リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore,/1945年4月14日~)は、イギリス出身のギタリスト。

 

 

 

ブラックモアが新しいバンドの結成に参加したのは1967年。

 

翌1968年3月、マネージメント会社が設立され、

バンド名を「ディープ・パープル」(Deep Purple)と改名した。

 

由来は、1963年にニノ・テンポ&エイプリル・スティーヴンズがカヴァーし

全米1位を記録した、“夢のディープ・パープル”からの引用、といわれている。

 

彼らはテトラグラマトン・レコードという

アメリカの小さなレコード会社と契約した。

 

1968年5月、デビュー・アルバムの『ハッシュ』(Hush)が発売され、

6月には、ジョー・サウスのカヴァーであるタイトルナンバー“ハッシュ”をシングル・カット。

この曲は9月の『ビルボード』誌シングル・チャート第4位のヒットとなる。

 

なお、『ハッシュ』には、ブラックモアが敬愛する

ジミ・ヘンドリクスの“ヘイ・ジョー”のカヴァーも収録されている。

 

10月、セカンド・アルバム『詩人タリエシンの世界』がアメリカで発売された。

 

同アルバムから“ケンタッキー・ウーマン”が

シングル・カットされて38位まで上昇、アルバム自体も40位まで上昇した。

 

 

アメリカでは1969年6月にサード・アルバム『ディープ・パープル III 』がリリースされたが、

その直後にテトラグラマトン・レコードが倒産。

同年暮れに大手のワーナー・ブラザース・レコードと契約を結ぶ。

 

当時の音楽性は、クラシックをベースとした20分以上もの即興演奏をこなすなど、ハードロックというよりは後のプログレッシブ・ロックを彷彿させる存在だった。

 

 

1969年の中頃、ボーカリストであるイアン・ギランが新メンバーに。

また、ベーシスト兼プロデューサーのロジャー・グローヴァーも同時加入。

9月24日、ロード自身が作曲したコンチェルトをディープ・パープルとオーケストラ とで演奏したライブアルバム『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』が12月にリリース。

この作品は翌年の『メロディー・メーカー』誌のアルバム人気投票で9位に選ばれた。

 

 

この時期ブラックモアは、ハードロック志向のアルバムを世に問いたいと提案。

それが実ったのが1970年6月20日発売の『ディープ・パープル・イン・ロック』だ。

 

 

“スピード:キング”や“チャイルド・イン・タイム”を収録した 

このアルバムはイギリスチャート4位に入り、さらにプロモ用に録音した

シングル曲“ブラック・ナイト” がイギリスで2位。

日本でも1976年に発売され、スマッシュ・ヒットしている。

ただし、アメリカではアルバム、シングルともに不調に終わった。

 

 

この結果、ディープ・パープルはハードロック路線を進むことが決定し、

バンドの楽曲制作はブラックモアが主体となり行うことになった。

 

1971年9月、ハード・ロック路線第2弾『ファイアボール』( Fireball ) を発売。

全英で1位を獲得した。

 

 

1971年12月、スイス・モントルーのジェネバ湖(レマン湖)湖畔のホテルに宿泊中、

対岸のカジノで火災が発生し、カジノは全焼してしまった。

 

この事件で、ホテルの窓から湖の上に煙が立ち込める様子を見ていたギランが、

「Smoke on the Water」というフレーズを発した。

このフレーズとブラックモアが書いた印象的なリフと融合した結果、誕生したのが、

“スモーク・オン・ザ・ウォーター”(Smoke on the Water)だ。

 

12月6日から21日までに宿泊していたホテルの廊下で録音された事でも有名な

『マシン・ヘッド』が完成。

 

 

“ハイウェイ・スター”(Highway Star)から始まる同アルバムは、 

翌1972年2月にアメリカで、イギリスでは3月に、

ヨーロッパ各国や日本でも順次発売されてヒットした。

 

 

1972年8月には来日を果たし、計3日間、コンサートが開催された。

この日本公演を録音した『ライヴ・イン・ジャパン』が12月に日本限定で発売されたが、海外でも『メイド・イン・ジャパン』というタイトルで発売され、プラチナディスクを獲得。

本作品からシングルカットされた“スモーク・オン・ザ・ウォーター”が

全米チャート4位と大ヒットし、ようやくバンドはアメリカでもブレイクした。

 

 

 

一方、難航していた新作のスタジオ・アルバム『紫の肖像』(Who do We think We are)は、1973年初頭にリリースされたが、最初にシングル・カットされた“ウーマン・フロム・トーキョー”(Woman From Tokyo)もヒットとはならなかった。

また、メンバー間の不仲とツアーの連続による肉体疲労などが原因で、

ギランとグローヴァーは1973年6月29日、二度目の日本公演最終日後に脱退。

新ヴォーカリストは、4000人以上の応募者の中から、当時無名の

デイヴィッド・カヴァデールが選ばれ、第3期ディープ・パープルがスタート。

 

 

1974年2月、新メンバーによる初のアルバム『紫の炎』(Burn)が発売された。

 

 

シングル・カットされた“紫の炎”に加え、

“ミストゥリーテッド”(Mistreated)などが収録された重要なアルバムとなった。

 

また、第2期のハードロック路線に加えて、

ヒューズの主張が濃いファンキー・サウンドの“ユー・フール・ノー・ワン”や

シンセサイザーを大幅に導入した“A200” ('A' 200)など、

新メンバーの力量や新要素が巧みに発揮された作品として評価が高い。

 

 

