大瀧 詠一、大滝 詠一(おおたき えいいち/本名:大瀧 榮一/1948年7月28日~2013年12月30日)は、日本のミュージシャン。

 

 

岩手県江刺郡梁川村(現: 奥州市)生まれ。母子家庭で育ち、母親が公立学校の教師だったため、小学校で江刺から遠野、中学で遠野から釜石とそれぞれ転校を経験している。

 

小学5年の夏、親戚の家で聴いたコニー・フランシスの“カラーに口紅”(Lipstick On Your Collar) に衝撃を受けて以降、アメリカンポップスに傾倒。中学入学後ラジオクラブに入りラジオを自作、米軍極東放送 (FEN・当時) やニッポン放送の番組を聴くようになる。

間もなくレコード収集を始め、エルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズなどの音楽を分析的に聴くようになり、独自の研究を深める。

そのため、1962年夏から1966年までにチャートインした曲はすべて覚えているというほど精通している。洋楽面のみで語られがちだが、同時期には小林旭や三橋美智也なども好んで聴き、特にクレージーキャッツの植木等が歌う“スーダラ節」”には非常に影響を受けたとされる。

 

1964年、岩手県立花巻北高等学校に入学、下宿で一人暮らしをするが、授業料を全部レコードにつぎ込んでいたため1年で退学させられ、岩手県立釜石南高等学校(現:岩手県立釜石高等学校)に編入。入学直前、FENでビートルズを知り、以降リバプール・サウンド全般を買いまくったという。釜石南高編入後、初めてバンド「スプレンダーズ」を組み、ドラムを担当していた。

本当はコミックバンドをやりたかったが同志が見つからず、やむなくビートルズタイプのバンドを組んだという。メンバーには現在釜石市にある鉄の歴史館館長を務める佐々木諭がいた。

 

1967年、上京し、小岩の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で退職。

同年夏、布谷文夫と知り合い、洪栄龍らとバンド「タブー」を結成。ドラムを担当したが、

同年末に解散。

 

1968年、早稲田大学第二文学部に入学。布谷を通じて交友があった中田佳彦から細野晴臣を紹介され意気投合。両者の初対面は細野の家に大瀧が招かれる形で行われた。

その際、細野が"腕試し"としてヤングブラッズのシングル盤“ゲット・トゥゲザー”を見えるように置いていたところ、部屋に入るなり気づいた大瀧が「おっゲット・トゥゲザー」と言い、細野を

感心させたという。その後、大瀧・中田・細野の3人で定期的にポップスの研究会を開く。

1969年、細野がいたバンド「エイプリル・フール」の解散直前、細野と松本隆が構想していた

新バンドに加入を要請され受諾。

 

1969年9月、はっぴいえんどの前身「ヴァレンタイン・ブルー」結成。

10月、エイプリル・フール解散。

10月28日、ヴァレンタイン・ブルー、デビュー・ライヴ「ロックはバリケードをめざす」出演。

 

1970年3月6日、遠藤賢司『niyago』レコーディングに参加。

同年3月、ヴァレンタイン・ブルーはバンド名を「はっぴいえんど」に改名。

8月5日、アルバム『はっぴいえんど』を発売し、デビュー。

 

この時期、「新宿プレイマップ」での座談会(日本語ロック論争)に参加。

 

1971年、はっぴいえんど活動中に大瀧はソロ活動を開始、

同年11月20日、はっぴえんどアルバム『風街ろまん』発売。

 

12月10日、はっぴいえんどシングル“花いちもんめ / 夏なんです”、

大瀧ソロ・シングル“恋の汽車ポッポ / それはぼくじゃないよ”を同時発売。

 

 

1972年6月25日、大瀧、ソロ・シングル“空飛ぶくじら / 五月雨”発売。

 

7月1日、「ラスト・はっぴいえんどツアー」開始。

10月、渡米してロサンゼルスでアルバム『HAPPY END』をレコーディング。

11月25日、大瀧、ソロ・アルバム『大瀧詠一』発売。

12月31日、はっぴいえんど、正式解散。

 

1973年2月25日、はっぴいえんどラスト・アルバム『HAPPY END』、

シングル“さよならアメリカ さよならニッポン / 無風状態”同時発売。

はっぴいえんど解散後、大瀧はソロ活動に移行せず、

当時のシンガーソングライターとしては異例であるCMソングの制作と、

ごまのはえ、布谷文夫など若手のプロデュースを始める。

なお、漢字表記は、「はっぴいえんど」時代が「大瀧 詠一」、1973年頃、ソロになって以降は主に「大滝 詠一」となっている。本稿でも以下は「大滝詠一」、「大滝」と表記する。

 

 

1974年9月には自らが作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニア・原盤制作・原盤管理などを行うプライベートレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立し、エレックレコードと契約。

 

 

1975年4月、ナイアガラ・レーベルから発売された初の作品が、

シュガー・ベイブのシングル“DOWN TOWN”およびアルバム『SONGS』である。

同年5月、はっぴいえんど解散後初となるソロ・アルバム『NIAGARA MOON』を発表。

 

また、ラジオ関東(現在のアール・エフ・ラジオ日本)の番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』でDJを開始するなど精力的に活動するが、その矢先、エレックレコードが事業縮小し契約破棄される。

 

 

1976年にコロムビアレコードにナイアガラごと移籍。

その際の契約は、福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルのマルチトラックレコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するというものだった。

3月25日に山下達郎、伊藤銀次とのアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』、

10月25日に大瀧のソロ・アルバム『GO! GO! NIAGARA』、

『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はヒットしたものの、

以降の作品は完成度と裏腹に売上が低迷。

1977年の『NIAGARA CALENDAR』はチャート入りさえしなかった。

 

