エネルギーが宿ったものは、
(エネルギー)が宿れば宿るほどに、
勢いを増していく。
エネルギーが不足したものは、
次第に勢いを減速させ、
やがて、衰えていく。
ということは、
「衰えさせたい」
「勢いを無くしたい」ものに、
(いのちの)エネルギーを宿さず、
逆に、
「育てたい」
「勢いをつけたい」ものに、
(いのちの)エネルギーを宿せばいい。
日々、
アタマの中に次々に巡ってくる発想。
自らが
「育てたい。」
「勢いをつけたい。」ものに、
いのち(エネルギー)を宿していく。
「衰えさせたい。」
「勢いを無くしたい。」ものには
いのち(エネルギー)を与えない。
「そのもの」(不快なもの)を何とかしよう。
「そのもの」(不快なもの)を無くそう。
と頑張る(目を向ける)ことは、
「そのもの」にエネルギーを宿している(注いている)ということ。
巡ってくる発想が不快なもの(氣分が悪いな)と氣づいたら、
そこに留まらず、
「あー、また巡ってきたなぁ~」と
"巡ってきているという状態"を
ただ、観察する。
そして、それらは「本当の自分じゃない」と認識し、
自らが「育てたい発想」「勢いをつけたい」発想に目を向け、そっちに、いのちのエネルギーを注いていく。
自らの"いのちのエネルギー"を
宿し続けたもの、
自らの"いのちのエネルギー"を
注ぎ続けたもの、は
少しづつ、少しづつ、
育まれていき、
次第に勢いを増し、
太く、確実なものとして、
自分自身(人生体験)に影響を与えていく。
であるならば、
自分(いのち)が育てたいものに
目を向けていこう。
自分(いのち)が育てたいものに
いのちのエネルギーを注いでいこう。
ということが、
私のいのちが望む(育てたい)ことなので
そうしていこうと思います(*^^*)
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「いのちのエネルギーを注ぐ」
ということは、
自らに与えられた
"いのちの時間"を
"そのもの"に使っていくということ。
限りある"いのちの時間"を
"そのもの"に費やしていくということ。
「何に」
その"いのちの時間"を使っていくのか?
それらも、私たちひとり、ひとりに
与えられた"選択の自由" なのですね~_😌