使われなくなった(手を加えなくなった)家や建物はやがて、朽ちていく。


肉体形成のために大切な役割を果たす筋肉や、様々な身体機能も使われなくなった部分は次第に衰えていく。



「使う」ということは、

「そこ」に「そのもの」に意識(エネルギー)を
向けるということ。

「いのちのエネルギー」が吹き込まれるということ。


「そのもの」にエネルギーを宿すということ。



エネルギーが宿ったものは、

(エネルギー)が宿れば宿るほどに、

勢いを増していく。



エネルギーが不足したものは、

次第に勢いを減速させ、

やがて、衰えていく。




ということは、



「衰えさせたい」

「勢いを無くしたい」ものに、

(いのちの)エネルギーを宿さず、



逆に、


「育てたい」

「勢いをつけたい」ものに、

(いのちの)エネルギーを宿せばいい。




日々、

アタマの中に次々に巡ってくる発想。


自らが

「育てたい。」

「勢いをつけたい。」ものに、

いのち(エネルギー)を宿していく。



「衰えさせたい。」

「勢いを無くしたい。」ものには

いのち(エネルギー)を与えない。




「そのもの」(不快なもの)を何とかしよう。

「そのもの」(不快なもの)を無くそう。


と頑張る(目を向ける)ことは、


「そのもの」にエネルギーを宿している(注いている)ということ。




巡ってくる発想が不快なもの(氣分が悪いな)と氣づいたら、


そこに留まらず、


「あー、また巡ってきたなぁ~」と

"巡ってきているという状態"を

ただ、観察する。



そして、それらは「本当の自分じゃない」と認識し、



自らが「育てたい発想」「勢いをつけたい」発想に目を向け、そっちに、いのちのエネルギーを注いていく。




自らの"いのちのエネルギー"を

宿し続けたもの、


自らの"いのちのエネルギー"を

注ぎ続けたもの、は



少しづつ、少しづつ、


育まれていき、


次第に勢いを増し、


太く、確実なものとして、


自分自身(人生体験)に影響を与えていく。




であるならば、



自分(いのち)が育てたいものに

目を向けていこう。


自分(いのち)が育てたいものに

いのちのエネルギーを注いでいこう。



ということが、



私のいのちが望む(育てたい)ことなので

そうしていこうと思います(*^^*)





***


「いのちのエネルギーを注ぐ」

ということは、


 自らに与えられた

"いのちの時間"を

"そのもの"に使っていくということ。


限りある"いのちの時間"を

"そのもの"に費やしていくということ。




「何に」


その"いのちの時間"を使っていくのか?


それらも、私たちひとり、ひとりに

与えられた"選択の自由" なのですね~_😌