ボノ(Bono/1960年5月10日~)は、アイルランド・ダブリン出身のミュージシャン。

ロックバンド、U2のリードボーカル、フロントマンとして知られる。

本名はポール・デイヴィッド・ヒューソン KBE(Paul David Hewson KBE)。

 

 

ボノ、ジ・エッジ、ラリー・マレン、アダム・クレイトンの4人は、

マウント・テンプル・スクール時代に出会い、1978年にU2を結成。

 

コンテストでの優勝をきっかけにCBSアイルランド・レコードと契約し、

1979年10月25日3曲入りのEP『スリー』をリリースし、数量限定ながら国内でヒット。

翌年にはセカンドEP『アナザー・デイ』もヒットさせた。

 

1980年4月にイギリスのアイランド・レコードと契約を交わし、

5月に“11オクロック・ティック・タック“でイギリスにおけるレコード・デビューを遂に果たした。

同年夏にシングル“ア・デイ・ウィズ・アウト・ミー”をリリースし、全英ツアーを行ったU2は、

英国のアイランド・レコードと契約した。

 

そして、ピーター・ガブリエルやXTC等を手がけたスティーヴ・リリーホワイトをプロデューサーに迎え、最初の3枚のアルバムを制作。それが、1980年10月の1stアルバム『ボーイ』(Boy)、1981年10月の2ndアルバム『アイリッシュ・オクトーバー』(October)、

そして1983年2月の3rdアルバム『WAR(闘)』(War)である。

 

中でも『WAR』は、北アイルランド紛争で起きた1972年の「血の日曜日事件」を歌った

“ブラディ・サンデー”や、核戦争がテーマの“セカンド”、ポーランドの「連帯」をイメージした

“ニュー・イヤーズ・デイ”などの彼らの代表曲的なメッセージソングを収め、

「社会・政治問題に積極的に関わるロックバンド」という今日まで続く

U2のイメージを決定付けるとともに、バンド初の全英アルバムチャート1位を獲得した。

 

 

1984年の4作目『焔(ほのお)』(The Unforgettable Fire)では、

元ロキシー・ミュージックのブライアン・イーノとダニエル・ラノワがプロデュースを担当。

その原題は広島・長崎への原爆投下を生き抜いた被爆者達が描いた絵画のタイトルで、

絵画を見たメンバーが感銘を受けて名づけられたものである。

また、アルバムに収録されたシングル“プライド”(Pride [In The Name Of Love])は

キング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)へのトリビュート・ソングであるが、

全英シングルチャート3位のヒットとなった。

 

 

これらの音楽制作と大規模なツアーを通じ、熱心なファン層を拡大していったU2は、

1984年12月3日、エチオピア飢餓救済を目指す「バンド・エイド」のチャリティーシングル

“ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス”(Do They Know It's Christmas)にボノとアダムが参加。

1985年7月にウェンブリー・スタジアムで開催されたチャリティーイベント「ライヴ・エイド」での

圧倒的なパフォーマンスにより世界中に認知され、U2は大ブレイクを果たした。

同年には「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」による曲“サン・シティ”に参加。

また、同曲収録のアルバム『サン・シティ』で“Silver and Gold”を

キース・リチャーズ、ロン・ウッドと共演した。

 

1987年3月に5作目『ヨシュア・トゥリー』(The Joshua Tree)を発表すると、

全英アルバムチャート・全米Billboard 200チャートでともに1位を獲得し、

イギリス音楽史上最速で売れたアルバムとなり、世界各国でNo.1ヒットを記録した。

シングルカットされた“ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー”(With Or Without You)と

“終わりなき旅”(I Still Haven't Found What I'm Looking For)は

『ビルボード』誌Hot 100で1位となった。

 

 

同アルバムを中心としたツアーでは会場規模がアリーナクラスからスタジアムクラスに拡大。

『ヨシュア・トゥリー』は1988年のグラミー賞で「最優秀アルバム賞」を獲得した。

 

同年には6作目のスタジオ・アルバム『魂の叫び』(Rattle and Hum)および

同名のU2のドキュメンタリー映画が発表された。

アルバム収録の“ディザイアー” は1989年グラミー賞「最優秀ロック・グループ賞」を受賞した。

 

1991年に、従来のバンド・サウンドから、サンプリングなどを用いたテクノにシフトした

7作目『アクトン・ベイビー』を発表、画期的で未来的な<Zoo TV ツアー>へと乗り出した。

2年間に及んだこのツアーで、彼らは地球2周にも及ぶ距離を移動した。

 

その勢いのまま生み出されたのが、1993年の8作目『ZOOROPA』だ。

同作は元々、シングルとして発表するつもりでツアー中に曲を録音したところから始まり、

それがEP(ミニ・アルバム)に発展し、最終的には8作目のアルバムとして完成した。

 

1997年、9枚目のアルバム『ポップ』(-Pop)をリリース。

『アクトン・ベイビー』から続いたU2の1990年代テクノロジー路線の総決算的な一枚となった。

全米・全英チャートで1位を獲得し、「ZOOTVツアー」をしのぐ巨大ステージセットを持ち込んだ

「PopMartツアー」を世界各地で敢行した。

 

