『ヤノマミ』。

まだ読み終わっておりませんが、読んでて考えさせられることがあったので、思わずブログに記録!!

ヤノマミとは、南米大陸のアマゾンの中でもブラジルとベネズエラにまたがるエリアに暮らす、先住民族のひとつ。国分拓さんという方が、150日間も、彼らヤノマミと暮らしたドキュメントを本として書下ろし、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのだそう。

わたしはその本を、JICAオフィスの入口の古本コーナー(JICA関係者、特に職員の方が出張中に置いていっている本たちらしい)で発見◎思わず、JICA職員に尋ねて、ボランティアだけれど、持って帰って読んでもいいか聞いて、持ち帰りました(笑)。

『ヤノマミ』の中のある一節。
ヤノマミの一族が一年で一番大きな祭りに備え、一族の大半を従え、集落から40~50km離れた川に漁に行った際のこと。著者にとって、その漁自体はヤノマミにとって、まるで年に一度の大勢でのピクニックのようにとても楽しいイベントのように見えたのだそう。しかも、その川に獲物は豊富で入れ食い状態だったのだそう。その一方、漁に出かける際はもちろん、獲物がたくさん入れ食いしている川での漁を引き上げる際も、長老の一言で一気に全員が移動の準備に切り替わるのだそう。そのことについての著者の文章を引用。

(P84)
 『人類学の本には、アマゾンの先住民は森と共存する方法を経験として知っていると書かれている。彼らには、森の資源を枯渇させない知識や決まりがあるというのだ。もちろん、そうなのだろう。だが、楽しげに漁をし、長老の一言でさっと引き揚げてしまう姿を見ると、ちょっと違うような気もした。(獲物が十分に家にまだあれば、)狩りもせずに(ヤノマミの共同の住処・シャボノで)ぶらぶらしていた男が「食べ物がまだあるのに、どうして狩りに行かねばならないのだ?」と答えたことがあったが、ハナナリゥ(一年で大きな祭りの前に大勢で行き、入れ食いになるほど獲物の豊かな川)での漁も同じ哲学に拠るのではないか。これで十分なのにどうしてこれ以上獲らねばならないのか、とみんなが思ったのではないか。
 それは経験則ではなく、彼らの価値観であるように思えた』。

実は、今日、カンボジア・タケオ州の農村部の女性と作業をしながら、ちょうど、
(私)『一カ月にいくらくらいの収入があったら生活に足りる??』
と、話していて、農村部の暮らしだし、わたしはてっきりその女性の答えとしては300ドル~500ドルだろうと予想していたのだけれど、返ってきた返答は、

(女性)『1000ドルくらい。』

と、はるかにその予想を上回るものでした。帰宅してからも、このことが引っ掛かって、人は(わたしも含め)、どのくらいを以って“足りている”と感じるのだろうと考えていました。そして、何気なく『ヤノマミ』を読んでこの文章に出合い、はっきりと「食べ物がまだあるのに、どうして狩りに行かねばならないのだ?」と言える生活や世界に暮らしているヤノマミってすごいなって思いました。足りている量を絶対的にわかっている、という。

わたしは今、青年海外協力隊ですが、青年海外協力隊ってあくまで“ボランティア”だから、書面上は、何も“絶対に結果を残さないといけない”というのはありません。ボランティアは任地で暮らす上での生活費を頂いて、カンボジアの場合はJICAが任地での住居を借りてくれる。もし配属先が特にボランティアを必要としていなければ(たとえば、ボランティア無しで十分プロジェクトが回っていたり、あるいは、配属先はボランティアを要請していた時と事情が変わっていた場合など)、配属先で何もしなくても、配属先では何の問題はなかったりする。けれど、私たちは国の税金で来ている以上、少しでも現地に自分の存在がいい形で還元されるように、何か貢献できそうなことに取り組む。ヤノマミの

「食べ物がまだあるのに、どうして狩りに行かねばならないのだ?」

という世界観とはまったく異なる考えや価値観の世界に生きている、って思いました。むしろ、私を含め、日本人の中には、忙しい時にこそ生きていることの充実感を感じ、満足を覚えるひとも少なくないじゃないかな、と思う。ヤノマミの世界、この一生の中で私にも真に理解できる日が来るのだろうか・・・?!!

カンボジアに暮らすだけでも、私自身が持っていた価値観は瓦解していっている。けれど、『ヤノマミ』を読んでいると、さらにまたカンボジアとは違う部分から、私の価値観が崩れていっているように感じます。

カンボジアでの最近のヒットは、うちの家のお隣のお隣に暮らす、大家さんの妹(37歳・女性・小中高校の女の子3人の母・旦那はわたしの配属先の副局長)の発言。おととい、中学生の娘さんが学校から帰ってきて、ほんとだったら夕方英語の塾に行くのだけれど、その日は、めずらしく表情が優れず、「今日、英語の塾休みたい・・・。」といいだしました。それに対し、その時、夕方のおやつをうちの大家さんと私とおしゃべりしながら食べてたお母さんの反応は、

「面倒くさいんだったら、行く必要ないよ~(お菓子食べつつ)。」

という、軽い返答。
おじいちゃんがその子に『今日は休むのか?』と再び聞いた時もこのお母さん、
「面倒だったら行かなくていいじゃな~い(お菓子食べつつ)。」の切り返し。

カンボジア、というか、このお母さんの、こども本人の意志の尊重度が半端ない(笑)。
子どもがのびのび育っているのもうなづけます。

わたしが母になった時、せめて、頭ごなしに色々子どもに言うのだけはやめようと思えました。私、子どもの時、習い事を休みたいなんて言った日には、引っ張ってでも連れて行かれてました(苦笑)。臨機応変にいこう。

と、話はずれてしまいましたが、自分の全く知らない世界や価値観が数えきれないほどあるこの世界で、自分自身がどんな価値観の世界・国に生きているのか、あるいはそれが選択できるならば、どの価値観を自分の価値観や自分の暮らす場所としていくのか。『ヤノマミ』はそんな疑問を投げかけてくれる一冊のように感じます。


今夜も、今からクメール語の復習タイム!
今日は女性との会話の中で、一昨日復習していた、‟リンパ線”という単語が出てきて、無事彼女の話が理解できて自分でもびっくりした日でした。リンパ線はクメール語では、コーン・コンダオ(言葉の意味はねずみの子ども)と言います。まさか、こんなにも早くリンパ線という単語を使う日が来ることになるとは・・・!!日々、単語の勉強を怠らないようにしようと思えました(笑)。

では、リアトライスオスダイ!