父の通夜の夜、残された子供同士で父の話をした。
「子供の頃、父ちゃん怖かったよなあ。」
と僕。
「えっ。いや、父ちゃんは優しかったよ。」
と姉。
「怖かったのは兄ちゃんだけだが。よく怒られてたから。」
と弟。
3人とも、あの頃の父と同じくらいの年代だ。僕だけが父の印象を違えて持っている。遺影の父が優しい目でずっと僕だけを見ていた。

 テレビがモノクロ映像しか映さなかったあの時代、どの家庭もかなり貧しかった。その中でもとりわけ苦労していた両親は、毎日家にいなかった。大雨でなければ、必ず山に出かけて木材を切り出していた。
 父も母も高知県出身である。なぜ縁もゆかりもないこの九州の片田舎に移り住むことになったのかは、詳しく聞いていないから僕たち子供は知らない。八歳年上の姉に埼玉と静岡の記憶がかすかにあり、巡り巡ってこの地にたどり着いたらしいことは聞いている。昔の田舎がどこもそうであったように「よそもの」には、生きにくいこの土地で、3人の子供たちを育て上げるまでにどれだけの苦労をしたのか、想像するだけで申し訳なさに似た感謝の気持ちが沸いてくる。
 父は、自分の仕事を「きこり」や「林業」と言わずに、いつも「山師」と呼んでいた。息子の僕にとって、それはかっこよく聞こえ、心地よい響きであった。
 でも、僕はいつまでも幼く悪い子だった。近所の家の裏で、火遊びをした。2回も。ただ、マッチを擦ってみたかっただけだ。父がたばこを吸う時のように、シュッとかっこよく火をつけてみたかった。
 1度目は、いとこ連中を誘ってチラシに火をつけた。となりのハヤばっぱんの敷地は、ブロック塀で囲まれている。かがんで悪さするとすっぽり僕らを隠してくれるし、風も防いでくれる。申し分ない。いとこの娘っ子らは、そのときは黙っていたくせに、すぐに両親に言いつけた。父は家の裏の柱に僕を縛り付け、暗くなるまで許してはくれなかった。
 2度目は、単独犯だった。前回の反省を生かしたのだ。しかも、今度は数件離れた家の裏を現場に選んだ。しかし、これもすぐにばれた。この近所で火遊びをするような子は僕しかいなかったし、けっこう有名だったらしい。火をつけられそうになった家のおばちゃんが真っ赤な顔で怒鳴り込んできた。今も赤鬼が登場する昔話を聞くとあのミカばっぱんの顔が浮かんでくる。トラウマだ。今度は、暗くなっても縛られ続けた。もう3度目の火遊びはしないと心に誓った。
 貧乏だったから、友達のようにお小遣いはもらえなかった。でも、みんなと同じようにメンコは欲しい。僕は、粉ミルクの空き缶に父が小銭をため込んでいるのを知っていた。
「お金が貯まるまじないぞ。」
父と母は僕たちに説明して、子供たちが手を出さぬように釘を刺していた。僕はそれを盗んだ。5円玉や10円玉が山ほど入っていたから、分からない程度拝借して、それを全部メンコに換えた。ばれなかった。味を占めた僕は、数日後にまたやった。3度目くらいから、小銭がメンコではなく駄菓子屋のお菓子やサイダーに変わった。そして、ばれた。何度目かの駄菓子屋から、走って帰ってきた僕を着替えさせてた母の鼻先で、サイダー臭のするゲップをしてしまったのだ。火遊びの時に、「次は、橋の上から吊す。」と言われていた。吊されることはなかったが、しかし、父のげんこつはこの世のものとは思えないほど痛かったし怖かったから、今回も「もうやらない」と心に誓った。
 小学2年生の時に初めてたばこを吸った。吸っていたたばこを父がその辺に放り投げてくれたからだ。火がついたままだった。父の目線の裏をくぐって、そのたばこを拾って吸った。父のようにかっこよくなれた気はしたのだが、全然おいしくなかった。これは、ばれなかった。
 別の日、弟といとこ連中を誘って、秘密基地を作りに行くことにした。年の離れた姉は同じ遊びには入ってこないから、僕が一番年上だ。
「よし、兄ちゃんについてこい。」
親分になった気分の僕は、先頭に立った。段々畑には、子供の背丈を超える牧草が育っていた。僕たちは、その植物を踏みつけて道を作った。奥に進んだところで、やや広めに踏みつけて部屋を作る。また通路を作り、部屋を作り、そしてまた通路と部屋。まるで縦に切り取られた蟻の巣のような、5分の部屋を有する広大な秘密基地を作ることに僕たちは成功していた。すべて踏みつけていた。寝っ転がって見上げた空は、高く茂った緑の草で丸く青く切り抜かれていた。8歳から3歳までのちびっこギャング団は、そこで秋の涼しい時間を昼寝に使った。
 火遊びの時と同じだった。そんなことをする子は近所にはいない。5人とも有名人だった。いとこの両親も同じ山に仕事に出かけていたから、僕らはいつも徒党を組んで遊んでいた。5人でやったことなのに、一番上の僕が怒られた。そりゃそうである。

