キャット・スティーヴンス(Cat Stevens/現芸名:ユスフ・イスラムYusuf Islam/

1948年7月21日~)は、英国ロンドン出身のシンガー・ソングライター、教育家、慈善活動家。

イスラムは本名スティーヴン・ジョルジオ、ギリシャ系キプロス人の父ステイヴロス・ジョルジオと、スウェーデン人の母イングリッド・ウィックマンの3番目の子供として生まれた。

 

父親はギリシャ正教徒、母親はバプテストであったが、スティーヴンスはマックリン・ストリートにあるセント・ジョセフ・ロマン・カトリック小学校というカトリック系の学校に通っていた。

 

12才でピアノ演奏ができたスティーヴンスはギター演奏も始めるが、

画家をしていた叔父の影響で絵画の技術を習得していく。

その後、ハマースミス・アート・スクールに入学するが、後に放校されてしまったことから、

スティーヴンスは自らの音楽家としてのキャリアを切り拓くことを決断、

コーヒーハウスやパブで演奏するようになった。

 

しかし、自身のギリシア系の名前では覚えづらく芸名には相応しくないと考えた彼は、

新たな名を探し、イギリスや、得にアメリカでは、人々は動物を愛するからということから

芸名をキャット・スティーヴンス (Cat Stevens)にした。

 

1966年、18歳のスティーヴンスはシングル“アイ・ラヴ・マイ・ドッグ”(I Love My Dog)と

“マシュー・アンド・サン”(Matthew & Son)がイギリスのヒットチャートでトップ10にランクインし、続いてデビュー・アルバム『マシュー・アンド・サン』(Matthew & Son)も

チャートに姿を現すようになった。

 

 

 

デビュー当初、スティーヴンスの楽曲にはキャッチーなものが多く、

1967年の“The First Cut is the Deepest”(2ndアルバム『New Masters』収録)は、

P.P.アーノルドやロッド・スチュワート、シェリル・クロウらがカヴァーした。

 

1968年の初頭から重い結核に罹り、数か月の入院と1年の休業を余儀なくされた。

この間、彼は人生について考え、迷走したり、宗教について学んだりもした。

菜食主義者に転向したのもこの頃のことである。

こうした思索は以降の彼の作品に反映されていく。

 

結核が治った彼は、1970年にアメリカ国内でのレコードの配給先となる

アイランド・レコードと新たに契約を交わす。

そこから最初に発売したアルバムが、初期のポップな作品とは趣を異にした

フォーキーで内向的な世界が描かれた『白いバラ』(Mona Bone Jakon)である。

彼の当時のガールフレンドであった女優

パティ・ダーバンヴィルのことを歌った“白いバラ”(Lady D'Arbanville)、

デビュー間もない10代の頃の経験を題材にした“ポップ・スター”(Pop Star)、

ジェネシスの当時のフロントマンだったピーター・ガブリエルがフルートで参加した

“カトマンズ”(Katmandu)などを収録したこのアルバムは、

黎明期の代表作のひとつとして知られている。

 

続いて発売されたのは、彼の世界的なブレイクのきっかけとなった、

1970年のアルバム『父と子』(Tea For The Tillerman)の1曲目、

“子供達の園はどこへ?”(Where Do the Children Play?)。

『父と子』の成功により、前座からメインアクトへと出世したのもこの頃。

ギターやバック・コーラス、ハーモニー・ヴォーカルを務めるアラン・デイヴィーズを連れて

自身のコンサート・ツアーを開始する。

 

1971年にアメリカで大ヒットした“ワイルド・ワールド”(Wild World)はアルバム

『Tea for the Tillerman』に収録されているが、これもジミー・クリフ、マキシ・プリースト、

Mr. Bigをはじめとする多くのミュージシャンがカヴァーしている。

 

1971年のアルバム『ティーザー・アンド・ファイアーキャット』(Teaser and the Firecat)は

ビルボードのチャートで2位まで上昇して発売後3週間でゴールド・ディスクに認定された。

エリナー・ファージョンが作詞しピアノはリック・ウェイクマンが演奏した賛美歌のカヴァー

“雨にぬれた朝”(Morning Has Broken)や“ピース・トレイン”(Peace Train)、

“ムーンシャドウ”(Moonshadow)などのヒット曲がアルバムには収録されている。

 

 

 

 

また、1972年発表のアルバム『Catch Bull at Four』は、当時のビルボード・アルバム・チャートで3週連続第1位、オーストラリアのチャートでは15週間にわたり第1位を記録した。

 

