストとして加入する。
ビートルズのシングルB面曲から名前が採られたザ・レインは、リアムの提案で「オアシス」(Oasis)にバンド名を変更した。この名は、ノエルと共用していた部屋に貼ってあったインディーズ・バンド、インスパイラル・カーペッツ (Inspiral Carpets)のツアーポスターに由来。
1991年8月、そのインスパイラル・カーペッツのローディーを務めていたノエルが、弟リアムのいるオアシスの初ステージを参観。そして、自分がギタリストとして加入し、自分が作った曲をバンドで演奏することを提案した。その結果、バンドはノエルの提案を受け入れ、
5人のオアシスが改めて動き出した。
1992年1月15日、オアシスがノエル加入後初のライヴを、マンチェスターにおけるバンドの登竜門と言える有名なクラブ「ザ・ボードウォーク」で行う。
1993年5月、地元で名高いインディー・レーベル「クリエイション」と契約。
1994年4月、デビューシングル“スーパーソニック”(Supersonic)発売。全英31位。
8月、3rdシングル“リヴ・フォーエヴァー”(Live Forever)リリース。
初のTOP10入りを果たした代表曲。全英10位。
9月、アルバム『デフィニトリー・メイビー』(Definitely Maybe)発売。英国で初登場1位の大ヒットとなり、2006年にアークティック・モンキーズに破られるまで、デビュー・アルバム最速売り上げ記録となった。
東名阪のクアトロで初来日公演。
12月、クリスマスシングル“ホワットエヴァー” (Whatever) 発売。全英最高3位。
1995年4月、ドラマーのトニー・マッキャロルが解雇され、代わりにポール・ウェラーの推薦で
元スタークラブのドラマーで、スタイル・カウンシルのスティーヴ・ホワイトの実弟、
アラン・ホワイトが加入。
シングル“サム・マイト・セイ”(Some Might Say)が全英1位。
6月、アランとともに、グラストンベリー・フェスティバルにヘッドライナーで出演。
8月、メディアに煽られる形で始まった「オアシスvsブラー」の争いは、オアシスの “ロール・ウィズ・イット”(Roll With It)とブラーの “カントリー・ハウス”(Country House)の両シングル同日発売で頂点を迎える。結果はブラーが27万4000枚で1位、オアシスは21万6000枚だった。
9月、ギグジーが精神疲労で一時脱退、代役にThe Ya-YasのScott McLeodを迎え
ツアーを敢行。
10月2日、2ndアルバム『モーニング・グローリー』([What's the Story] Morning Glory?)発売。UKチャート1位。アルバム売上枚数は2018年時点で、全世界で約2500万枚以上を記録、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が持っていた英国アルバム売り上げ記録を約30年ぶりに更新した。なお、その後クイーンとビートルズに抜き返された。
11月、ロンドンのアールズ・コートで、2日間4万人を動員するライヴを開催。ヨーロッパの屋内ライヴとしてはギネス記録。
1996年、『モーニング・グローリー』からの3作目のシングル“ワンダーウォール”(Wonderwall)が米国でも徐々にチャートを上昇。
初秋の米国MTVアウォードでベストグループを受賞。
2月19日、4枚目のシングル“ドント・ルック・バック・イン・アンガー”(Don't Look Back in Anger)をリリース。シングルでは初めてノエルがリードヴォーカルを担当した。バンド2度目のシングル首位を獲得。
4月、「マンチェスターメイン・ロード 2days」を行い、8万人を動員。
5月、海外向けにシングル“シャンペン・スーパーノヴァ”(Champagne Supernova)をリリース。ポール・ウェラーがバックヴォーカルとギターでゲスト参加している。
8月、ロンドン郊外のネブワースにて2日間で25万人を集める(250万件の予約が殺到)。『MTVアンプラグド』に出演した際、収録直前にリアムが喉の不調を訴えキャンセル。代わりにノエルが全曲で歌を披露した。
4日後、リアムがアメリカツアーを拒否したため、ノエルをヴォーカルに据えてツアーを敢行。その後、リアムが復帰するが、数週間後に今度はノエルがバンドを残して飛行機で帰宅してしまう。バンド解散かと騒がれたが、兄弟はすぐに和解し、残りのツアーを終えた。
