ブライアン・メイ(Brian May、CBE/1947年7月19日~)は、

イギリスのミュージシャン、また天文学者(天体物理学博士)。

ロックバンド「クイーン」(Queen)のギタリストとして知られている。

 

 

イングランド・ミドルセックス州ハンプトン出身。

インペリアル・カレッジ・ロンドンで学び、大学院では宇宙工学を研究、

クイーンの活動が軌道に乗るまでは中学校の講師として教鞭を執っていた。

 

ブライアンとロジャー・テイラーが在籍していたバンド「スマイル」は1969年9月、

シングル“Earth”(B面は“Step On Me”)を発表するがまったく成功せず、

ヴォーカル兼ベースが脱退。

その後任ヴォーカリストとして加入したのが、旧知だったフレディ・マーキュリーであった。

 

1970年7月12日、バンドはこの日のライブから「クイーン」と名乗り始める。

 

1971年2月、それまで入れ替わりが激しかったベーシストがオーディションで

ジョン・ディーコンに決まり、4人が揃った。

クイーンの英公式サイトでは、この1971年を正式なバンド結成の年としている。

 

1973年7月6日、先行シングルとしてブライアン作詞作曲の

“炎のロックンロール”(Keep Yourself Alive)がリリースされ、

1週間後の7月13日にアルバム『戦慄の王女』(Queen)で本国デビュー。日本発売は1974年。

本作リリース当時、母国イギリスではメディアから酷評されることが多かった。

 

1974年3月、2ndアルバム『クイーン II』(Queen II)を発表。

英国メディアの評価は相変わらずだったが、シングル“輝ける7つの海”

(Seven Seas of Rhye)のヒットもあり、アルバムは全英5位まで上がるヒット作になった。

 

1974年、3rdアルバム『シアー・ハート・アタック』(Sheer Heart Attack)を発表。

先行シングル“キラー・クイーン”(Killer Queen)が全英2位、全米8位のヒットとなり、

後にフレディは作曲者としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。

同年、ディープ・パープル、モット・ザ・フープルの前座として初の全米ツアーを行うが、

ブライアンが肝炎に罹ってしまい、ツアー途中でクイーンは降板を余儀なくされる。

 

1975年2月、カンサス、スティクスらの前座で再び全米ツアーを開始。

ツアーは大盛況で、“キラー・クイーン”は全米12位まで上昇する。

同年4月17日に初来日。空港に約1200人のファンが押し寄せ、武道館ライブは成功を収めた。

10月、4thアルバム『オペラ座の夜』(A Night at the Opera)からの先行シングル

“ボヘミアン・ラプソディ”(Bohemian Rhapsody)が全英9週連続1位の大ヒットを記録。

“ボヘミアン・ラプソディ”はチャリティー以外の曲ではイギリス史上最高の売り上げを記録し、

フレディは同曲で2度目のアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する。

その結果、『オペラ座の夜』は初の全英1位を獲得し、メディアからの評価も高まっていった。

 

1976年、軌道に乗ったクイーンはアメリカ、日本、オーストラリアなどで次々とツアーを敢行。

同年12月、初のセルフ・プロデュースとなった5thアルバム

『華麗なるレース』(A Day at the Races)を発表。

先行シングル発売され、全英2位、全米13位とヒットした“愛にすべてを”(Somebody To Love)や“懐かしのラヴァー・ボーイ”(Good Old-Fashioned Lover Boy)の他に、クイーン流ハードロックの名曲 “タイ・ユア・マザー・ダウン”(Tie Your Mother Down)や歌詞の一部を日本語で歌ったブライアン作の“手をとりあって” Teo Torriatte (Let Us Cling Together)が収録され、アルバムは英国や日本で1位を獲得するヒット作となった。

 

1977年10月、再びセルフ・プロデュースした6thアルバム

『世界に捧ぐ』(News Of The World)を発表。

アルバムは日本と英国では4位止まりだったが、“伝説のチャンピオン”

(We Are the Champions)やブライアン作詞作曲の“ウィ・ウィル・ロック・ユー”

(We Will Rock You)がヒットした米国では過去最高の3位を記録。

また欧州の中で唯一苦戦していたフランスでは“ウィ・ウィル・ロック・ユー”が

12週連続1位となり、13週目には“伝説のチャンピオン”が1位となった。

 

