美輪 明宏(みわ あきひろ/1935(昭和10)年5月15日~)は、長崎県長崎市出身の

日本の歌手、俳優、演出家、タレント、霊能力者としても活動している。

 

 

本名及び1971年までの芸名は丸山 明宏(まるやま あきひろ)、幼名は臣吾(しんご)。愛称はマルさん。

 

1935(昭和10)年5月15日、長崎県長崎市において、

丸山作一・ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。

 

美輪の実家は、長崎市内で「世界」という名前のカフェを開いていた。

1941年12月、米英との戦争体制に入った中で「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、父親はやむ無くカフェを閉店し、金融業に転業する。

 

1945(昭和20)年8月9日、爆心地から約4キロの

長崎県長崎市本石灰町にある自宅において、原子爆弾投下を体験。

 

原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、

返金を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。

その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。

 

終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程無くして、小学校の頃から声楽を習い、ピアノのレッスンを受け始める。

海星中学では、同期に後の政治家・西岡武夫がいた。

 

1951年の春、15歳の時、エンリコ・カルーソーやベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、国立音楽高等学校(現・国立音楽大学付属高等学校)進学のために上京。

しかし、家業が倒産、これをきっかけに高校を中退し、進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌唱するようになる。

 

1952年、美輪明宏(17歳)は、銀座7丁目にあったシャンソン喫茶「銀巴里」(1951年~1990年)の美少年募集の張り紙広告をきっかけに、専属契約を交わし、

「銀巴里」で国籍・年齢・性別不詳の歌手としてデビューを飾る。

 

次第に人気を博し、多くの文化人からの支持を得る。

これ以降、数多くの作家(三島由紀夫、江戸川乱歩、澁澤龍彦、吉行淳之介、瀬戸内寂聴、藤島泰輔、なかにし礼、大江健三郎等)や画家(東郷青児、中原淳一、横尾忠則等)、演劇人(十七代目中村勘三郎、十八代目中村勘三郎、杉村春子、初代水谷八重子、二代目水谷八重子、赤木圭一郎、田宮二郎、寺山修司、蜷川幸雄、五代目坂東玉三郎、渡辺えりなど)、作曲家(池辺晋一郎など)、歌手(フレディ・マーキュリー、吉井和哉等)など、国内外のアーティストと交流を深める。

 

1957年、本名の「丸山明宏」名義で、シャンソン “メケ・メケ”を日本語でカバーし、

艶麗な容貌でシャンソンを歌い上げた明宏は一躍人気を博す。

 

ユニセックスなファッションと、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、マスメディアから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡。

同年製作の映画『暖流』(増村保造監督、大映)に歌手として出演し、銀幕デビューも果たす。

 

しかし、“メケメケ”ヒットに伴うブームは1年程度で終息。

その間、同性愛者である事の公表や、旧来体質の歌謡界との軋轢もあり人気は急落。

そんな逆風の中で明宏は、作詞・作曲活動を開始、多くの佳曲をこの頃に生み出す。

だがその活動は当時、聴衆からも歌謡界からも理解を得られずレコード化すらできなかった。

明宏曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続き、吐血等原爆症に悩まされ始める。

 

 

1963年、中村八大らの助力により、全歌唱曲が自作という日本初のリサイタルを開催。

 

 

1964年には、“ヨイトマケの唄”を初めてステージで披露する。

1965年に“ふるさとの空の下で”とのカップリングでレコード化された“ヨイトマケの唄”は、多くの注目を集め、人気が再燃する。

 

1967年、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、

寺山が美輪に書き下ろした舞台作品『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演する。

 

 

1968年、自叙伝『紫の履歴書』を発表する。(初版は「大光社」刊)

同年、江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本の舞台作品『黒蜥蜴』に主演。

以降も、『椿姫』、『マタ・ハリ』、ジャン・コクトー原作『双頭の鷲』といった舞台や『黒薔薇の館』、『雪之丞変化』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。

 

 

1970年からは、TBSラジオ『ラジオ身の上相談』を担当し、

芸能人が担当する人生相談としては異例の25年という長期に渡り続いた。

 

 

1971年、丸山明宏から「美輪明宏」に改名。女性役を演じなくなるため当時「女優引退宣言」と言われたが、以降、歌手活動に専念。銀巴里や渋谷「ジァン・ジァン」でのライヴをはじめ、全国各地でのリサイタルを精力的に行う。

 

 

1975年の『白呪』等、アルバムも多数発表した。

 

また、男性役では、1977年の映画『日本人のへそ』(井上ひさし原作)や

1976年のドラマ『さくらの唄』に出演している。

 

 

1978年『枯葉の寝床』(原作 森茉莉)で舞台活動を再開するがこの頃、慢性気管支炎になり、年々悪化したため、トークショー等のテレビ出演を控える様になる。

しかし、その後も1979年にエディット・ピアフの生涯を描いた自作自演の『愛の讃歌』初演や、1980年のTVアニメ『メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行』で夜の女王役を演じるなど、演劇の分野では意欲的に取り組んでいる。

 

 

 

1983年には、舞台『毛皮のマリー』や『青森県のせむし男』を再演。

 

 

1984年には、『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方であったが、

同年、パリで公演を行ったのを皮切りに、海外公演に力を入れるようになる。

 

 

1985年の『大典礼』(原作・演出 フェルナンド・アラバール)を最後に1993年の『黒蜥蜴』再演まで舞台から遠ざかった。

この頃の通院時に医師からは「3ヶ月の命かもしれない」と告げられたこともあったという。

 

 

1986年からは東京・渋谷「PARCO劇場」でのロングリサイタルが開始され、

それ以外にも、全国各地でのリサイタル公演を開催するなど継続して活動を続けた。

 

 

