DMMオンラインサロン『猪瀬直樹 近現代を読む』というものがあります。そのオフ会の模様をフリーライターの安里和哲さんが臨場感あふれる筆致でレポートしています。



猪瀬直樹「近・現代を語る」オンラインサロン・オフ会レポート

 

作家・猪瀬直樹との語らい

 

 猪瀬直樹がDMMオンラインサロンにて主催する『猪瀬直樹の「近現代を読む」』のオフ会が12月4日、西麻布の猪瀬オフィスで開かれた。

 

 2ヶ月に1回開催されるオフ会、今回は30人近く集まった。毎回関西方面から新幹線に乗ってこの日のために上京する者もいる。この日はフィリピンの大学に通う学生や、ボストンから一時帰国した女性も参加した。毎日オンライン上でディスカッションをしていた者たちが一堂に会するのだから、自ずと期待は高まる。オフ会には必ず新人会員がいる。しかしすぐに打ち解ける温かい雰囲気に満ちている。

 

 オフ会に参加すると、猪瀬のサイン本が毎回2冊プレゼントされる。この日は『さようならと言ってなかった わが愛 わが罪』(マガジンハウス)と『東京レクイエム』(河出文庫)だった。

 前者は都知事として東京五輪招致に動いていた最中に最愛の妻・ゆり子さんを亡くした猪瀬の激動の2013年を振り返りながら、20代から作家になるまでの半生を自伝的に語るエッセイ集である
 後者は1989年7月に出版された写真集『Invisible City -東京、ながい夢』を、1995年6月に改題・改訂し出版した文庫だ。「昭和天皇崩御から見える日本人と東京という巨大都市の生態を観察するためにまとめた」著作を、オウム事件と阪神淡路大震災の年である1995年にあらためて出版したのは、戦前からつづく日本人のカタストロフィ願望と集団主義システムに対する警鐘を鳴らすためだったのだろう。天皇退位・改元が迫るなか、とても参考になる。
 この2冊を読めば、猪瀬の公私両面の歩みがつかめるだろう

 

 会が始まるとまず一人ずつ自己紹介をする。そのなかで気になる言葉があると、猪瀬は詳しく話を聞いていく。サロンには産婦人科医の方がおり、話題は、子宮頸がんワクチンの問題に及んだ。
 一時は接種率が70%まで上がった子宮頸がんワクチンだが、メディアによってワクチンの副反応が取り沙汰された結果、接種率は1%まで下がってしまった。

しかしWHOの勧告や学術雑誌「ネイチャー」によって、日本の子宮頸がんワクチン接種の現状が問題視されている。

 「メディアの問題だよね。従軍慰安婦問題で朝日新聞の植村隆記者がやったことと、信州大学の池田修一元医学部長のグループがやった子宮頸がんワクチンの副反応についてのマウス実験のデータに捏造の疑いあることは同じようなものだ」という猪瀬の言葉に、ライターとしてメディアに関わる僕自身も、背筋を正された。

 

 人々は真実よりも、自分が見たいものに飛びつく性を持つ。だからこそ、ジャーナリズムは真摯に書き、正確に報じなければならない。社会に対する責任を自覚しなくてはならない。

 

 サロン会員に不動産業の人と、オリンピックの選手村入札の問題について意見交換する猪瀬が印象的だった。猪瀬にとってこのサロンは、自分から一方的に情報を与える場ではなく、彼がサロン会員たちから学ぶ場でもあるのだ。

会員の方に「ちょっと痩せただろ?」とか「ヒゲ生やしてるのか」と尋ねる場面もほほえまましい。会員一人ひとりの変化にも気づく猪瀬さんの観察力と親しみやすい人柄に触れた気がした。あたたかくも真剣に議論を交わすオフ会だ。

 

ゲームクリエイター・斎藤由多加が語る「日本語は非言語言語である」の真意とは

 

 今回のオフ会には、『ザ・タワー』や『シーマン』という一世を風靡する作品を送り出してきたゲームクリエイターの斎藤由多加さんがゲストで参加した。
 斎藤“青年”時代から、20年以上の付き合いだという二人。斎藤さんが『林檎の樹の下で』というマッキントッシュが日本にやってきた時代を描いたノンフィクション作品が今年、その読者であったホリエモンこと堀江貴文氏が復刊を提案したことで実現された。ここに猪瀬は解説を寄せている。そして今回、斎藤さんのオフ会参加が実現した。

 