1978年、ヨーロッパ9カ国でツアーを開催。6年目で初のフランスでのコンサートも成功を収めた。

同年11月、7thアルバム『ジャズ』(Jazz)を発表。再びプロデューサーにロイ・トーマス・ベイカーを迎え、バラエティに富んだサウンドと楽曲を展開している。先行シングル“バイシクル・レース” (Bicycle Race)のプロモーション用に制作された、全裸の女性が自転車レースをするというポスターとビデオは物議を醸したが、アルバムは全英2位、全米6位の大ヒットとなった。

同曲と両A面扱いだった“Fat Bottomed Girls”はブライアンの作。

 

1979年、ヨーロッパツアーを開催。東西冷戦状態であったユーゴスラビアも

ツアーのプログラムに入っていたことで話題を呼んだ。

ライブ・アルバム『ライヴ・キラーズ』で1970年代を締めくくった。

 

1980年6月、8thアルバム『ザ・ゲーム』(TheGame)を発表。全英・全米ともに1位を記録した。シングル“愛という名の欲望”(Crazy Little Thing Called Love)が

全米1位とアメリカを中心に大ヒットした。

またジョン作の“地獄へ道づれ”(Another One Bites the Dust)は全米1位を記録し、

アメリカでのクイーン最大のヒット曲となった。

また、『ザ・ゲーム』制作途中で、同名映画のサウンドトラック『フラッシュ・ゴードン』の録音が挟まったこともあり、本作からシンセサイザーが新たに導入された。

なお、『フラッシュ・ゴードン』収録の“フラッシュのテーマ”(Flash)はブライアン作。

 

1981年、初の南米進出を実施、ブエノスアイレスやサンパウロなど各地で大成功を収めた。

同年10月、南米でのツアーを終えたメンバーはデヴィッド・ボウイとの共作曲

“アンダー・プレッシャー” (Under Pressure)を発表。

英国やアルゼンチンで1位を獲得するなど世界的にヒットした。

 

さらに11月、初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』を発売。

クイーンのキャリア前期を総括する本作は、現在英国史上最も売れたアルバムとなっている。

 

1982年5月、10thアルバム『ホット・スペース』(Hot Space)を発表。

前作の成功を受け、フレディとジョンを中心に、ファンク、ダンス・ミュージックの要素を徹底的に突き詰めた内容となった同作の大きな方向転換は、ファンや評論家から強い反発を受け、従来の作品に比べて売上は振るわなかった。

 

1983年、バンドを小休止し、各自ソロ活動に専念した。

 

1984年、音楽的に軌道修正した11作目アルバム『ザ・ワークス』(The Works)で復活。

ロジャー作の“RADIO GA GA”が19ヵ国1位と大ヒットし、またジョン作の“ブレイク・フリー”が、南米などで「自由へのシンボルとしての曲」と位置づけられるなど、

欧州や北米だけではなく南米やアフリカといった地域でも人気を集めるようになっていった。

 

1985年1月、リオデジャネイロで第1回ロック・イン・リオを開催。

2日間で観客動員数60万人という驚異的な記録をつくった。

 

しかしこの頃から、各メンバーがソロ活動に勤しんだこともあって

ンバー間の距離が開きはじめ、次第に仲も険悪になっていく。

 

1985年7月13日、20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」に出演。

出演アーティスト中最多の6曲を披露した圧倒的なパフォーマンスは観客を魅了。

その後の反響は絶大で、世界各国でクイーンのアルバムがチャートを急上昇した。

この思わぬ反響を受けてクイーンは新曲のレコーディングを開始し、同年11月、シングル

“ワン・ヴィジョン”を発表。メディアはこぞって「ライヴエイドの便乗商売だ」と批判したが、

イギリスではチャート7位にランクインした。「ライヴエイドへの出演がなければ、

そのまま、本当に解散していたかもしれない」と、後にメンバーも振り返っている。

 

1986年、12thアルバム『カインド・オブ・マジック』(A Kind of Magic)を発表。

英国を中心に世界中で大ヒットを記録した。

本作発表後には「マジック・ツアー」を行い、

欧州諸国の全26公演で200万人以上の観客を動員した。

ツアーは大成功だったが、フレディの容態悪化に伴い、

クイーンが4人揃ってツアーを行ったのはこれが最後となった。

 

1987年、本田美奈子のシングル曲“CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS”を

ブライアンが作詞・作曲・プロデュースし、ギターも演奏した。

これは本田のイギリス・デビュー・シングルで、英国では“Golden Days”がA面扱い。

 

