近代民主主義を考えれば

ホッブズの次はロックになる。


ジョン・ロックは経験論者だと言われてる。

それは、赤ちゃんを「何も書かれてない白紙」だとして

知識は生まれ持ったものじゃなく、経験的な感性と理性的な反省によって得られるもの。

そういう信念があるのだから

当然、ホッブズの人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」とは相反する。

ロックは人間の自然状態を

牧歌的で平和的なものだとした。

「人の食糧を奪うより、人間は作物を育てるものだ。」そういうことらしい。


だから、労働と生産で獲得した財産

財産の所有権が、人間が本来持つ「自然権」になる。

そして、その「自然権」を

主権者でさえ侵害できない絶対の権利とした。


ホッブズの場合は、人々は自然権を放棄する必要がある。

放棄した自然権を一元化することで絶対的主権者をつくる。

そうすることで、国家と市民という本来同じものでありながら

二つの概念が生まれてしまった。

国家と市民の対立

だけども、市民は既に自然権を放棄しているから

国家に反逆することができない。

もちろん、実際はできる。武器を持って立ち上がればいいのだから。

だけども、武器を持って立ち上がる権利がない。

「してはならないこと」になる。


ロックの場合は、自然権を絶対的にする。

自然権の方が主権よりも絶対的なので、仮に国家に財産を侵害された場合

抵抗する権利がある。

権利があるのだから、それは「してもいいこと」になる。



財産は労働と生産によって貯蓄されていくもの

だから当然、それをするための命の安全も含まれる。

生き長らえることが保障されてなくては、労働と生産

経済活動は活発にならない。



このロックの思想で、労働や生産、財産の価値が飛躍的に上がったと思う。

一連の経済活動が、人間本来の権利にまで押し上げられた。

他にも、モンテスキューの三権分立に繋がる、立法権と執行権の分離がある。



人々の契約によって主権・統治機関の国家をつくるところはホッブズと同じだと思う。

ただ、ホッブズによって生まれた国家と市民という二つの概念の対立の抑止に

立法と執行を分けて権力の集中を避けることを考え、

自然権を侵害された場合に抵抗する権利、抵抗権があるとした。



これはたしかにわかりやすいと思う。

財産を国に侵害されたら抵抗できる。

ただ、ロックの自然権は、ホッブズと違い

人間の自然状態を、「人から食糧を奪うより、人は作物を育てる」を前提にしている。

なら、暴力の抵抗は認められていないのだろうか?


仮にホッブズの「万人の万人に対する闘争」なら

人間の自然状態は、生き長らえるために、暴力を含めてあらゆる手段を用いる。

その「自然権」が主権より上位にあり抵抗権を持てば

当然、その抵抗は暴力を含めたあらゆる手段のことになる。



それともロックの自然権にも

暴力が含まれているのだろうか?


こうも考えられる。

人間本来の自然状態が平和的で牧歌的なら

主権者も同様になるはずだ。

そうなると、主権はどう守られるのだろう?

他国の侵攻にどう対処するのだろう?

治安維持はどうするんだ。

もし、仮に主権者が暴力を保有してるなら

それはどこから与えられたものなのか?

ちょっと、僕にはわからない。