彼の長いキャリアの間に発売された数枚のベスト盤のうち最も商業的に成功したのは

1975年に発売された『グレイテスト・ヒッツ』で、

このアルバムはアメリカ合衆国だけで400万枚以上のセールスを記録した。

 

スティーヴンスは、1975年にマリブでの事故で溺死しそうになった時、九死に一生を得て

無事生還したが、その際に神に祈った体験から、宗教についてより深く考えるようになった。

そんな時に出合ったのが、イスラム教だった。

 

彼は1977年に正式にイスラム教の信仰に改宗し、

1978年にユスフ・イスラム(Yusuf Islam)の名前をとった。

彼は「常にジョセフの名前を愛していた」と述べ、特にクルアーンのジョセフの物語に

惹かれたという。「Yusuf」は「Joseph」の名前のアラビア語バージョンである。

 

彼がキャット・スティーヴンス名義で発表した最後のオリジナル・アルバムとなったのは、

1978年暮れの『バック・トゥ・アース』である。

ファンへのお別れとして制作した本アルバムで、自己の決意を説明するために収録したのが、

“Last Love Song”や“Just Another Night”などの曲だった。

 

改宗後、ユスフ・イスラムはポップ・スターとしてのキャリアを放棄しました。

歌と楽器の使用はイスラム教徒の法学において議論の的となっている領域であり、

一部の人はハラーム(アッラーにより禁止されているもの)であると考えており、

これがポップスの世界から彼が身を引いた理由です。

 

彼は、彼の音楽キャリアから蓄積された富と継続的な収益を用いて、ロンドンの

イスラム教徒コミュニティや他の場所での慈善的および教育的理由に使用することに決めた。

1981年、彼はキルバーンのロンドン北部にあるソールズベリーロードに

イスラミア小学校を設立した。

 

その後、彼は自ら設立したスモール・カインドネスというチャリティ団体の代表に就任した。

この団体は当初飢饉の犠牲となった難民たちを支援するために立ちあげられ、

現在ではバルカン諸国やインドネシア、イラクなどで貧困にあえぐ家庭や孤児を援助する

活動を続けている。

彼はまた1985年から1993年にかけて、慈善団体のムスリム・エイドの代表も務めていた。

 

1985年、ユスフ・イスラムは改宗後初めて公の場に姿を見せることを決意する。

その舞台となるはずだったのが、エチオピアを襲った飢饉を救うために催された、

かの歴史的なチャリティ・コンサート「ライヴエイド」であった。

ところが、このイヴェントのために特別に新曲まで用意してあったにもかかわらず、

エルトン・ジョンのセットが長引いたために、結局彼は最後まで出演することができなかった。

 

彼は1989年、『悪魔の詩』の著者サルマン・ラシュディの死を求める「ファトワ」(イスラム教においてイスラム法学に基づいて発令される勧告、布告、見解、裁断の事)について尋ねられた。新聞は彼の反応をすぐにファトワへの支持であると解釈したが、

彼は翌日自分が殺害予告を支持していないとの声明を発表し、

単に冒涜に対するイスラム法的罰を説明しているだけであったと説明した。

しかし彼のその後のコメントもファトワの支持と見なされ、これをきっかけに

アメリカではラジオ局から彼の楽曲が締め出される動きが広まった。

彼がラシュディの暗殺を求める声をどの程度支持しているかについては

現在も議論が続いているが、事件は彼の「平和の人」としての評判に消えない傷を残した。

一方、彼は誤解されたと主張している。

 

1990年代の数年間、ユフスはイスラム教のテーマについての歌詞を基に、

基本的な打楽器のみを伴うレコーディングを行った。

1990年代後半、ナシードグループのライハンのアルバムに“神は光”のシンガーとして客演。

 

2001年9月11日の米国攻撃に対して、ユスフは即座に激しく発言し、

無差別テロ攻撃を強く非難した。

同年10月のニューヨーク市コンサートのVH-1プレショーのビデオテープに出演し、

攻撃を非難し、“ピース・トレイン”をアカペラバージョンで20年以上ぶりに披露した。

彼はまた、ボックスセットの使用料の半分を犠牲者の家族のための9月11日基金に、

残りの半分を開発途上国の孤児に寄付した。

 