1988年1月、スタジオに4人が再集結し、アルバムの制作を開始。

 

1989年5月、13thアルバム『ザ・ミラクル』(The Miracle)を発表。

先行シングル“アイ・ウォント・イット・オール” (I Want It All)ともども、

英国やヨーロッパ各国で大ヒットを記録し、人気が健在であることを証明した。

 

しかしツアーの開催については、フレディはあっさり否定した。

以前からフレディにはエイズ感染との噂が飛び交っていたが、

当時本人はこれを否定し続けていた。

 

1991年初頭、14thアルバム『イニュエンドウ』(Innuendo)を発表。

全英1位を獲得した表題曲ではスティーヴ・ハウが客演し、間奏部分でフラメンコギターのソロを披露。メンバー以外がクイーンのスタジオ盤でギターを演奏したのはこれが最初で最後である。続く“ショウ・マスト・ゴー・オン”(The Show Must Go On)も全仏2位と大健闘した。しかし、この頃すでにマーキュリーの体は病魔に侵されていたという。

また、『イニュエンドウ』収録の“輝ける日々”は、フレディの生前最後のミュージック・ビデオ出演になった。映像では、フレディが見る影もなくやせ衰えていることがわかる。

 

1991年11月23日、フレディの自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じて

自身がAIDS感染者であることを明らかにする声明文を発表している。

そして翌24日、フレディ・マーキュリーはHIVによる免疫不全が原因となって引き起こされたニューモシスチス肺炎により、45歳という若さで死去した。

亡くなった1991年は、奇しくもクイーン結成20年目だった。

フレディの死後、クイーンのアルバムが世界中でチャートインし、

英国では“ボヘミアン・ラプソディ”がイギリス史上初の同一曲2度目の1位という記録を樹立。

また、フレディの遺言により初登場1位を獲得した作品の収益金はすべてエイズ基金に寄付された。

 

フレディの死の翌年4月20日に、フレディの追悼コンサートが開催された。

コンサート予定が発表された2月12日時点で出演者は未定だったがチケットは2時間で完売。

当日はロバート・プラント、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、メタリカなどの大物が集結し、

会場のウェンブリー・スタジアムには7万人を超えるファンが集まった。

 

1992年9月28日、ブライアンは初のソロ名義のアルバム

『バック・トゥ・ザ・ライト〜光にむかって〜』(Back to the Light)をリリース。

1991年11月に先行発売された“ドリヴィン・バイ・ユー”(Driven By You)は全英6位に達した。

 

1998年6月1日には、ソロ2枚目のアルバム『アナザー・ワールド』をリリースした。

 

フレディの死から4年後、彼が生前に残した録音を基にした

実質的な最終アルバム『メイド・イン・ヘヴン』(Made in Heaven)が発売された。

“ヘヴン・フォー・エヴリワン” (Heaven for Everyone)や“ボーン・トゥ・ラヴ・ユー”

(I Was Born To Love You)などの各メンバーのソロ曲のリメイク版と、

フィレディとブライアンの共作“マザー・ラヴ” (Mother Love)や

“イッツ・ア・ビューティフル・デイ” (It's A Beautiful Day)などの新曲、

合計11曲が収録されている。また、最後にはCDには記されていない

22分間のボーナストラックが出現し、

マーキュリーへの追悼または天国をイメージさせるような音声が収録されている。

 

アルバムは米国ではゴールド認定(50万枚)に留まったものの、英国で4xプラチナ(120万枚)、ドイツで3xプラチナ(150万枚)を獲得するなど欧州を中心に大ヒットを記録し、全世界では累計約1,000万枚を売り上げた。

 

ベーシストのジョン・ディーコンは、1997年の“ノー・ワン・バット・ユー” (No-One but You (Only the Good Die Young))の発表を最後に、クイーンとしての活動には一切参加しなくなった。

インタビュー記事によると、音楽業界の煩わしさを嫌い、家族とともに暮らしているとのこと。

ブライアンとロジャーがイベントに誘ってもジョンは一切参加しようとしないが、

「彼は今でもクイーンの一員だよ」と2人は述べている。

しかし、2002年の「エリザベス女王在位50周年式典」のロックコンサート以降も、

ブライアンとロジャーの二人は「クイーン」名義で出演しているため、

最低この2人のメンバーが揃うと「クイーン」のバンド名を使うものと思われる。

 

