冨田 勲(とみた いさお/1932[昭和7]年4月22日~2016[平成28]年5月5日)は、

日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー・アーティスト。

 

東京で生まれた冨田勲は、大手紡績会社の嘱託医だった父の転勤により国内外で転居。

転勤先の北京で父に連れられて行った天壇公園で「回音壁」の音を聞いたことが、

後に音楽家になる原点となったという。

 

1939年に帰国し、現在の岡崎市にある父親の実家に住み、愛知県立岡崎高校へ進学。

慶應義塾高校に編入すると作曲家の小林亜星、フルート演奏家の峰岸壮一が同じクラス、

作曲家の林光は隣りのクラスという環境で、作曲は当初、全くの独学ではあったが、

高校2年からは平尾貴四男、小船幸次郎に師事。

歌手本間千代子も所属する「みすず児童合唱団」で指導をしていたのも高校時代からだった。

 

慶應義塾大学文学部に進学し美学美術史を専攻、その傍ら弘田龍太郎に音楽理論を学ぶ。

大学2年の時、朝日新聞社主催、全日本合唱連盟のコンクールの課題曲に応募した

合唱曲“風車”(ふうしゃ)が1位になり、在学中からNHKの音楽番組の仕事を始める。

また大学在学中から「ひばり児童合唱団」で演奏、指導、作曲などを担当していた。

 

1955年に慶應義塾大学文学部を卒業し、プロの音楽家として本格的に始動。

NHKテレビ番組『新日本紀行』、『きょうの料理』などのテーマ音楽の作曲、

NHK大河ドラマの音楽の作曲、東映動画の劇場用作品、

手塚治虫原作のTVアニメ『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』、『どろろ』、

円谷プロダクションや東映の特撮番組など、膨大な数の作品を世に送り出した。

 

 

 

 

当時は、親しみやすいメロディや華麗なオーケストレーションなどで、視聴者はもちろん、

テレビ、ラジオ、広告、映画などの様々な分野で製作者からの信頼が厚かった。

中でも大河ドラマなどのNHK番組、虫プロアニメの主題曲、BGM等は

繰り返しレコードやCDなどが発売され、今なお愛聴され続けている。

 

 

しかし、やがて古典的な「アコースティック楽器のオーケストラ」の音に飽きたらなくなり、

1969年、万博の仕事のため大阪に滞在中、モーグ・シンセサイザーを全面的に用いた

ウォルター・カーロスの『スイッチト・オン・バッハ』(Switched-On Bach)と出会い、

冨田は、これこそ自分が求めているものだと直感。

1971年秋、超高額なモジュラー式のモーグ・シンセサイザーを日本で初めて個人輸入した。

 

当時、冨田による前例のないシンセサイザーの個人輸入に際しては、

税関で「軍事機器」と疑われたり、楽器とは関税率が異なる「精密機器」として

扱われそうになったので楽器であることを証明するためにシンセサイザーの

演奏写真を取り寄せたが数か月もかかった、などの逸話がある。

因みに、証明に使われたのはキース・エマーソンの演奏写真だそうだ。

 

苦労をして個人輸入したモーグと悪戦苦闘しながら取り組み、

自宅にマルチトラックレコーダーも備える「電子音楽スタジオ」を構築、

電子音による管弦楽曲の再現を試行錯誤しながら数々の作品を作曲・編曲した。

こうして制作したのが、シンセサイザー音楽作品としてのデビュー・アルバム『月の光』だ。

 

当時このアルバムを日本の各レコード会社に持ち込んだところ、

「クラシックでもポピュラーミュージックでもなく、レコード店の棚に置く場所がない」

などの営業的な理由ですべて断られたという。

そこで伝手を辿ってアポを取り、なんと米国RCAのニューヨーク本社に

音源を持ち込んだところ、レコード発売の契約締結に成功。

1974年4月、アルバム『Snowflakes Are Dancing』としてリリースした同作品は、

1975年1月18日付けの『ビルボード』全米クラシカル・チャートで2位にランキング。

日本人の楽曲がビルボード誌でランクインしたのは、

1963年の坂本九“上を向いて歩こう”(米名「SUKIYAKI」)以来、2度目の快挙であった。

なお、本作は日本で『月の光』のタイトルで1974年8月25日に発売された。

 

1975年3月開催の第17回グラミー賞において日本人として初めてノミネートされた。

この快挙が国内で報じられ、米国RCAレーベルのレコードが

国内に逆輸入されたことなどもあり、冨田の『月の光』は国内でも知られるようになった。

また、NARM(全米レコード販売者協会)の1974年最優秀クラシカル・レコードにも選出。

 