1987年には、パリ、マドリード、シュトゥットガルトでリサイタルを開催し、

『ル・モンド』、『リベラシオン』を始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。

 

 

1990年、東京芸術劇場のこけら落し公演『マリー・ローランサン』を演出。

この時、既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが体調面から断念している。

同年、40年近く唄い続けて来た銀座の銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日に行われた「さよならコンサート」で思いを込め作詞作曲した“いとしの銀巴里”を涙ながらに歌い上げた。

この模様を各メディアは挙って大きく報じたことに加え、

翌1991年の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、

美輪曰く、「“メケメケ”、“ヨイトマケの唄”、『黒蜥蜴』に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、この頃からまたテレビやCM等への露出が増えた。

 

 

1993年、持病が奇跡的に完治した事で、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演。

また、この再演時には、自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当。

これ以後、上演される舞台は1994、1996年の『毛皮のマリー』以外、全て美輪自身の演出となった。

舞台に関しては、美輪自らが大道具、小道具、美術・衣装・選曲を担当する事が多いが、美輪明宏版『椿姫』では脚本・振り付けも手がけ、

『愛の讃歌』のように原作まで担当した作品もある。

 

 

1994年には、海外から演出、照明、音楽等、当代一流のスタッフを招き、舞台『毛皮のマリー』を再演。

 

 

1996年、『毛皮のマリー』再演時にもこのスタイルは継承されるが、美輪曰く「演出があんまりひどい時は、私が手直しした」との事で、結局、2001年の再演では、自ら演出する事となる。

キャストも美少女を含め、全員男性で演じる本来の形式に戻された。

同年、三島由紀夫が30年来熱望していた、美輪演出・主演による『近代能楽集より、葵上・卒塔婆小町』を上演。三島を歓喜させた当初のプラン通り、葵上では、舞台デザインにサルバドール・ダリと尾形光琳を取り入れ、音楽は、武満徹の“ノヴェンバー・ステップス”を採用、99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。

同年秋には、『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。

 

 

1997年、13年ぶりの『双頭の鷲』再演で読売演劇大賞優秀賞を受賞。

宮崎駿監督のジブリ・アニメーション映画『もののけ姫』では、

山犬神、モロの君の役で声優を務め、東京スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞する。

 

 

1998年には、『葵上・卒塔婆小町』を再演、

同年秋にはデュマ・フィス原作「美輪明宏版 椿姫」を30年ぶりに再演する。

この年を最後に、翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。

一方、1993年の舞台復帰以降、芝居のスケジュールとの兼ね合いでできない年もあったPARCO劇場でのロングリサイタルは、1998年に「音楽会」と名を改め、

以来、美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着した。

 

 

2000年、銀巴里閉店後、唯一のライヴ活動の場となっていた渋谷ジァン・ジァンが閉場となり、同年3月29日がジァンジァンでの美輪のラストライヴとなった(閉場は同年4月25日)。

そして、エディット・ピアフの生涯を描いた舞台『エディットピアフ物語愛の讃歌』を上演。

また、同年、アルバム『白呪』が再発売される。

桑田佳祐がフジテレビ系の音楽番組『桑田佳祐の音楽寅さん』内で

“ヨイトマケの唄”を歌ったのもこの年である。

 

 

2002年、芸能生活50周年を迎えたこの年、三島由紀夫の三十三回忌に際して、

宅麻伸を相手役に、『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演している。

 

 

2004年、ジブリアニメ映画『ハウルの動く城』で、「荒れ地の魔女」の声を演じる。

 

 

2005年、テレビ番組『オーラの泉』が始まり、番組終了の2009年まで「愛の伝道師」として出演。

 

 

2006年、美輪明宏原作、演出、美術、衣装、主演の舞台

『エディットピアフ物語愛の讃歌』を再演。

 

 

2007年、美輪明宏携帯サイト「美輪明宏 麗人だより」を開設。

 

 

2009年、劇場版『ポケットモンスター ダイヤモンド&パール アルセウス 超克の時空へ』 (劇場版ポケモン第12弾)で、アルセウスの声を演じる。

 

 

2010年、三島由紀夫原作の舞台『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演。

 

 

2012年、『第63回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たし、“ヨイトマケの唄”を歌った。77歳での「紅白」初出場は史上最年長で、デビュー60年での初出場も史上最長記録である。歴代出場者全体の年齢でも、1989年『第40回NHK紅白歌合戦』に出場した藤山一郎の満78歳に次ぐ歴代2位と、記録づくめの出演となった。

 

 

2013年、『第64回NHK紅白歌合戦』に2度目の出場を果たし、

藤山一郎の最年長出場記録に並ぶ。

同年、フランス人の映画監督による

美輪明宏のドキュメンタリー映画が作られ、DVDにもなった。

ナレーションはフランスの産業大臣の夫人が担当した。

 

 

2014年4月から、舞台『愛の賛歌〜エディット・ピアフ物語』が全国でリバイバル公演される。

同年『第65回NHK紅白歌合戦』に出場し、史上最年長出場記録を打ち立てた。

 

 

2015年、『第66回NHK紅白歌合戦』に出場を果たし、史上初の80代での出場となるとともに、自身の持つ最年長出場記録を伸ばし、単独記録保持者となる。

翌年落選したため、この年が最後の出場となっている。

 

 

2018年、東京都名誉都民に顕彰される。

 

 

2019年9月11日、軽い脳梗塞を発症し入院、舞台公演が中止になる。

その後入院から約2か月後の2019年11月17日、

TBSラジオ「美輪明宏薔薇色の日曜日」にて仕事復帰。

同年12月17日に西新宿で行われた「明治きのこの山・たけのこの里国民総選挙2019」の結果発表会に出席し公の場での復帰を果たす。

 

 

 美輪さんは、永遠に美輪さんだ。