ビヨンセ・ノウルズ(Beyonce Giselle Knowles/1981年9月4日~)は、アメリカ合衆国出身のシンガーソングライター、ダンサー、音楽プロデューサー、女優。通称名ビヨンセ(Beyoncé)。

アメリカ合衆国のR&Bグループ、デスティニーズ・チャイルド(Destiny's Child)初期からのメンバーで、グループではリードヴォーカル、プロデューサーも兼ねた。愛称は“B(ビー)

 

 

アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン(Houston)出身。

アフリカ系アメリカ人のマシュー・ノウルズ(Matthew Knowles)と、アメリカインディアンとフランス人の血を引くルイジアナ・クレオールの祖先を持つティナ (Tina) との間に、長女として誕生。フランス領ルイジアナとのゆかりからフランス系の名「ビヨンセ」と命名される。Beyoncé(発音は異なる)は母・ティナの旧姓で、結婚する時に苗字を継ぐ男兄弟がいなかったために生まれた長女に「ビヨンセ」と名付けた。

 

幼少時からアレサ・フランクリン、ホイットニー・ヒューストン、ジェームス・ブラウン、スティーヴィー・ワンダー、ダニー・ハサウェイ、マーヴィン・ゲイ、ミニー・リパートン、シャギー・オーティス、ジャクソン5、スプリームス等が好きで、ソウルミュージックやゴスペル、R&Bに夢中になり、次第にそれ以外の音楽も聴き、自分なりの音楽スタイルを求めるようになった。

7歳頃のビヨンセはダンス・スクールに通い、最初に才能を見出されたダンス講師の勧めで学校主催のタレント・ショーに出場。ビヨンセはステージの上では自分がまったくの別人に生まれ変わることに気づき、パフォーマンスへの自信をつける。

 

娘の潜在能力に気づいた両親は、地元ヒューストンでガールズ・グループ「ガールズ・タイム」(Girl's Tyme) を結成させた。ビヨンセとラターヴィア(LaTavia/1981年11月1日~)が1990年にグループを結成、1992年にジョージア州アトランタ出身のケリー・ローランド(Kelly Rowland /1981年2月11日~)、1993年にラトーヤ(LeToya1981年3月11日~)が加入し、カルテットを結成。4人は各々の地元や、ビヨンセの母が経営する美容室の客に向けて歌うなどしていた。

 

ガールズ・タイムはなかなか大きな成果を得られなかったため、ビヨンセの父マシューが、当時勤めていた給料何十万ドルというゼロックス社を退職し、全マネージメントを一手に引き受けることになった。ビヨンセたちメンバーは10代半ばになると、レッスンに専念するために学校を中退、代りに家庭教師の授業を受けながら、メジャー・デビューに向けて地道な活動を続けた。ビヨンセは父の厳しい指導の元、才能を磨いていき、聖歌隊員として教会でも歌っていた。

 

1996年、グループは、聖書の『イザヤ書』を読んでいたビヨンセの母の提案で、「運命の子」を意味する「デスティニーズ・チャイルド」(Destiny's Child) に改名。やがて4人組デスティニーズ・チャイルドは、クリスティーナ・アギレラやTLCのツアーの前座を経験。

 

 

1997年、デビュー・シングル“ノー、ノー、ノー パート2”(No, No, No Pt. 2)をコロムビアからリリース、いきなり全米3位、R&Bチャートで1位の大ヒットになった。

 

同年、デビュー・アルバム『デスティニーズ・チャイルド』(Destiny's Child)を出し、

ゴールド・ディスクを獲得、4人は全米屈指の人気グループになった。

 

 

1999年7月、メンバーも作詞やアレンジに参加し、旧約聖書のモーゼの戒律をコンセプトにした2ndアルバム『ライティングズ・オン・ザ・ウォール』(The Writings On The Wall)を発売。ここからの1stシングル“ビルズ・ビルズ・ビルズ”(Bills, Bills, Bills)は全米1位、R&Bチャートで9週1位を獲得。

 

2ndシングル“バガブー”(Bug-a-Boo)はR&Bチャート1位を記録。アルバムは全米で700万枚、世界で1000万枚を売り上げた。

 

一方、ラターヴィアとラトーヤはマネージャーのマシューに対し、利益配分や不公平な待遇に以前から不満を募らせていたが、同年、二人は突如グループから解雇され、本人やファンも知らない間に“セイ・マイ・ネーム”(Say My Name)のPVに新メンバーが登場していたという事態に。そのため2人はグループらを相手に訴訟を起こし、2000年には約200万ドルの賠償金を受け取ることで結審。ラトーヤは2005年ソロデビューする。

