何か書いてみたいなぁー
書き始めてみたらいいやん!
うん、そうしよー😁
例えば、
「自分の居住空間をスッキリさせたい。」
という望みがあったとして、
その望みを実現すべく、
2次的発想として、
「なるべく、モノを置かないようにしよう。」
という発想を採用するか、
「自分(いのち)にしっくりくる(喜ぶ)モノだけを置くようにしよう。」
という発想を採用するか、
また、
「ダイエットして、身体をスッキリさせたい。」
という望みに対して
「なるべく、食べないようにしよう。」
「食べる量を減らそう。」
「高カロリーのものは控えよう。」
という発想を採用するか、
「自分(いのち)が欲するもの、喜ぶものを、
いのちに丁度よく食べよう。」
という発想を採用するか、
またまた、日常生活で、
「なるべく、お金を遣わないようにしよう。」
という発想を採用するか、
「自分(いのち)にしっくりくる(喜ぶ)モノや体験に惜しみなくお金を遣っていこう。」
という発想を採用するか、
それぞれの目的に対する
前述、後述、の発想をそれぞれ眺めて、
自分の内から湧き上がる
(いのちの)感覚を確認してみた時、
全く異なった感覚になることがわかります。
↑↑↑例えば、、は自分の体験談w
前述の「○○しないようにしよう。」系の発想に対して、いのちは不快のサイン(感覚)を出していて、
どことなく、窮屈感を覚える感じがあり、
逆に、
後述の「いのちの喜びを基準にして、○○しよう。」系の発想に対しては、いのちは「快」のサイン、どことなく伸びやかな感覚、安堵感を覚えるような感じがあります。
そして、「○○しないようにしよう。」としているのに、
意識はその発想の中の○○にばかり向き、逆にそれが強化され、余計にしんどくなってしまうという、まさに悪循環パターンになりがちです。
(もちろん、どちらがいい、悪い、正解、間違いという基準の話ではありません😊)
こうやって、改めて書き出してみたりして、
確認してみると、
「あー、そうだな。」とわかることでも、
普段生活する中で、
意外と無意識的に、前述の発想パターンを
採用していることもあるように思います。
(これらも思考パターンのクセですから、もし不快だと感じるなら、そこから変更していければ👌)
私自身、やっぱり、前述の発想パターンを
基準に、その目的とすることのために
行動しようとした時には、
かなりイヤな氣分になっていたし、
結局続かなかったですしね🤣
(また、そんな自分に対して、
ダメだなぁと責めてしまったり)
いのちが窮屈に感じるような発想を基準にしての行動は、
万が一、達成されたとしても
しんどさのサインは増幅されていき、
「苦しさ」という感覚は益々強くなるばかりですからね😌
いのちが窮屈さを感じる。
ということは、
自らが採用している発想、
はたまた、物理的な選択において、
「その選択、しっくりじゃないよー!」
「もっと、違う選択があるよー!」
という
いのちからのサインということ🙆♀️
前述、後述、のそれぞれの発想の
根っこのところを確認してみると、
前述の発想の根っこは 、「ない。」「不足」の
バイブレーションを感じ、
後述の発想の根っこには、「ある。」「満足」の
バイブレーションを感じます。
(あくまで私的感覚)
いのちは、「ない。」に目を向けた発想が
めちゃくちゃ不快で、
逆に、
「ある。」に目を向けた発想は
めちゃくちゃ、🙆♀️👌🥰なんだなぁと。
いのちの感覚サインの正確さ、精密さに
脱帽です🤣
が故に
いのちの感覚サインの正確な意味に
氣づいていくことは、
「いのちとしての自分」を
生きていくために、
本当に、本当に、超!超!
大切なことであり、
正確には、
それが全て!
と言ってもいいと思います😌
いのちが何に対して、「快」の感覚サインを出し、
何に対して、「中間・不快」の感覚サインを出しているのか?
1ミリの誤差もない、
その微細な、いのちからの感覚というサインの
意味に正確に氣づける自分であるためには、
やっぱり、
いのちと氣づきの学校でいうところの
「意識のホムポジ状態の日常化」
そこからの
「いのちとの対話」
「いのち基準の選択」
の繰り返しの実践のみです😉
いのち(の感覚)は、アタマよりも
遥かに精密、正確、信頼度100%の
人生のナビゲーター✨✨✨
思い通りに事が運んだ!
いいことがあった!
外側の条件があって、
だから、喜べる!
を超えて、
人生、色んなことが起こりうる、
想定外のことが起こりうる中であっても、
いのちにしっくりくる。
いのちが喜ぶ。
いのちがホッとする。
を選べる。
いのちが目を向けたい方に
目を向けていく。
いのちが望む方向に目を向けて
いのちが望むことを語る。
そんな実力をつけていきたいな。
と思う今日この頃です😌
今日は、何か書いてみたいから書いてみた。
心理空間にぼんやりとあることを言語化するって
やっぱりスッキリするなぁ~😁✨
紀伊大島でしか栽培されていない、幻のみかんと言われている(らしい)香橘(こうきつ)。
どんな味なんだろう?
どんな香りがするんだろう?
氣になったことを実際に味わってみる。
そんな体験をしてみる瞬間、
そして、知りたいことがいのちで知れたとき、
私という、いのちはただただ、満足する😁✨✨✨