  父は、山師であった。1本50kg以上する丸太を軽々と担ぎ上げる。腕は巨大ロボットのそれみたいに太くて固い。僕なんか文字通りつまみ上げられるのだ。めちゃくちゃ怖かった。そして無口であった。酒は飲まない。だから陽気になることもないので、父の笑顔を子供の頃の僕は知らない。そんな父がどんな思いで畑の持ち主に頭を下げていたのか。「また怒られた。」で頭をいっぱいにしている僕に、そのときの父の気持ちなど思いやれるはずなどない。「なんでいつも僕だけ叱られるんだ。」としか考えていなかった。

 高校の時、大学受験をあきらめた。そんな経済力が我が家にあるとは、とうてい思えなかったからだ。就職を選んだ。どこに置きようのない気持ちを僕は父にぶつけた。
「夢なんか叶うわけがない。追いかけるだけ無駄だ。俺は、この家に生まれたくて生まれたわけじゃない。」
父に言い放った。父は、何も言い返さなかったし、怒りもしなかった。そのときの僕も、父の気持ちを察する能力など持ってなかった。ただ、目の前の狭い世界でしか物事を考えることができなかったし、それは多分、僕が小学生の頃から何も変わっていなかったということだ。馬鹿だった。大馬鹿だった。

  父は、亡くなる前の3ヶ月を病院で過ごした。僕にも子供が3人いて、子を持つ父の気持ちが少しは分かるようになっていた。会話もままならなくなった父が、7月のある日、僕に懇願するようにつぶやいた。
「家に帰りたい。死にたくない。」
年齢と共に衰えを見せ、弱さを感じさせていた頃ではあったが、「老い」が見せるそれとは別の人間の弱さを感じさせた一言であった。それまで僕に見せていなかった父の裏側であるかのようだった。しかし、次の日の父は全く正反対の怖い父だった。
「いいか、ユウスケ。お前は、おらが死ぬまでおらの面倒を見んといかん。お前は、この家を選んだんぞ。お前が選んで生まれてきたんじゃ。」
父の目は、僕をしっかり睨みつけていた。父の細い声は大事なことを教えていた。
 父が、僕の高校生の時の失言を覚えていたかどうかは分からない。ただ、今度は僕が何も言えなかった。
  その一月後に、父は他界した。

 初盆が済んで、我が家も落ち着いてきた頃、家族旅行を兼ねて父ちゃんの郷里を尋ねた。車で13時間かかる距離のために、これまでも簡単には行けなかった土地であった。父ちゃんの妹を訪ねた。サダコおばちゃんが久しぶりに会った僕たちを見てうれしそうに父ちゃんの話をしてくれた。

 厄年じゃって言いよったけん、兄さんが42歳じゃったかね、ユウスケ君が生まれたのは。
『歳をとってからの子じゃけ、大変じゃろ。』
って聞いたことがあるんよ。そしたら、兄さんね、
『まあ、うるさいけんど、仕事から帰ってこの子らがおると、うれしいもんよ。』
って言うてねえ。ほんとユウスケ君らはかわいがられよったよ。
 僕は、ちゃんと愛されていたと知っていたし、僕だけが父ちゃんを怖かったのは、僕が悪さしていたからだと知っていた。僕自身が父になった今、我が子の誰もが平等に愛おしい存在であることも知っているし、そのことで命よりも大切なものがこの世に存在するのだということを初めて知った。そして、父ちゃんが生涯を懸命に生き、僕自身が父ちゃんを尊敬しているという自覚もあった。なのに、叔母の話を聞いて、なぜこうも涙が止まらないかが分からなかった。
「父が僕たちを大事に思っていた」ということを叔母から聞いただけなのに、知っていたことだったはずなのに、なぜ涙があふれてくるのか。
 うまくしゃべれない。
 胸が熱い。

 自分自身が父となり、父ちゃんの気持ちを分かったつもりになった時点で、実はまた大事なことを見失っていたみたいだ。
 何も分かっていなかった子供の時の方が、実は父ちゃんを幸せにしていたんだ。
  ありがと、父ちゃん。やっぱり僕は、馬鹿だった。まだまだだ。


※「ばっぱん」は婆さんを表す鹿児島の方言