 

 

2000年2月、イリノイ州ロックフォード出身のミシェル・ウィリアムズ(Michelle Williams/1980年7月23日~)とファラ(Farrah/1981年3月3日~)の2人が新メンバーとして加入するが、ファラは遅刻や欠勤を繰り返し、その怠惰な私生活を理由に解雇される。7月以後は3人編成となり、映画『チャーリーズ・エンジェル』の主題歌“インディペンデント・ウーマン”(Independent Women)が全米1位を11週連続の大ヒット。

 

 

2001年、シングル“サヴァイバー”(Survivor)を発表、400万枚以上をセールスした。

 

5月、3rdアルバム『サヴァイバー』(Survivor)はメンバーのビヨンセ初の本格プロデュースで(起用プロデューサーも選択)、デスティニーズ・チャイルドのアルバムとして初の全米1位を獲得し、世界14か国でも1位となった。

9月7日及び、アメリカ同時多発テロ事件の前日の10日、ニューヨークで行われたマイケル・ジャクソンのソロ30周年記念ライヴで、“ブーティリシャス”(Bootylicious)を歌う。

同年末、クリスマス・アルバム『8デイズ・オブ・クリスマス』(8 Days Of Christmas)を発売後、デスティニーズ・チャイルドは活動を休止した。

同年、映画『カルメン:ア・ヒップ・ホペラ』 (Carmen: A Hip Hopera) の主役に抜擢。

 

 

2002年、映画『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』 (Austin Powers in Goldmember) に出演、主題歌“ワーク・イット・アウト”(Work It Out) を6月に発売。

 

10月、交際が噂されていたジェイ・Zとのシングル“'03 ボニー&クライド” ('03 Bonnie And Clyde) もリリースした。

 

 

2003年6月、ソロデビュー・アルバム『デンジャラスリィ・イン・ラヴ』 (Dangerously in Love) をリリース。ジェイ・Zをフィーチャーした1stソロシングル“クレイジー・イン・ラブ” (Crazy In Love) は、8週連続全米1位を記録した。

 

 

1stアルバムは米国、英国、カナダでポップアルバムチャート(ビルボード200)とR&Bアルバムチャートでトップを記録。米国で400万枚、全世界では1,100万枚以上を売り上げた。シングルとアルバムが同時に米英でポップチャート1位を記録するのは1983年以来、女性では初の快挙となった。ビヨンセは、2003年最も商業的に成功を収める女性R&B歌手になるまで成長した。

ダンスホールレゲエ歌手のショーン・ポールをフィーチャーした2ndシングル“ベイビー・ボーイ”(Baby Boy) もラジオでヘヴィー・ローテーション、9週連続1位を記録。

 

3rdシングル“ミー、マイセルフ・アンド・アイ”(Me, Myself and I)は全米4位、翌年、4thシングル“ノーティ・ガール”(Naughty Girl)最高3位を記録した。

 

 

5枚目シングルは、ロバータ・フラックとダニー・ハサウェイの楽曲を元にした、ルーサー・ヴァンドロスとのデュエット“ザ・クローサー・アイ・ゲット・トゥ・ユー”(The Closer I Get to You)。同曲はヴァンドロスのアルバム『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』(Dance With My Father) にも収録され、第46回グラミー賞ベストR&Bパフォーマンス賞のDuo or Group with Vocals部門を共有した。この他にも2004年の授賞式でビヨンセは、ソロ活動でベスト女性R&Bボーカルパフォーマンス賞、ベストコンテンポラリーR&Bアルバム賞を含む5部門のグラミー賞を受賞。

 

11月、アルバムの成功を受けて初のソロツアー「デンジャラスリィ・イン・ラブ・ツアー」(Dangerously in Love Tour) を開始、英国はじめ3か国を廻った。

11月10日のロンドンのウェンブリー・アリーナでのコンサートの模様は、翌年2004年のライブアルバム『ライヴ・アット・ウェンブリー』(Live at Wembley) に収録。

 

 

2004年、第38回スーパーボウルで、アメリカ国歌“星条旗”を熱唱。出演者の中で唯一の黒人女性のビヨンセはABCのインタビューで、米国の黒人女性はいまだに白人女性以上に努力しないと成功できないと語り、メイクやスタイリストなどステージに必要なものは全て自分で用意しなければならなかったことなどを語った。この問題はのちの2008年に再燃し、ある雑誌がビヨンセの写真を露骨に加工し、肌の色を明るい小麦色にしたことで、論争が巻き起こった。