1997年8月21日、3rdアルバム『ビィ・ヒア・ナウ』(Be Here Now)発売。全英1位、全米2位、オリコンチャート3位を記録。第1週に65万枚を売り上げる全英最速セールス記録を更新した。アルバムからの1stシングル“ドゥ・ユー・ノウ・ワット・アイ・ミーン? ” (D'You Know What I Mean?)は全英1位、2ndシングル“スタンド・バイ・ミー”(Stand By Me)も1位を狙ったが、3週間前に亡くなったダイアナ妃へのトリビュート曲、エルトン・ジョンの“キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997”に阻まれ、2位止まりとなった。しかし3枚目のシングル“オール・アラウンド・ザ・ワールド”(All Around The World)で再び1位を獲得した。
1998年2月、日本武道館3日連続公演。ビートルズと同じキャピトル東急ホテルに滞在。
11月、クリスマス商戦に向け、Bサイドアルバム『ザ・マスタープラン』(The Masterplan)を
リリース。全英2位。
1999年8月、ボーンヘッドが脱退。2週間後、後を追うようにギグジーが脱退。ノエルはボーンヘッドのギターとギグジーベースのパートを録り直す。
12月、元ヘヴィ・ステレオのゲム・アーチャーが加入。元ライド、ハリケーン#1のギタリスト、アンディ・ベルがギグジーの後任として加入する。
デビュー以来所属していたクリエイション・レコーズが倒産。
2000年2月、前年のクリエイション・レコーズ倒産に伴い、自ら立ち上げたレーベル「ビッグ・ブラザー」から4thアルバム『スタンディング・オン・ザ・ショルダー・オブ・ジャイアンツ』(Standing on the Shoulder of Giants)を発売。全英初登場1位。
1stシングル“ゴー・レット・イット・アウト!”(Go Let It Out)が全英1位を獲得。
CDリリースと同時にワールドツアーを横浜アリーナよりスタートさせる。マリンメッセ福岡公演ではリアムが体調不良を訴えて途中で退場している。
5月、ワールドツアー中、アランが腕を痛めバルセロナでの公演をキャンセルする。バンドメンバーは代わりに飲み明かすが、リアムが当時のノエルの妻メグ・マシューズを侮辱し、殴り合いに発展する。ノエルはバンドを一時離脱、過去最大の解散危機を迎える。急遽、代役のギタリストとしてマット・デイトンを起用。バンド史上初めてノエル抜きでライヴが行われる。この時の“アクイース”はノエルパートを丸々観客に歌わせていた。
11月、ノエル復帰後、ロンドンのウェンブリー・スタジアムでの7月に行われた2日間の公演を収録したライヴCDとライヴDVD『ファミリアー・トゥ・ミリオンズ』を発売、
CDは2枚組と1枚組がある。
2001年初頭、南米ツアーをスタート。
5月、ブラック・クロウズ、スペイスホッグと北米ジョイントツアー「Brotherly Love ツアー」を敢行。このツアーのみアラン・ホワイトが怪我の為出演できず、アランの実兄のスティーブ・ホワイトが代役を務めた。
7月、フジロック・フェスティバルで初日のヘッドライナーを務める。
秋から冬にかけてバンド結成10周年小規模クラスのツアー「10 Years of Noise and Confusion Tour」が行われた。
2002年5月、『MTV THE SUPER DRY LIVE』、『MTV Video Music Awards Japan 2002』出演を含めたプロモーションで来日。
7月、5thアルバム『ヒーザン・ケミストリー』(Heathen Chemistry)発売。全英1位。
1stシングル“ヒンドゥ・タイムズ”(The Hindu Times)が全英1位を獲得。
9月~10月、東京(代々木第一体育館)、福岡、大阪、仙台、広島で来日ツアーを敢行。福岡公演(福岡国際センター)では前回のライヴに続いて(そのときとは事情が違うものの)、リアムが途中退場するハプニングもあった。
12月、ミュンヘンのナイトクラブでリアムとアラン、バンド関係者3人が乱闘を起こし逮捕される。リアムは前歯を2本失い、警察官の胸部を蹴りつけた。アランは灰皿で頭を殴られ軽症を負った。バンドメンバーは大量にアルコールを摂取しており、リアムはコカインを使用していた。2年後、リアムは3万5000ポンド(約700万円)の罰金を支払った。
