心ってどんなものだと思います?

僕は竹で編んだ鞠のようなものだと思います。



そんなことって、できるだけ考えない方がいいと思うんです。

そういう機会はできるだけ避けた方がいいと思うんです。

僕だって、楽しいとき

たとえば友達と遊んでるときには

そんなこと思いもしません。


集中してるとき、

必死に仕事してるとき、大ピンチのとき

思うこともありません。



だけど、ときどき向き合わなきゃいけないことがあります。

ありますけど、でも頻繁にあってはいけないことだと思います。

あくまでも、ときどきなんです。ときどきじゃなきゃいけないと思います。



一吹きの風で転がってしまうくらい軽くて

だから、そのままどこかへ行ってくれたらいいのだけど‥と、思うこともありました。

でも、竹ひごですから見失うほど遠くまではいけません。

僕の見える範囲で、コロコロと揺れて止まってしまうのです。

そしてそれを拾いに行くのはとても不愉快なんです。


ぎゅうぎゅうと握って潰してしまいたくなる衝動に駆られるときもあります。

力を入れて握ると、みしみしきしんで

僕は急に不安になります。

でも、潰してしまいたい衝動は残りますから

ギリギリのところを探って力を込めます。

すると、不意にピシッと竹の割れたような音がして怖くなります。

それでも惰性で弱く握っていますけど、そのうち飽きます。

なんでこんな無意味な自傷行為のようなものをするのだろう?と、呆れます。



そういうときはどうにもならないときなんです。

どうにかなることなら、そんなことしません。

どうにもならないから、自傷気味なことをして逃げるのだと思います。

逃げることが嫌なわけじゃないんです。

僕は既にたくさんのことから逃げてますし

逃げられるならいくらでも逃げます。

どうせこの世にあるたいがいの事情は僕に追いつけやしないのですから。



きっと答えを求めすぎるのかもしれませんね。

気がつけば弄び過ぎたのか

竹はささくれだって

昔ほど転がることもできません。

痛くて強くも握れません。


たぶん、心は鑑賞するためにあるんじゃないでしょうか。

ときには観賞し、ときには観照する必要もあるでしょう。

そして誰かと感賞し合うことができたら、それは素敵なことだと思います。


自分のであれ、他人のであれ

決して弄んではいけません。

弄んではいけないと思うのですが

たいがいのそれは気づかぬところで罪なくはじまってしまうものです。

むしろ自分から弄ばれることを望んでいるように思えてならないときもあります。

ですから、うまく恨むことも憎むこともできず

ただ、ただ悔しがるだけなのです。

きっとそれは喜びとか嬉しさとか

小さな幸せと一緒にやってくるものだからなのでしょう。


もし、出来ることなら

そういう気分が、心のあり方があることを

どうにか理解してほしいと思うのです。

もちろん僕は幸せです。

きっとかなり幸せな人生を歩んでると思います。

たぶん、誰よりもずっと僕なりの幸せを。

ただ、幸せにもさまざまなかたちがあります。

普遍的な、人々の願う平和的で健全な幸せを生きてる人への願いです。

これは僕の主張ではなく

代弁だと思ってほしいのです。

僭越のそしりを受ける覚悟を持って。