 斎藤さんは、持ち前の落ち着いた非常に男性的な声で、自身がこれまでやってきたこと、そして現在取り組んでいる研究について30分ほど話してくれた。

 

 斎藤さんが初めてヒットさせたゲーム『ザ・タワー』のアイデアは、彼が酔っ払って朝方マンションに帰ってきたとき、エントランスでエレベータを待っていたところから生まれた。2機のエレベータのうち、7階に停まっているエレベータは降りてこず、最上階である14階に停まっていたエレベータが降りてきた。なぜ、1階に近いエレベータが来ないで、14階から降りてきたのか、その疑問を考え調べた。一見効率の悪いように思えたエレベータの移動の秘密は実は「時刻」にあった。エレベータは4時という時刻を「朝」と認識するようにプログラミングされており、通勤・通学でマンションを出る人たちを、多く効率よくエレベータに乗せるため、最上階から降りてきたのだ。

 斎藤さんの何気ない疑問から、『ザ・タワー』は生まれたのだ。

『シーマン』当時まだめずらしいの音声対応のゲームであった。斎藤さんは、その時代から日本の音声認識の技術はほとんど進歩していないという現状をふまえ、日本語の特性を捉えた新しい音声認識を研究している。
 過去を話すときよりも、現在、そして未来について語るとき、斎藤さんは熱を帯びた。

 

 ここではすべてをレポートできないが、端的に言えば、いま斎藤さんが取り組まれているのは、「日本語の言語化」だ。

「日本語は言語だろう」と思う人がほとんどだろうが、彼がいうには、日本語、特に口語のそれは文法を持たず、曖昧模糊とした言葉にすぎない。だから、日本ではAI(人工知能)が発達しないという。

 

 日本語の口語は主語を持たず、「わたし」と「あなた」を省略する。音程に依存しており、語尾の上げ下げ一つで意味がまったく変わってしまう。日本語は音楽的である、と指摘する。

 

「昨日 お前 祐子と デート したの?」という例文を使って、斎藤さんはくわしく説明してくれた。

 例えば話者Aが「昨日」を強調して質問すれば、Bは「昨日じゃなくて、一昨日だよ」と答える。「お前」を強調すれば、「俺じゃなくて、田中だよ」と返事をする。このように、同じ文章でもどこを強調するかによって、文章の意味は変わってしまう。日本語はとても流動的な言語なのだ。しかし、現在の音声認識ではこの強調を区別することができない。


 結局、今もなお音声認識は一問一答しかできない。それは会話ではない。会話とは文脈を持つものだからだ。
「代名詞」や「省略」を認識できないAIと人間は会話ができないのだ。
「明日の天気は?」「晴れです」、ここまではできる。しかし「それって明後日はどうなの?」とか「来週はどうなの?」と聞かれたAIは「分かりません、もう一度お願いします」と答えるしかない。文脈を捉えられないAIは言葉を失ってしまう。

 

 日本語音声認識を向上させるには、動詞の活用形を整理する必要がある、と斎藤さんは語る。「食べる」の活用は下一段活用だが、私たちが実際に日本語を話すとき、そんなことは意識しない。

 音声認識においても、学校教育で教わる活用表はあまり役に立たない。
 例えば私たちは「食べるな」と命令することは少ない。「食べてんじゃねえよ」とか「食べたら殺す」とか、そんな言葉づかいをする(例が物騒だが、強面の斎藤さんが使っていたのを踏襲している)。

 このとき「食べたら/殺す」という風に言葉を分解せず、「食べたら殺す」を「食べる」の否定命令形として認識できれば、AIにもある程度の会話ができるようになるというのだ。

 

 このように日本語の活用形を捉えると、一つの動詞に対して、約600の活用形があるという。それだけの活用形が動詞の数だけあるとなれば、天文学的な数字となり、人間には覚えられない(人間はいちいち覚えずとも理解している)。しかしAIなら軽々とやってのけられる。だから、活用形に着目するというこの手法は革新的なのだ。


 この大胆な仮説は確かに説得力がある。凡百の文筆家よりも、よっぽどエキサイティングに日本語という言語を捉え直し、革命を起こそうとしているのだと感じた。

 

 斎藤さんの話ぶりを聞いて僕が感心したことは、彼が現象に対してみだりに評価を下さないところだ。

「日本語は曖昧模糊としていて言語未満である」とは言っても「だから日本語はダメなんだ」と断罪することはない。言語未満であること、それ自体に良いも悪いもない。
日本語の捉えどころのなさ分析した上でその結果を「良い/悪い」の二元論で片付けず、 「どうすれば音声認識の領域で日本語をよりうまく処理できるのか」という問題認識に移る。
 価値判断を行って思考停止するのではなく、「じゃあ、どうする?」と一歩先に思考が展開していく。こういう姿勢こそが、真の知的好奇心なのではないか、と思った。
彼の口から淀みなく出てくる刺激的で論理的な言葉の散弾に、僕はすっかり魅了されてしまった。

 

「規則性フェチ」が文明を生み出す!?