同年、デスティニーズ・チャイルドは長い休止期間を経て、先行シングル“ルーズ・マイ・ブレス”(Lose My Breath)をリリースして、3年ぶりに活動再開した。

 

11月、4thアルバム『デスティニー・フルフィルド』(Destiny Fulfilled)を発表。初期はリードヴォーカルとしてジャケット写真では常に中心だったビヨンセだが、本作では他の2人のヴォーカルを活かし、3人のバランスが取れたR&B色の濃い作品になっている。また、3人の人気は、2005年にバービー人形になったことにも象徴されている。

 

 

2005年4月、デスティニーズ・チャイルドのワールドツアー「デスティニー・フルフィルド…アンド・ラビィン・イット」(Destiny Fulfilled... and Lovin' It )が広島からスタートしたが、6月11日バルセロナでのライヴ中、突然グループ解散を発表。

9月10日、バンクーバーでデスティニーズ・チャイルドとしての最終公演を実施。

11月15日カリフォルニア州ハリウッドで収録されたアメリカABCのテレビ番組『ジミー・キンメル・ライブ』でのパフォーマンスが最後の出演になった。

12月、ビヨンセはラッパーのスリム・サグをフィーチャーしたシングル“チェック・オン・イット”(Check On It) を発売。同曲は、2006年2月公開され自身も出演した映画『ピンクパンサー』(The Pink Panther) 主題歌で、デスティニーズ・チャイルドのアルバム『ナンバーワンズ』(#1's) と、映画『ピンクパンサー』サントラ盤に収録された。

 

 

2006年2月19日、解散間もないデスティニーズ・チャイルドがヒューストンで開催されたNBAオールスターゲームで1日限定の再結成。試合前の国歌“星条旗”を歌唱した。

9月4日、ビヨンセ25歳の誕生日のこの日、2ndアルバム『ビー・デイ』(B'Day) を発売。日米同時発売で、当日は日本武道館でバースデーライヴ「HAPPY B'DAY PARTY」を開催、アルバム曲を世界初披露するなど、世界に配信されるメモリアルライヴとなった。アルバムからは、先行シングル“デ・ジャ・ヴ feat. Jay-Z”(Déjà vu)、“リング・ジ・アラーム”(Ring The Alarm) (アメリカのみ先行)がヒットした。

 

 

 

12月、ブロードウェイ・ミュージカルを映画化した『ドリームガールズ』に主演。サントラ盤も全米1位を記録し、シングルカットした“リッスン”(Listen) もヒットした。

 

12月、アルバム『ビー・デイ』からの3枚目シングル“レプレイスブル”(Irreplaceable) が年を跨いで10週連続1位を記録。自身のソロキャリアで最も多く1位にランクインした楽曲となり、2007年ビルボードチャート・シングル部門で年間1位を記録、豪州、ハンガリー、アイルランド、ニュージーランドでも1位になる等、世界的にヒットした。

 

また、“アップグレイド・ユー”(Upgrade U)、翌年2007年リリースの“ゲット・ミー・ボディード”(Get Me Bodied)、イギリス圏のみリリースの“グリーンライト”(Green Light) などヒットし、アルバム『ビー・デイ』(B'Day) は第49回グラミー賞で4部門のノミネートを受け、最優秀コンテンポラリーR&Bアルバム賞を受賞した。

 

 

さらに、シャキーラとのデュエットシングル“ビューティフル・ライアー〜華麗なる反撃”(Beautiful Liar) も新曲として発表。この楽曲や“リッスン”、新曲“ウェルカム・トウ・ハリウッド”(Welcome to Hollywood)など5曲をさらに加えた『ビー・デイ』の豪華版も再発売された。

 

 

2007年4月10日、約8か月半にわたる初の大規模ワールドツアー「ザ・ビヨンセ・エクスペリエンス」 (The Beyoncé Experience) を日本の東京ドームからスタート。同ツアーは豪州、欧州、北米、アフリカを凱旋し、計96公演となった。本ツアーを日本から始めた理由についてビヨンセは、大好きな日本は25歳の誕生日を祝ってもらった本当に素晴らしい場所で、世界一のファンがいてくれる日本からツアーを始めることでいいバイヴやエネルギーをもらえると語った。