本作品発売直後の4月、ロスアンゼルスのオンタリオ・モーター・スピードウェイで

行われた「カリフォルニア・ジャム」に参加。約20万人の大聴衆の前で演奏を行った。

この時の演奏は特に評価が高く、映像はDVD化もされた。

 

 

しかし、ハードロックを志向するブラックモアに対して、

新加入のカヴァデールやヒューズがソウルやファンキー・ミュージックの要素を

押し出そうとしたことで、彼は次第にディープ・パープルに対して意欲を喪失。

アルバム『嵐の使者』が発売された1974年10月、

ブラックモアはかねてより計画していたソロ・シングルの制作を開始。

 

 

米国のバンド「エルフ」のボーカリスト、ロニー・ジェイムス・ディオとともに

“ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー/16世紀のグリーンスリーブス”を録音。

これが期待以上の出来だったため、エルフのメンバーと新バンドの結成を決意した。

 

 

ブラックモアは1975年4月7日のパリでのライブを最後に脱退。彼の最後の演奏は1976年発売のライブ盤『メイド・イン・ヨーロッパ』に収録されている。

 

 

ブラックモアは先の2曲の出来を気に入り、エルフを吸収する形で新バンドの結成を画策。

 

1975年2・3月、ギタリストを除くエルフのメンバー全員とアルバム用の曲を録音。

8月10日、オイスター・レコードより、

『Ritchie Blackmore's Rainbow』(邦題:銀嶺の覇者)を発表し、デビュー。

 

 

その直後、ロニーを除いたエルフのメンバーを解雇。

 

オーディションで、元ジェフ・ベック・グループのドラマー、コージー・パウエルなど新たに3名がバンドに加わり、同年11月から早速ツアーを行う。

 

1976年4月、セカンドアルバム『虹を翔る覇者』をリリース。

米英豪州ツアーを経て、12月には初来日ツアーを催行。

1977年2月にジミー・ベインを解雇。

 

 

1978年1月、2度目の来日ツアーが行われ、札幌公演の際、ファン圧死事件が発生。

5月、アルバム『バビロンの城門』リリース。

プロモーション・ツアー後に、ロニー・ジェイムス・ディオ等もグループを離れる。

 

 

1979年、フランスでレコーディング中、新ヴォーカリストのオーディションが行なわれ、グラハム・ボネットがヴォーカリストに迎えられた。

 

同年7月(日本は9月)、アルバム『ダウン・トゥ・アース』を発売。

 

 

 

 

9月からワールド・ツアーを催行した。日本では1980年5月に公演を行なった。

既に脱退を表明したコージー・パウエル最後のコンサートが

8月16日にロンドン郊外のドニントン・パークでの「モンスターズ・オブ・ロック」となった。

 

ボブ・ロンディネリが後任ドラマーとして加入し、

次作アルバムの録音が開始されたが、その途中でグラハム・ボネットが脱退。

 

ジョー・リン・ターナーが新ヴォーカリストに推薦されレコーディングを敢行。

1981年1月(日本は3月)、アルバム『アイ・サレンダー』(Difficult to Cure)を発売。

直後にアメリカ、欧州ツアーを経て8月に来日公演を催行。

 

 

 

 

11月にカナダで初のデジタル録音を使ったスタジオ録音が行われる。

1982年『闇からの一撃』をリリース。

 

 

 

1983年8月に『ストリート・オブ・ドリームス』をリリース。

この頃、ディープ・パープル再結成の計画が進行すると、

ブラックモアのワンマンバンドだったレインボーは活動休止を発表。

 

 

 

ブラックモアはディープ・パープルの再結成を主導。

1984年にバンドを復活させ、同年11月、再結成アルバム第一作

『パーフェクト・ストレンジャーズ』(Perfect Strangers)をリリースし傑作と高い評価を受ける。

 

 

更に1987年に『ハウス・オブ・ブルー・ライト』、

1988年にはライブ・アルバム『ノーバディーズ・パーフェクト』 をリリースし、

数年に渡って順調に活動が続いていたが、

他のメンバーとの音楽的志向の違いから1993年にブラックモアは再度脱退する。

 

 

 

再びディープ・パープルを脱退した彼は1994年にレインボーを再結成。

1995年8月にはリッチー・ブラックモアズ・レインボー名義で

『孤高のストレンジャー』をリリースしたが、1997年にレインボーは再び活動を停止。

 

 

その後リッチー・ブラックモアは1997年、婚約者兼ボーカルのキャンディス・ナイトと

ブラックモアズ・ナイトを結成。

 

ブラックモアズ・ナイトは、イギリス中世の音楽を現代風にアレンジした音楽を展開。 


米英ではニューエイジ賞やニューエイジ部門ベストヴォーカリスト賞などを獲得している。

日本で1stアルバムが10万枚近く売れた他、欧州ででゴールドディスクを獲得。

ライブ盤を含め12枚のアルバムを発表している。

 

 

 

2015年7月、リッチー・ブラックモアは、原点回帰するライブ開催予定を発表。

レインボー名義で翌年6月、全3回のヨーロッパ公演を実施した。

終了後、更なるツアー継続を発表し、2017年・2018年と断続的に公演を行い、

2019年は、フィンランド、ドイツ、スペインにて4公演を実施している。

 

 

2016年2月、ディープ・パープル名義でロックの殿堂入りが決定。

しかしパープルサイドが共演を拒否した事により、授賞式には出席せず。

 

 

リッチー・ブラックモアも今日で75歳。

 

もう一度、黄金期のメンバーで結成された

ディープ・パープルの演奏を観てみたいものである。