2004年9月21日、ユスフはロンドン発ワシントン行の飛行機に乗っていたが、

彼の名前を飛行禁止リストにあるものとして税関の捜査官は運輸保安局に警告、

ユフスはFBIに拘束され、翌日、Yusuf Islamはイギリスに送還された。

米国運輸安全保障局は「潜在的テロリスト関連活動との関係について懸念がある」と主張。 米国国土安全保障省は、ユスフがパレスチナのイスラム過激派グループハマスに

資金提供したと具体的に主張した。しかし彼の国外追放は国際的論争を引き起こした。

ユスフは、自分が監視リストに含まれているのは単なる誤りである可能性があり、

同じ名前でスペルが異なる男性を誤って特定したと主張。

同年10月、イギリスの新聞『サン』と『サンデータイムズ』は、ユフスがテロを支持したと主張し、米国政府による彼の強制送還を支持すると表明した。

これに対してユフスは名誉毀損を訴え、「合意された和解」と新聞からの謝罪を勝ち取った。

2年後の2006年12月、ユフスは、自身の新しい作品を宣伝するために、

いくつかのラジオコンサートの演奏とインタビューを受けるために米国に問題なく入国した

 

彼は、イスラムについて子供たちを教育するために作られた資料がほとんどないことに気づいた後、2000年に『A Is for Allah』と呼ばれる子供向けアルバムを制作した。

 

彼はまた、「Mountain of Light Productions」と呼ばれるレコードレーベルを設立し、

その収益の一部をイスラムのSmall Kindnessチャリティに寄付している。

同2000年にキャット・スティーヴンスのアルバムが再リリースされた際、

ユスフは、イスラム教への誤解のために英語での演奏をやめたと説明した。

 

2003年、イスラム世界からの励ましを繰り返した後、

ユフスは、コンピレーション・アルバム『Peace Train』を再び録音した。

本作品には、デヴィッド・ボウイとポールマッカートニーによるパフォーマンスも含まれていた。

同年5月にはベスト盤『Remember Cat Stevens』の欧州各国での総売上が100万枚を

突破したことで、 彼は国際レコード産業連盟によって表彰される

プラチナム・ヨーロッパ・アウォードの一人目の受賞者となった。

 

彼はネルソン・マンデラの46664コンサートで、昔『白いバラ』に参加してもらった

ピーター・ガブリエルと“ワイルド・ワールド”を演奏した。

2004年12月、彼とロナン・キーティングは、 “父と息子”の新バージョンをリリース。

“父と息子”の収益はバンドエイドの慈善団体に寄付された。

 

2005年のプレスリリースで、彼は再びレコーディングに取り組んでいると言及。

同年初め、彼は2004年の津波災害に関する“インド洋”というタイトルの新曲をリリースした。

この曲は、インドの作曲家/プロデューサーであるA. R.ラーマン

、A-haキーボードプレーヤーのマグネフルホルメン、トラビスのドラマー、

ニールプリムローズをフィーチャーしたもの。

シングルの収益は、イスラムの小さな親切慈善事業を通じて、

津波の影響が最も大きい地域のひとつ、バンダアチェの孤児を支援するために寄付された。

同居行は当初、配信のみだったが、後にベスト盤『Cat Stevens:Gold』に収録された。

 

2005年5月28日、彼は基調講演を行い、デュッセルドルフのAdopt-A-Minefield Galaで演奏した。 Adopt-A-Minefieldチャリティは、ポールマッカートニー卿の後援の下で、地雷除去と地雷生存者の更生のための意識と資金を集めるために国際的に活動している。

ユスフ・イスラムは、ジョージ・マーティン卿、リチャード・ブランソン卿、ブトロス・ブトロス=ガリ博士、クラウス・ボルマン、クリストファー・リーなどを含む名誉委員会の一部として出席した。

 

2006年3月、彼は1978年以来となる、新しいポップアルバムのレコーディングを終了した。

アルバム『An Other Cup』は、2006年11月に自身のレーベル「Ya Records」(英国のPolydor Recordsから国際的に配布され、Atlantic Recordsから配布)で国際的にリリースされた。

このアルバムからシングル“Heaven / Where True Love Goes”が同時にリリースされた。

クレジットは「ユスフ」として表され、ジャケットには

「以前はキャット・スティーヴンスとして知られていたアーティスト」と表記されている。

ユスフ・イスラムは“誤解しないでください”を除いた全ての曲を書き、米国と英国で録音した。

 

2014年に「ロックの殿堂」入りを果たす。

 

2016年から2017年に開催したアコースティック・ツアー「A Cat’s Attic : 50 Year Anniversary」を最後にツアーから遠ざかっていたが、1970年11月にリリースされたアルバム

『Tea for the Tillerman(邦題:父と子)』の50周年を記念し、

2020年は夏にヨーロッパ・ツアーを行なうと発表。

 

2019年、「ソングライターの殿堂」入りを果たす。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「キャット・スティーヴンス」

MUSIC LIFE CLUB

https://www.musiclifeclub.com/news/20191108_05.html