2005年1月、ロジャーとブライアンは、フリーやバッド・カンパニーのヴォーカリストだった

ポール・ロジャースと組んで「クイーン+ポール・ロジャース」として活動することを正式に決定。

全欧ツアーはチケット完売、来日公演は4都市で行われ10万人を動員するなど、ツアーも大成功を収めた。

 

2006年、クイーン名義では24年ぶりとなる全米ツアーも成功させた。

 

2007年の夏からブライアンは天体物理学の研究を再開し、

スペイン領カナリア諸島の天文台で研究を行って論文を完成させ、

母校インペリアル・カレッジでの審査を通過して博士号を授与されている。

 

2008年.「クイーン+ポール・ロジャース」としてニューアルバム『ザ・コスモス・ロックス』を発表。それに伴う欧州・南米ツアーも行ったが、

2009年、ポールは「クイーン+ポール・ロジャース」としての活動に終止符を打ち、

バッド・カンパニーの再始動に移行した。

 

その後しばらくクイーンとしての表立った活動はなかったが、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの2人によりバンドは存続しており、ロジャーは「クイーンは永久に続ける」と明言している。

この間ブライアンは、イギリスの女性ミュージカル歌手ケリー・エリスとアルバムを制作したり、全英ツアーを行ったりと相変わらず積極的な音楽活動を続けている。

 

2009年、ブライアンとロジャーが米国のオーディション番組『アメリカン・アイドル』にゲスト出演。シーズン8の結果発表の前に二人の演奏で最終候補者が“伝説のチャンピオン”を熱唱した。ブライアンとロジャーはそのうちの一人、アダム・ランバートのヴォーカルに惚れこみ、

その場でクイーンへの参加を打診したと伝えられている。

そして2011年、クイーンがMTVヨーロッパ・ミュージック・アワードでグローバル・アイコン賞を受賞。この時ブライアンとロジャーはアダム・ランバートと再共演を果たした。

この3年後、アダムは正式にクイーンに加入し、2020年現在に至るまで活動を続けることになる。

 

同2011年、クイーン結成40周年を記念して、全オリジナル作品をリマスターして発売した。

さらに同年、ブライアンはレディー・ガガの “ユー・アンド・アイ”にて、バックヴォーカルとリードギターで参加。彼女のサード・アルバム『ボーン・ディス・ウェイ』に収録された同曲は、シングル・カットされて大ヒットを記録した。

 

2012年、新たなヴォーカルにアダム・ランバートを迎えて「クイーン+アダム・ランバート」としての活動を開始。最初にウクライナ、ロシア、ポーランド、イギリスの4都市で6公演を行った。

 

2013年の活動は「iHeartRadio Music Festival 2013」への出演だけだったが、

2014年には6月から7月にかけて24公演の北米ツアーを行い、

8月には「SUMMER SONIC 2014」のヘッドライナーとして来日公演を行った。

 

2018年暮、フレディ・マーキュリーに焦点を当ててクイーンの軌跡を描いた音楽伝記映画

『ボヘミアン・ラプソディ』が全世界で公開された。

映画の計画が持ち上がった2010年当初から出演予定者や監督の降板が相次ぎ、本格的な製作開始まで7年近くの歳月を経て、2017年よりブライアン・シンガー監督のもと製作が進められた。

本人であるブライアンとロジャーも製作に加わり、主に音楽監督を務めた。

同映画は商業的には全世界で90億ドル超の興行収入を記録する大ヒット。

第76回ゴールデン・グローブ賞ではドラマ部門作品賞と主演男優賞を、

第91回アカデミー賞では主演男優賞、編集賞、録音賞、音響編集賞をそれぞれ受賞した。

 

2019年、前年に公開された伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』の成功を受け、

世界各国を巡って66公演を行う「THE RHAPSODY TOUR」を開始した。

 

2020年5月1日、クイーン+アダム・ランバートが、クイーンの代表曲

“伝説のチャンピオン” (We Are The Champions)」を

“ユー・アー・ザ・チャンピオンズ”(You Are The Champions)と改題し、緊急リリース。

同楽曲の収益は、『WHOのための 新型コロナウイルス感染症連帯対応基金』に寄付される。

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ブライアン・メイ」「クイーン(バンド)」

公式ホームページ

brianmay.com

ユニバーサル・ミュージック・ジャパン

https://www.universal-music.co.jp/queen/news/2020-05-01/

BBC NEWS JAPAN

https://www.bbc.com/japanese/52803378 t