 

 

 

1978年の『LET'S ONDO AGAIN』を最後にコロムビアとの契約を解消。

福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥る。

 

 

1980年にコロムビア主導で『TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA』が発売された時には本来ならばもう1枚作らないといけない契約になっていたため安堵したという。

 

1980年にプロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBSソニーに移籍。

旧友の松本隆と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに着手。

このレコーディング中に、女性向きと考えた“さらばシベリア鉄道”を太田裕美に提供。

同曲は大滝の曲で初めてのヒットシングルになった。

 

 

1981年3月21日、『A LONG VACATION』発表。売上は当初停滞していたが徐々に数字を伸ばし、夏にはチャート2位を記録。「第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞」を受賞した。

 

 

 

同年7月にリリースされた西城秀樹のアルバム『ポップンガール・ヒデキ』に

“スポーツ・ガール”、“ロンサム・シティー”を提供(作詞は松本隆)。

同年10月7日リリースの、松田聖子のシングル“風立ちぬ”で旧友の松本隆とコンビを組み、

初のチャート1位を記録。

 

 

1982年には、うなずきトリオのシングル“うなずきマーチ”が大滝作詞曲で初のチャート入りし、多くのアイドルソング・コミックソングなどを手掛け一躍名声が高まる。

 

また、1982年11月21日発売の森進一のシングル“冬のリヴィエラ”や

1985年11月20日発売の小林旭のシングル“熱き心に”など

演歌系のジャンルにも進出を果たす。

 

 

1984年のアルバム『EACH TIME』制作時に歌手活動の休止を決断。

1985年6月のはっぴいえんど再結成ライブを最後に人前で歌うことはほとんどなくなり、

同年11月にシングルカットした“フィヨルドの少女”を最後に新譜の発表は長い間途絶える。

 

プロデューサー・作曲家として80年代後半も引き続き活動し、1986年には自身が少年期からのファンであるクレージーキャッツの30周年記念作を手掛け、

新曲“実年行進曲”を作曲・編曲、五万節のリメイク“新五万節”を編曲(クレジットでは編々曲)した。クレージーキャッツの楽曲を数多く手掛けた萩原哲晶の愛好家でもある大滝は

萩原に敬意を表して、彼の名前を「原編曲」としてクレジットし、

“実年行進曲”と“新五万節”に過去の楽曲のフレーズを挿入している。

 

1980年代後期以降、ナイアガラレコードの旧譜のリマスタリングや、大滝が影響を受けた先人の音源復刻「LEGENDARY REMASTER SERIES」の監修やライナー執筆、ラジオの特別番組のDJなどを行う。また、1979年から本格的に取り組み始めたポップス史の研究は、1983年に「分母分子論」としてその一端が明らかにされていたが、1991年にはそれを更に発展させた「普動説」として結実させている。

 

 

1988年に小泉今日子に提供した“快盗ルビイ”以降作曲から遠ざかっていたが、

1994年からソニーのOo Recordsに取締役兼プロデューサーとして参加。

1995年の渡辺満里奈の“うれしい予感”が作曲家としての復帰作となる。

 

 

1997年11月12日、12年ぶりに発売された大滝詠一通算14作目のシングル“幸せな結末”は、

木村拓哉と松たか子主演の月9ドラマ『ラブジェネレーション』主題歌としてミリオンセラーに。

これに続き、市川実和子のシングル・アルバムのプロデュースも手掛ける。

 

 

2000年代に入ると再び旧譜のリマスタリング、音源復刻監修を再開。

また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり、

昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。

 

 

2003年5月21日、6年ぶりのシングル“恋するふたり”を発表。

江口洋介主演の月9ドラマ『東京ラブ・シネマ』主題歌としてヒットする。

また、竹内まりやのアルバム『Longtime Favorites』でフランク・シナトラ & ナンシー・シナトラの“恋のひとこと” (SOMETHING STUPID) をデュエット。これらが最後の作品発表となった。

 

 

2004年末には自宅にマスタリング用の器材を導入し、福生45スタジオが復活。

2005年から最後のリマスターとして、ナイアガラ旧譜の30周年アニバーサリー盤の発表を順次開始。

2014年3月には最終作となる「EACH TIME」の発表を控えていた。

またラジオ『大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝』も佳境にさしかかっており、

2014年春もしくは夏に完結し、本命であるイギリスのポップス伝に

移行するものと目されていた。

 

 

2011年3月11日に起きた東日本大震災後には、地元・岩手の同級生に電話を掛けて

安否確認をする等、震災にあった郷里に思いを寄せ続け、

被災者となった同級生にサインを入れた自身のCDを贈っている。

 

 

2013年12月30日17時30分頃、東京都西多摩郡瑞穂町の自宅で

家族と夕食後のデザートにリンゴを食べている時に倒れ、救急搬送された。

警視庁福生警察署などによると、家族は「林檎を食べていてのどに詰まらせた」と説明していたという。

救急隊がかけつけた時は既に心肺停止状態であり、病院に搬送後19時頃に死亡が確認された。

死因は解離性動脈瘤とされた。報道では発症部位など詳細については発表されていない。

享年65。

 

 

2014年12月3日、死後約1年経って、生前に山下達郎へ構想を語っていた

オールタイムベストアルバム『Best Always』が発売。

これには大瀧自身が密かにレコーディングしていた

“夢で逢えたら”のセルフカヴァーが収録されている。

大瀧の唄声による「新作」が発売されるのは実に11年ぶりとなった。

 

 

 

2015年3月21日には、発売が待ち望まれていた『Niagara CD Book II』も発売された。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「大瀧詠一」「はっぴいえんど」