初の世界ツアーのバックバンド「シュガ・ママ」 (Suga Mama)の10名は全員女性で、日本人ピアニストの辻利恵も参加、メンバーはオーディションで選ばれ、“イレプレイスブル”のPVから参加していた。ツアーには、「ザ・ママス」 (The Mamas) と名付けられたバックヴォーカル3人組の黒人女性も参加した。ライヴではバンド・メンバーが各々ソロパートを披露し、ビヨンセは8着の衣装を変えた。10月にはこのライヴ映像を収録したリミックスCD+ライヴDVD『B'DAY〜ザ・ビヨンセ・エクスペリエンス・ライヴ』 (The Beyoncé Experience Live) がリリースされた。

 

 

2008年4月4日、長年の恋人といわれていたジェイ・Zと極秘結婚。友人や親族のみで結婚式を行い、マスコミ等には詳細を一切語っていなかった。結婚指輪の下には「4」のローマ数字「IV」のタトゥーを入れた。なお、婚約した日はジェイ・Zの誕生日だった。

11月、3rdアルバム『アイ・アム…サーシャ・フィアース』 (I Am... Sasha Fierce) をリリース。

本作品は初の2枚組アルバムで、自身をより深く素直に表現した静的な「I Am」サイドと、情熱的でセクシーなステージ上のビヨンセを表現した「Sasha Fiears」サイドで構成。各々のサイドから先行して“イフ・アイ・ワー・ア・ボーイ”(If I Were A Boy)、“シングル・レディース”(Single Ladies) の対照的な2曲をリリース。従来のビヨンセになかったスローテンポで静観的な趣の“イフ・アイ・ワー・ア・ボーイ”は、日本の音楽番組『ミュージックステーション』で世界初披露された。アップテンポの“シングル・レディース”は、全米1位を4週獲得する大ヒットとなった。

 

 

2009年1月、バラク・オバマの大統領就任パーティーでは、オバマが楽屋裏で“シングル・レディース”の片手をヒラヒラさせるダンスの振り付けを披露した映像がネット上でも話題となった。オバマは、次女の名前が「Sasha」であることからビヨンセに関心があったと絶賛した。同パーティーでビヨンセは、映画『キャデラック・レコード 音楽でアメリカを変えた人々の物語』 (Cadillac Records) の楽曲“アット・ラスト”(At Last) をチークダンスのテーマ曲として演奏した。

 

 

2009年2月、アルバムからシングルカット“ヘイロー”(Halo)、“ディーヴァ”(Diva) を各々リリース。“ヘイロー”は爆発的ヒットに至らなかったが彼女にとって最も長くビルボード・ホット100内にキープされた楽曲となった。

 

4月、主演と製作総指揮を行った映画『オブセッション 歪んだ愛の果て』(Obsessed)が全米公開。

“エゴ”(Ego)、“ブロークン・ハーテッド・ガール”(Broken-Hearted Girl) もシングルカット。

6月、“スウィート・ドリームス”(Sweet Dreams) を発売、日本で本人出演のクリスタルガイザーのCMソングになった。

6月25日のマイケル・ジャクソンの急逝に際し、哀悼の言葉を自身のウェブサイトで発表した。

8月、大規模なワールドツアーの合間に、「サマーソニック'09」のヘッドライナーとして日本に再来日。

10月、神戸、大阪、名古屋などで5公演の単独来日ツアーを敢行。この単独公演は、ワールド・ツアーとは全く別に練られたステージングとプロダクションで行われた。

同年、第52回グラミー賞で本年度最多10部門でのノミネーションを記録し、ローリン・ヒルと並ぶ、最多ノミネートのタイ記録となった。

 

 

2010年1月31日のグラミー賞授賞式では、アルバム『アイ・アム...サーシャ・フィアース』(I Am... Sasha Fierce) が年間最優秀アルバム賞、シングル“ヘイロー”(Halo) が年間最優秀レコード賞、“シングル・レディース”(Single Ladies) が年間最優秀楽曲賞など、本年度最多6部門を受賞し、女性アーティストでは史上最多受賞を記録、歴代でも獲得数3位タイという偉業を成し遂げた。なお、年間最優秀楽曲賞は初獲得だった。

1月、ビヨンセが参加しPVにも出演したレディー・ガガのシングル“テレフォン”(Telephone) がリリース。同曲は3月15日、全米1位を獲得。これにより客演したビヨンセは6曲の全米1位シングルを持つことになった。