 

 オフ会に先立って、11月29日、日本文明研究所のシンポジウム「これからの日本はどうしたらいいのか?! アベノミクスのその先の再生戦略」が開催された。登壇したのは猪瀬と、衆議院議員の石破茂氏、そして経営者であり『なぜローカル経済から日本は蘇るのか』(PHP新書)などの著者がある冨山和彦氏。冨山氏は財政審議会委員であり、元産業再生機構のCOOである。

 シンポジウムを振り返りながら猪瀬は、全国各地でローカルバス会社の経営再建を実現している冨山氏について語った。


「彼のようにミクロできちんと処理して仕事ができる人が実績を残していくんだよな。マクロしか語れない人は責任も取らない」

 

 自分のできる範囲で着実に仕事をしている人間の言葉の方が、大風呂敷を広げ未来を語るだけの人間よりも信頼に足る。
 この日レクチャーをしてくれた斎藤さんも、知的好奇心に従ってミクロな自分の仕事をやっているうちに、日本語という大きな問題に取り組むことになった。だからこそ、その話は説得力をもち、誰をも惹きつける魅力がある。

 同じように、猪瀬サロンに集まる会員も皆、それぞれのフィールドでプロフェッショナルとして活躍している。彼らの言葉にはファクトに基づいた重みがある。だから猪瀬は彼らの言葉を真剣に聞くのだろう。

 

 

 斎藤さんに対し会員の方から質問が飛んだ。「ゲームのアイディアを思いついたり言語の法則性を見つけ出せるのはセンスのなせる技なのか、それとも僕らでも鍛えられるものなんでしょうか」。斎藤さんは一瞬考えて、つぎのように答えた。

 

「漫然と流れる空気の変化に周期性を見出して暦を編み出したり、この薬草は病気に効くと気づいたり、逆にこのキノコを食べると湿疹ができると知ったりする。
規則性に気づくところから全ての文明は始まっていますよね。猪瀬さんの言葉でいうと『観察力』ということです。

 規則性を発見するために必要なのは俗に言えば『根性』でしょうが、『規則性に対するフェチ度が高い』と言いかえてもいいです。

 ゲームを考える人は総じてフェチ度が高い。彼らはメモを取りながら街を歩いてます。たぶん作家と同じですね。街の奇妙な違和感に引っかかり、それをたぐり寄せたら何か大きなものが出てくはずだと期待する。ゲームクリエイターはそういう生き物です」

 

「フェチ度が高い」という言い回しはなかなか巧妙だ。結局はセンス、という意味でもあるのだろう。しかし、自分が何にフェチを感じるのかを探求しつづければ、斎藤由多加にとっての「ゲーム」、猪瀬直樹にとっての「執筆」に値するものに、僕らも出会えるかもしれない。
 知的好奇心を持って、絶えず学びながら動きつづけることがたいせつなのだ。

 

 

 2時間弱、オフィスでディスカッションしたあとは、近所の老舗の中華料理屋に移動し宴会となる。通常6,000円の豪華なコース料理が半額3,000円で済むのは猪瀬の厚意だ。
老舗のフルコースに舌鼓を打ち、杯を交わすことでよりいっそううちとけ、会話に華が咲く。

 

 宴会ルームに3つあるテーブルを猪瀬は自ら周り、会員たちと言葉を交わす。猪瀬の著作に魅了されてサロンに入った人びとにとって、夢のような時間だ。
ともに杯をかわし、隣り合って食事をしながら、政治や文学について猪瀬と語らう時間はかけがえがない。

 

 猪瀬直樹の著作を耽読した人びとが集まるから、通じ合うのも早い。彼らの間には「同志」のような趣の連帯感さえ漂っている。

 猪瀬直樹のオンラインサロン「近・現代を読む」では、学校や職場では満たされない好奇心や教養への飢えが満たされるはずだ。真のリベラルアーツを求めるあなたの同志はきっとここにいる。

 

取材・文:安里和哲


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