2004年1月、アラン・ホワイトが脱退。元ビートルズのリンゴ・スターの息子
ザック・スターキーが、サポート・ドラマーとして参加。
10月~12月、デイヴ・サーディとスタジオ入りする。
2005年5月、6thアルバム『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』(Don't Believe the Truth)発売、全英1位を獲得。先行シングル“ライラ”(Lyla)も初登場1位を獲得。同アルバムでノエル作曲・リアム歌唱は唯一この曲だけ。オアシスのNo.1シングルは7枚目、またシングル・アルバム総チャートイン週は766週に及んだ。日本では、アルバムがオリコン初登場1位を記録。英国のバンドのオリジナル・アルバムとしては、30年ぶりの快挙となった。
5月、過去10年間に於いて、イギリスで最も成功したバンドとして、ギネスに認定される。
6月30日~7月3日、9年ぶりに地元チームであるマンチェスター・シティFCのホームスタジアム「シティ・オブ・マンチェスター・スタジアム」で3日間のライヴを開催。
8月、サマーソニックのヘッドライナーを務める。
11月、大阪城ホール、東京の代々木第一体育館で来日公演。
2006年3月、映画『GOAL!』のサウンドトラックに3曲を提供。
11月、ノエル選曲による初のベスト・アルバム『ストップ・ザ・クロックス』(Stop the Clocks)を発売。『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』に続いてオリコン初登場1位を獲得。ほぼ同時に、ツアーの模様を収めたロードムービー『ロード・ドント・スロー・ミー・ダウン』が試写公開。
また、世界各地でノエルがゲム、サポート・ドラマーのテリーとともにアクースティック・ライヴを披露する。
11月15日、日本でもMySpace主催によるシークレットライヴが、恵比寿のLIQUIDROOMにて行われた。
日本の恋愛映画『シュガー&スパイス 風味絶佳』に、主題歌の“ライラ”を筆頭に、多くの既発曲を提供。
2007年2月、ブリット・アウォーズ生涯功労賞を受賞。
6月、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』40周年記念スペシャル番組へ「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」のカヴァー曲を提供。
10月21日、バンド初のダウンロード限定販売シングル“ロード・ドント・スロー・ミー・ダウン”をリリース。
10月29日。本国イギリスでロードムービー『ロード・ドント・スロー・ミー・ダウン』がDVDでリリース。日本盤は12月5日発売。
2008年5月、ザック・スターキーが、ザ・フーに専念のため離脱。
代わりにクリス・シャーロックが加入。
9月、先行シングル“ザ・ショック・オブ・ザ・ ライトニング”(The Shock of the Lightning)リリース。同年公開の邦画『K-20 怪人二十面相・伝』主題歌として起用される。
10月、アルバム『ディグ・アウト・ユア・ソウル』(Dig Out Your Soul)をリリース。英国ではスタジオアルバムがデビュー作から7作連続で1位、米国では『ビィ・ヒア・ナウ』以来11年ぶりのトップ10入りとなる5位を獲得。
2009年3月、3年半ぶりの来日公演を敢行。『ミュージック・ステーション』にも出演。
6月、リアムがファッション・ブランド「Pretty Green」を設立。
7月、フジロック・フェスティバルのヘッドライナーを務める。
8月、ノエルがフランスでの音楽フェスティバルへの出演直前に出演を取り止め、公式ウェブサイト上で脱退を表明。オアシスが解散状態となる。
11月、リアムは残されたメンバー(リアム、ゲム、アンディ、クリス)とともに、新たに次のアルバムのレコーディングを行うことを発表。
2010年1月、リアムは次のアルバムに向けて新曲を数曲書き上げ、アルバムは年内にリリースすることを発表。また、当初はオアシスとして活動を継続する予定だったが、結局新たなバンド名で活動することを明らかにした。事実上、これがオアシスの解散宣言となった。
2月、ブリット・アワードにて、アルバム『モーニング・グローリー』で「過去30年間でのベスト・アルバム」を受賞。