1月下旬、活動休止を発表。主な芸能活動を休止して約9か月の休暇をとった。この間、これまでビヨンセの全マネージメントを務めていた父マシューからの独立を決意。以後、夫のジェイ・Zと二人三脚で全マネージメントをすることになった。

父親との「ビジネス上での決別」は休暇中の3月、正式発表された。

なお、2009年後半に父・マシューの不倫や隠し子が発覚し、母・ティナが離婚を申し入れ調停中。後に両親の離婚が成立した。

6月、4thアルバム『4』を発表。

ビルボード・ホット200チャートで初登場1位となり、史上3人目となるデビューからアルバム4作連続首位を達成。先行シングル“ラン・ザ・ワールド”(Run the World (Girls) ) のセールスは思ったほど伸びなかったが、フランシス・ローレンスが監督したMVは、モハーヴェ砂漠で200人を超えるダンサーが参加し3日間撮影され、それまでのビヨンセにとって最大規模の大作だった。

『4』からは他に“ベスト・シング・アイ・ネヴァー・ハド”(Best Thing I Never Had)、“パーティー”(Party)、“ラブ・オン・トップ”(Love on Top)、“カウントダウン”(Countdown) などのポップ・ナンバーが次々とシングルカットされてヒットした。

 

 

 

 

なお、アルバムタイトルの『4』の由来については、「4」という数字は自身の誕生日(9月4日)、母の誕生日(1月4日)、夫の誕生日(12月4日)など、自分にとって特別な数字だからだとし、そのため結婚式も4月4日にしたと『ビルボード』誌で語っている。

 

 

2011年8月中旬、ニューヨークで4日行われたレジデンシー・ショウ「4 インティメイト・ナイツ・ウィズ・ビヨンセ」(4 Intimate Nights with Beyoncé) は、収容人数わずか2,500人の「ローズランド・ボールルーム」での公演だったが、4公演約1万枚のチケットが22秒で完売した。

8月28日、MTVビデオ・ミュージック・アワードで、“ラブ・オン・トップ”のパフォーマンス直後に衣装のブレザーのボタンを外してお腹を示し、妊娠していることを発表。世間を驚かせた。

2012年1月7日に長女を出産し、子どもは「ブルー・アイヴィー」(Blue Ivy) と名付けられた。

2日後に夫ジェイ・Zが発表した楽曲“グローリー”(Glory) では、過去に流産した経験など子どもを授かるまでの道のりが明かされている。『4』からのシングル“Love on Top”が2012年3から4月にかけてビルボード R&Bチャートで7週連続1位を獲得した。

 

 

2012年5月25~28日、出産後初のライヴ「レヴェル・プレエンツ:ビヨンセ・ライブ」(Revel Presents: Beyoncé Live) をアトランティックシティで開催。同年に死去したホイットニー・ヒューストンとドナ・サマーの楽曲を取り上げ追悼した。

マイケル・ジャクソンの3回忌には、自身のウェブサイトで、「ガールズ・タイム」(Girl's Tyme) 時代に繰り返し聴いたジャクソン5の“フーズ・ラヴィン・ユー”(Who's Lovin' You) から、「時には、テクニックにとらわれることなく、気持ちの赴くまま歌えばいい」ということをマイケルの歌から教えられ、ソウル(魂)を学んだと追悼の言葉を述べた。

 

 

2013年1月、デスティニーズ・チャイルドは、新曲“ヌクリア”(Nuclear)を含めた、新しいコンピレーション・アルバム『ラブ・ソングス』(Love Songs) をリリース。

同月、バラク・オバマ米大統領の2度目となる就任式で、アメリカ国歌“星条旗”を披露した。

2月3日、第47回スーパーボウルのハーフタイムショーにビヨンセの出演が決まっていたが、ショーの中盤にサプライズとしてケリーとミッシェルが登場し、デスティニーズ・チャイルド時代の曲を披露。再び1日限定の再結成となった。そのパフォーマンスの最中のTwitterには、1分間に26万8000ツイートが記録された。

同月、第55回グラミー賞で、“ラブ・オン・トップ”(Love on Top) が最優秀トラディショナルR&Bパフォーマンスを受賞した。

4月からは、翌年の2014年3月までに全132公演を予定する巨大なワールドツアー「ザ・ミセス・カーター・ショウ」(Mrs. Carter Show World Tour) がスタートした。この5回目のソロツアーは3度目のワールドツアーとなり、欧州、北米、南アメリカ、オーストラリアを回った。