 

1975年2月の第2作『展覧会の絵』は、同年年8月16日付けのビルボード誌で

全米クラシックチャート第1位を獲得し、NARM同部門最優秀レコード2年連続受賞、

1975年度日本レコード大賞・企画賞を受賞した。

 

 

 

以降、同年9月『火の鳥』、1976年『惑星』、1978年『宇宙幻想』、『バミューダ・トライアングル』、

1983年の『大峡谷』、1996年『バッハ・ファンタジー』と、世界的ヒットを記録している。

特に、『惑星』、『宇宙幻想』、『バミューダ・トライアングル』は「宇宙3部作」と称する。

 

 

1980~1990年代には、シンセサイザー音楽のスタジオ制作やアルバム発表に留まらず、

屋外で大観衆に立体的に聞かせる壮大なライブ・イベントを世界各地で開催している。

 

 

1979年、日本武道館でピラミッド・サウンドによる立体音響ライブ

「エレクトロ・オペラ in 武道館」(小松左京プロデュース)を開催。

1984年、オーストリアのリンツでドナウ川両岸の地上・川面・上空一帯を使って

超立体音響を構成し、8万人の聴衆を音宇宙に包み込む壮大な野外イベント

「トミタ・サウンドクラウド(音の雲)」と銘打ったコンサートを催す。

ドナウ川では「宇宙讃歌」、続いて1986年ニューヨークのハドソン川では「地球讃歌」、

1988年日本の長良川では「人間讃歌」を成功させ、共感するミュージシャンと共に

音楽を通じた世界平和を訴え続けてきた。

 

 

1990年から1992年まで3回にわたりBunkamuraオーチャード・ホールで

「トミタ・サウンドクラウド・オペラ [ヘンゼルとグレーテル]」を上演。

1998年、日本の伝統楽器と西洋オーケストラとシンセサイザーによる

『源氏物語幻想交響絵巻』を作曲。東京、ロサンゼルス、ロンドンで初演、

自ら指揮棒を振った。

 

 

2001年、東映50周年記念作品映画『千年の恋 ひかる源氏物語』の音楽を作曲し、

日本アカデミー優秀音楽賞を受賞。

 

また、東京ディズニーシー・アクアスフィアのため3面立体音響シンフォニーを手掛ける。

2002年、作曲活動50周年、シンセサイザーでの音楽制作30周年の節目の年を迎えた。

2005年3月開催の愛・地球博(愛知万博)の前夜祭セレモニーをプロデュースした。

 

晩年は、これまでのシンセサイザー・アルバムを5.1チャンネルサラウンドで製作し

完結することに注力した。

 

映画では、手塚治虫原作で手塚眞監督の2005年『ブラック・ジャック ふたりの黒い医者』、

山田洋次監督作品では、『学校』シリーズ(1993年~2000年)、2002年『たそがれ清兵衛』、

2004年『隠し剣 鬼の爪』、2006年『武士の一分』、2008年『母べえ』、

2010年『おとうと』と多くの音楽を手がけた。

 

 

 

また、2006年10月、立体音響による『仏法僧に捧げるシンフォニー』を発表。

2007年6・7月、NHKの『みんなのうた』で“鳳来寺山のブッポウソウ”として放送された。

 

 

 

2000年から4年間、尚美学園大学で音楽メディアコースの主任教授を務めた後、

芸術情報学部の大学院教授として「冨田研究室(トミタメソッド)」を開設するなど、

豊富な知識と経験を活かして後進の指導にも力を注いだ。

 

 

2012年11月23日、ボーカロイド初音ミクを起用して作曲された

『イーハトーヴ交響曲』を東京で初演。

 

 

2016年5月5日14時51分、慢性心不全のため他界。享年84歳。

倒れる1時間前までレコード会社の担当者と新作の打ち合わせを行っていたという。

 

 

没後の2018 年 9 月 17 日、「冨田勲 映像音楽の世界 SOUNDS OF TOMITA」と銘打ち、

円谷プロの特撮ドラマ『マイティジャック』の映像付き演奏や、

『キャプテンウルトラ』『ノストラダムスの大予言』など伝説の名曲群を

気鋭の演奏集団「オーケストラ・トリプティーク」が再現するコンサートが実施された。

 

巨匠の築いた礎と遺した作品の数々は今なお私たちの心を照らし続けている。

 

月の光のように、いつまでも、やさしく。