八ッ場ダムの問題と
亀井さんのモラトリアム法案。
賛否両論の難しい選択だと思います。
だけど、これがまさに選択なんだなぁ‥と、
感じ入ったりもしています。
なにが正しいのか、なにが間違っているのか
どれがより正しいのか
政治に限らず、僕たちはそういう選択を毎日のように繰り返してる。
まるでこの世界に真実というものが敢然と輝いてるかのような錯覚を持って。
これは僕の持論でしかないのだけれど
選択とは、なにが正しくて、なにを間違っているか考えることではなく
なにを前提にするべきかを考えることなんだと思うんです。
要するに、なにを守るべきなのか。ではないかと。
そして、それを見つけたときに選択は自ずと決まっています。
そうなると八ッ場ダムは簡単で、建設中止だと思います。
これは民主党の政治姿勢の象徴的存在になってしまいましたから
その政治姿勢を貫くために、心を鬼にしてでもやらなければならないことです。
住民はまたしても政治に翻弄されるわけで、
もし自分だったら‥と、思うと遣る瀬無いですけど
既にことここにいたってしまったのなら選択の余地は残されていないと思います。
もし、誤りがあるとするなら
この問題を象徴化してしまったことで、
もっと無難な公共事業、誰もが無駄だと言えるようなものを最初に扱えば
中止、続行の選択は残されていたように思います。
亀井さんのモラトリアム法案は
八ッ場ダムよりずっと難しい問題です。
まだ、どこを前提にしてもかまわない。選択の余地が広々と残されています。
そして、必ず、その選択の弊害が訪れます。
何かを選ぶということは、それ以外を捨てるということでもあるのです。
弊害の1つとしてあげられるのが株価の問題。
藤井財務大臣の発言がどうとか、いろいろ言われてますけど
民主党ははじめから内需路線ですから
円高になるのも、株価が下がるのも当然だろうと思います。
グローバル化した経済での外需軽視は、株価に当然響きます。
もう1つが、銀行の貸し渋りの問題。銀行の経営の問題。
これも当然、株価に影響します。
アメリカを見てもわかるとおり、いまだトレンドは金融です。
グローバル経済の核はこの金融で、その他外需は後追いに過ぎないと考えます。
そして、モラルハザードの問題
街の意見でも、「借りたものは返すのが当然」とか、よく聞こえてきます。
だけども、僕はこの亀井さんのモラトリアム法案には賛成です。
これまでも何回か書きましたけど
自民党的な、大企業減税などによる上からの景気回復は
いざなぎ景気越えの好景気ですら、国内に利益が循環しなかったように
うまくはいかなかったわけです。
それで鳩山さんは、下からの景気回復
子ども手当てなどで個人を潤わせ、上に循環させていく
そういう方向を示しましたけど、僕はそれもうまくはいかないと思うのです。
理由として、僕は公共心、共存共栄という考え方を失ったからだと考えました。
「家族間の殺人が増えたのは経団連の責任」と、亀井さんは言いましたけど
実際、どうこう別にしてその気分はとても理解できます。
リストラを敢行するということは、満足な消費者を減らすということです。
たしかに、大企業はコスト削減のほとんどを人件費に求めているように思えますし
当然、身を削ってまでも社員を守ろうなんて考えもしないでしょう。
経団連は派遣の解禁を求めていたし、今なお労働市場の開放を求めています。
要するに、日本国内の消費など眼中にない。
そういうことなんだろうと思います。
もちろん、それはこのグローバル経済というものの中で生き残るために
しかたないことなんだろうと思いますが。
また、個人も同様だろうと思うのです。
潤った財布が、良いもののために開かれるとは思えないのです。
これだけ消費者意識の強い状況で
だれが、生産者と消費者は1つであると考えることができるでしょう?
以前に書いたとおり、僕は自立した個人というものを信用しません。
あらゆるものは関係性によって存在できる。
人と人との関係性によって、ようやく人間は私欲を抑え
公共心を発揮できるのだと僕は思うのです。
亀井さんのモラトリアム法案は
中小零細企業と住宅ローンを三年の期限付きで返済を猶予しようとするものです。
もちろん、中小零細企業にも家族にも
共存共栄や公共心を失っているものもあるでしょうけれど
関係性によって自立させられるのが人間だとするのなら
顔と顔を付き合わせる小さな会社には、ずっと公共心が生まれやすくなります。
社員を家族同然のように守ろうとする
僕もいくつかの小さな会社に勤めましたけど、たしかにそういう気分がありました。
横のつながりについても、
ひどく儲かるわけではありませんし、いつ不況で潰れてしまうかわからない。
そういう不安の中では、昔の長屋住人的な気分が残っているように思えます。
いや、そんなことはどうでもいいのです。
神様と一対一で契約を結ぶこともない、多神教の文明で
自立した個人というものを信じることは難しい。
恥の文化と呼ばれるようなこの国では
人と人との関係によって公共性は担保される。そう考えた方が正しいと僕は思うのです。
そして、経済は貨幣の循環である以上、
資金は循環するところに落とすことが大事で、
その循環が社会のありようを決めるのだとするなら
より公共性のある場所に落とすべきなのだろうと思うのです。
その場所として中傷零細は、個人よりも大企業よりも適切だろうと考えます。
だけども、亀井さんの言うとおり
本来なら、その中傷零細を守るために大企業が犠牲を払うべきで
リストラによるたくさんの人間の血であげた利益なのだから
より多くの公共心を発揮しなければならないはずです。
銀行にしても同様で、これからの貸し渋りや貸しはがしを指摘するなら
これまでの貸し渋りや貸しはがしの責任を取るべきなんだと思います。
たくさんの血が流れたことはたしかなんですから。
そしてモラルハザードだと言うのなら
経済で使われる意味と少し変わってしまいますけど
循環の構造の破綻を公共心の欠如だと言うくらいなのですから
既にモラルなんて壊れている。と、僕は思います。
借りたお金を返済しないわけじゃなく、三年猶予することと
企業が社員を守らないこと、責任を持たないこと。
これだけ雇用の不足がありながら、経団連が外国から安い労働者を入れようとしてること。
社会の一員であるという意識もなく、自分たちが永遠の消費者だと思い込んで
安く大量生産されたものばかり手にしようとすること。
モラトリアム法案がモラルハザードを招くと言うのなら
今あるモラルハザードはどう考えるべきなのでしょう。
もちろん、それをすることで株価が大幅に下落するかもしれないし
世界での競争力を失うかもしれません。
何かを得るにしても、ずいぶんと大きなものを捨てることになります。
僕はそれでも、既存の成長思考を変えるべき時期なんじゃないかと思うのです。
環境を考えれば、当然、経済は停滞します。
25%の二酸化炭素削減を、排出権の購入など数値上で誤魔化すような手段を取らずに
努力と技術力で乗り越えることができれば
大きな利益に繋がるのだろうし、そうじゃなくても新しい価値観をもたらし
尊敬と誇りを勝ち取ることもできます。
この問題もまた同じで
価値観の転換とともに、内需拡大と、公共心の生きた社会ができるかもしれません。
今を犠牲にすることで、未来を生きる人の幸福になるのなら
それは正しいことなんじゃないでしょうか?
もちろん、実際にそうなるとは誰にもわかりませんが。