5月には、アンドレ3000と共にエイミー・ワインハウスの楽曲“ブラック・トゥー・ブラック”(Back to Black) をカヴァー。この楽曲は、映画『華麗なるギャツビー』( The Great Gatsby) のサウンドトラックに収録された。その他2013年ビヨンセは、ケリー・ローランドや、ザ・ドリーム、夫であるジェイ・Zなどの楽曲に参加、コラボレーションを行った。

同年は、シングルリリースは無かったが、ペプシのCMソング“グロウン・ウーマン”(Grown Woman) や、H&MCMソング“スタンディング・オン・ザ・サン”(Standing On The Sun)、ホームページで公開した“ボウ・ダウン/アイ・ビーン・オン”(BOW DOWN/I Been On) 等の新曲を次々と公開。

12月13日、突如5thアルバム『ビヨンセ』(BEYONCÉ) を全世界のiTunes Store限定でリリース。事前の宣伝も先行シングルもない異例の状態でのサプライズ・リリースとなった。ビジュアル・アルバムと銘打たれたこの作品は、14曲の新曲と、17編のビデオ映像で構成。Twitterでは発売から12時間で120万ツイート以上を記録した。

『BEYONCÉ』は、発売から3日間で61万7千ダウンロードを売り上げ、ビルボード・チャートで初登場1位を記録した。これでビヨンセは、デビューからアルバム連続5作すべて初登場1位を獲得した史上初の女性アーティストになった。61万7千ダウンロードという数字は、アメリカ国内における2ndアルバム『ビー・デイ』(B'Day) の54万1千枚をデジタルセールスのみで上回った形となり、彼女のキャリアにおいて史上最高の初動セールスとなった。また、全世界での売り上げは3日間で82万8千ダウンロードに達した。これは、iTunes Storeにおける史上最速セールスとなり、6日後には100万ダウンロードに上り、104か国で1位となった。

 

 

2014年1月には、第56回グラミー賞授賞式の冒頭に登場し、夫ジェイ・Zと共に『BEYONCÉ』の収録曲“ドランク・イン・ラヴfeat.ジェイ・Z”(Drunk in Love) のパフォーマンスを披露した。

 

 

2016年2月6日、新曲“Formation”を発表。曲の中で、女性として自立することの大切さを訴えつつも、アメリカで相次いでいる、警察による黒人射殺事件から生まれたスローガン「Black Lives Matter」(ブラック・ライヴズ・マター:黒人の命も大切だ)を意識し、自身の出自や人種的ルーツを語りながら「ブラックであること」を誇りに感じていことを表明した、メッセージ性の強い楽曲となった。

 

2月7日、第50回スーパーボウルのハーフタイムショーに出演。コールドプレイとブルーノ・マーズと共演。前述の“Formation”も披露した。

4月24日、前作に続き予告なしに6thアルバム『レモネード』(Lemonade)を発表。夫のジェイ・Zがオーナーを務める音楽ストリーミングサービス、Tidalでの限定配信が開始された。その販売方法に加え、夫Jay-Zの不貞という私的な問題から黒人女性として生きていくことといった社会的な側面にもフォーカスした作品となっており大きな注目を集めた。世界各地のチャートで1位を獲得したほか、『Rolling Stone』や『The Guardian』といった大手音楽メディアから「2016年最も素晴らしかったアルバム」に選ばれるなど批評家からも圧倒的な支持を集めた。

 

 

2017年6月、ビヨンセは双子を出産した。

 

 

2019年4月、2018年のコーチェラ・フェスティバル出演を追ったドキュメンタリー映画『HOMECOMING』が配信。4月19日、同フェスティバルのライヴ音源を収録したライヴ・アルバム『HOMECOMING: THE LIVE ALBUM』がデジタル/ストリーミングでリリース。Spotify、Apple Musicで聴ける。

同年8月、デスティニ―ス・チャイルドが2020年に再結成しツアーや新曲を出す方向で計画が進んでいることが伝えられた。

 

 

2020年6月、デスティニーズ・チャイルドがビヨンセとケリー・ローランド、ミシェル・ウィリアムズの3人編成になって20周年を迎えるため、新型コロナウイルスのパンデミックが終息したらグループが動き出すとある情報筋が明かしている、と伝えられた。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ビヨンセ」「デスティニーズ・チャイルド」

https://beyonce.com/