1998年には初期10年間の楽曲を集めた初のベスト盤『ベスト・オブ・1980~1990』をリリース。

 

2000年、U2は10作目『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』を発表。

シングル“ビューティフル・デイ”(Beautiful Day)は、全英シングルチャート1位となった。

 

2002年には1990年から2000年を総括するベスト盤第2弾、『ベスト・オブ1990 ~2000』を発表。

新曲“エレクトリカル・ストーム”も収録され、ヒットを記録した。

 

2004年、アップル「iPod」CMソング起用され、全英シングルチャート1位となった先行シングル

“ヴァーティゴ”(Vertigo)を収録した11作目のアルバム『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』(How To Dismantle An Atomic Bomb)をリリースした。

 

同アルバムからは“サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン”

(Sometimes You Can't Make It On Your Own)もシングルカットされ、

全英シングルチャート1位を獲得した。

 

2005年3月14日、バディ・ガイ、パーシー・スレッジ、オージェイズ、プリテンダーズら

レジェンドとともに、U2は「ロックの殿堂」入りを果たした。

U2の殿堂入りは、ブルース・スプリングスティーンに推薦されたものだったという。

 

2009年、12枚目のアルバム『ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン』をリリースしたU2は、

同年6月、バルセロナを皮切りに「U2 360° ツアー」を開始。途中、大規模フェス出演を挟み、

欧州、北米、豪州、ニュージーランド、南アフリカ、ラテンアメリカを回った「360°ツアー」は、

史上最高の興行収入を上げた。

 

「世界最高のライヴ・アクトのひとつ」と誰もが認めるU2は、

これまでに合計1億5,700万枚を超えるアルバム売上を記録している。

またU2は、グラミー賞を22回獲得しているのに加え、アカデミー賞にもノミネートされた他、

アムネスティ・インターナショナルの「良心の大使賞」も授与された。

2003年には、映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』で使用された

“ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ”が、ゴールデングローブ賞の「主題歌賞」を受賞。

 2014年には、映画『マンデラ 自由への長い道』にU2が提供した“オーディナリー・ラヴ”が、

アカデミー賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞では「主題歌賞」を獲得している。

 

2014年10月にリリースされた13作目アルバム『ソングス・オブ・イノセンス』は、

世界中で50億人超のiTunesミュージック・ストアの顧客に期間限定で無料配信された。

 

2017年には、バンドのキャリアにとって重要なアルバムの発売30周年を記念したツアー

「ヨシュア・トゥリー・ツアー 2017」を行い、欧州、北米、南米の40都市を巡り、

10月にブラジルのサン・パウロ公演で最終日を迎えるまで、延べ270万人以上を動員した。

 

2017年12月1日には『ソングス・オブ・エクスペリエンス』と題した、14作目のアルバムを発売。

U2にとって8枚目の全米1位を獲得したアルバムとなった同作品は、

2014年の『ソングス・オブ・イノセンス』と対になる姉妹盤であり、

両作のタイトルは、18世紀末~19世紀初頭に英国にて活躍した神秘主義者で詩人のウィリアム・ブレイクの詩集『無垢と経験の歌』(The Songs of Innocence and of Experience)から

インスピレーションを受けている。

2018年には「エクスペリエンス+イノセンス・ツアー」が欧米で行われ映像作品も発売された。

 

 

 

社会的・政治的な発言や、慈善活動などでも知られるボノだが、

彼の揺るぎない姿勢には相応の理由や背景が存在する。

 

プロテスタントによるカトリック教徒への迫害があり、深刻な宗教的対立が根強い

アイルランドにおいて、ボノはカトリックの父とプロテスタントの母の間に生まれた。

この宗派を超えた両親の間に生まれ、二人の愛で育まれたことが、人種や宗教を超えた

理想主義者というボノのパーソナリティー形成に大きく寄与しているのは間違いないだろう。

 

また、ハイスクールの同級生だった頃から交際していた

妻のアリソン・ヒューソン(Alison Hewson)とは、バンドがメジャーデビューした後の

1982年に結婚したが、彼女も慈善活動家であり、

ボノと共同でファッションブランド「EDUN」を設立するなど、

公私ともに影響を与え合うパートナーとなった。

 

1985年、「ライブ・エイド」参加後、飢餓で苦しむエチオピアの孤児院で6週間、

夫婦でボランティアを実施した時の経験から、自分の知名度と影響力をアフリカの

貧困撲滅のために使おうと決意したのが慈善活動や

それに伴う社会的・政治的活動に力を入れるようになったきっかけだという。

 

以来、欧米諸国のトップに会い協力を呼びかけたのを始めとして、

アフリカ諸国の経済的自立を支援する様々な国際的プロジェクトに関与している。

 

こうした慈善活動などが評価され、ボノは2003年、2005年、2006年に

ノーベル平和賞候補に挙げられた。

 

 

U2の歌詞のほとんどはボノによって書かれている。

そこに込められたメッセージは、すべての人々が平和に暮らせる理想をめざす

道標となるものである。

 

世界に紛争があり、困窮した人々がいる限り、

ボノの歌も、活動も、終わりはない。