5月、リアムは公式サイトなどにて新バンド名「ビーディ・アイ」(Beady Eye)を発表。
6月、オアシス初のシングル・コレクション『タイム・フライズ…1994-2009』( (Time Flies... 1994-2009))を発表。これまで全てのアルバムに収録されていなかった“ホワットエヴァー”や、ダウンロード限定シングル“ロード・ドント・スロー・ミー・ダウン”(Lord Don't Slow Me Down)を含む全26曲が収録された。
全英1位、オリコン初登場2位を記録。
なお、日本盤は全27曲、隠しトラックも含めると全28曲収録された。
同年、ビーディ・アイは“ブリング・ザ・ライト”を発表し、レコード・デビュー。
2011年2月28日、ビーディ・アイのデビューアルバム『ディファレント・ギア、スティル・スピーディング 』(Different Gear, Still Speeding)リリース。オリコン週間アルバムチャートにて5位、全英チャートでは3位を記録した。
オアシスではノエルが主に曲を書いていたが、このアルバムでは全曲リアム・ギャラガー、ゲム・アーチャー、アンディ・ベルの連名でクレジットされている。アルバムからのシングル“The Roller”はげ無の曲だが、英国でオアシスのデビュー曲“スーパーソニック”と同じ31位を記録。
4月、リアム自身の呼びかけで東日本大震災の復興支援ライヴを「JAPAN DISASTER BENEFIT」をロンドン・ブリクストン・アカデミーで行う。ザ・コーラル、グレアム・コクソン、ポール・ウェラー、ケリー・ジョーンズ、プライマル・スクリーム、リチャード・アシュクロフトらと参加。
同年8月、サマーソニックに出演。ビーディ・アイとしては初の来日となった。
その2週間後、ビーディ・アイ単独での来日公演を果たす。
同年下旬、ノエルが自身の新しいバンド「ノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズ」のデビューアルバム『ノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズ』をリリース。
2012年、フジロック・フェスティバルに出演。グリーン・ステージの準ヘッドライナーを努める。 同年8月12日、ロンドンオリンピックの閉会式に出演し、オアシスの曲“ワンダーウォール”(Wonderwall)を演奏した。
2013年3月、ジェフ・ウートンが離脱。新たにジェイ・メーラーが加入。
6月、ビーディ・アイ2枚目のアルバム『ビー』(BE)を発売。全米2位、
オリコン洋楽チャートで2連続1位。
同月、グラストンベリー・フェスティバルに出演。
2014年3月、ビーディ・アイが横浜アリーナ、Zepp Osakaで来日公演。
2014年、オアシスデビュー20周年を記念し、1994~1997年の活動を振り返る「チェイシング・ザ・サン」プロジェクトとして、初期アルバムのリマスター盤リリースを発表。
5月、プロジェクト第1弾として『オアシス』をリリース。
9月、プロジェクト第2弾として『モーニング・グローリー』をリリース。
10月、リアムとアンディがTwitterにてビーディ・アイの解散を発表した。
2016年10月、プロジェクト第3弾として『ビィ・ヒア・ナウ』をリリース。
ドキュメンタリー映画『オアシス:スーパーソニック』が公開される。
2017年、リアムは新たに外部ソングライターを迎え、ソロ・シンガーデビューすると発表。
同年6月、ソロ・ファーストシングル“ウォール・オブ・グラス”をリリース。
10月、初のソロアルバム『アズ・ユー・ワー』をリリース。アルバムは全英1位を記録し、非常に好調なセールスを達成。世間にカムバックを印象付けた。
並行して、アリアナ・グランデが企画したテロリストが起こしたマンチェスターアタックに対する慈善コンサート「One Love Manchester」にサプライズ出演し、宿敵とされていたコールドプレイのクリス・マーティンともデュエットしている。
2020年4月、オアシスの活動当時に作成されていた未発表デモ音源
“ドント・ストップ…”( Don't Stop...)が配信限定でリリース。
(参照)
Wikipedia「リアム・ギャラガー「オアシス(バンド)」「ビーディ・アイ」
ソニーミュージック「オアシス」
https://www.sonymusic.co.jp/artist/Oasis/