僕はよく人から聞いたものを
見たり聴いたりする。
これが良いと薦められればできる限り従うことにしてる。
それは僕が
この世界のあらゆる感動を知りたいと願うからでもあるし
知らないままに消えていくのを怖れてるからかもしれないし
人間ひとりの認識なんて
どうにもならないくらい狭いものだと思うからかもしれない。
だけど、そういった小難しいものじゃなく
薦められたそのもの自体の感動と
共有や共感の感動と
二つを同時に得ることができる。
それって本当に素晴らしいことだと思うんだ。
僕はそういう経験を何度か経て
「薦められたものには、とりあえず従うべき」という、
人生哲学のようなものを得ることができた。
別に、それを誰かに薦めることはしないけど。
もちろんそんなことは稀にしかない。
薦めてくれたもの、そのほとんどは
「僕の心は揺さぶらないけど、薦める理由はわかる」で、
この作業に徹すれば
ほぼすべてがその繰り返しだとも言える。
だけど、それを僕は決して無駄だとか残念だとか思わない。
少しでも相手を理解できるかもしれないし、心のあり方が見えてくるかもしれない。
なにより、今、僕が感動できないだけで、いずれその時が来れば
同じように感動できるようになるかもしれない。
もちろん、その時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
だけど、直ちに評価してしまえば、来るかもしれない時を逃すことになる。
それでは何のためにそれをしてるのかわからなくなってしまう。
ただ、本当に稀に
稀になんだけれども、どうにもならないものもある。
僕個人の趣味の問題だとも言えるけれども
そうだとも言い切れない。
たとえば、最近だと青山テルマとか。
これまで何度も歌詞が泣けるんだと薦められたけど
どうも興味が沸かなくて見送ってきた。
たぶん、それは正しかったんだと思う。
僕には正直どうにもならない。
気持ちは微かに理解できるのだけど、これである必要はないし
気持ちを理解するために、
相撲の決まり手のうっちゃりみたいな言葉を受け止めていく労力を考えると
ちょっと僕の忍耐では無理だ。
「僕は揺さぶられないけど、薦める気持ちはわかる」の
最近の代表例は、バンプオブチキン
これはもっと前から、ずいぶん前から薦められてた。
ようやくにしてゆっくり聴く機会を得たのだけど
ちょっと僕には理解しにくい。
なんだか歌詞を見てると
どうも世の中、僕の知らない間にずいぶん大変なことになってるな‥と。
すごく気持ちはわかるんだけど
その叫びを届ける相手がいることが不思議で
たぶん僕は健全過ぎるのかもしれないし
素直すぎるのかもしれない。
どうやったらそんなに人は傷つくことができるんだろう?と
どうやったらそんなに人は嫌われることができるんだろう?と
人間だからそうなることもあるのだろうし
そうなってしまうこともできるのだろうと思うのだけど
この人たちの叫びを待つ人がいることに
僕は酷く切なくなってしまう。
黒猫とかライオンの話も聴いたけど
なんか僕には過剰すぎる。
だって一生懸命手紙を届けてる黒猫をいじめようなんて
誰も思わないでしょ?
普通は一心不乱に何かに向かってるものを見たら
人はいじめることよりも、感動するんじゃないかな?
だからどうしても素直に受け止められない。
やっぱり僕は素直すぎるんだろうか。
それとも幸せに育ちすぎたんだろうか。
ただ、なんとなく現代を見た気がした。
そこに表現されてる苦しみとか悲しみじゃなくて
僅か数分の曲に詰め込むことで
どうしても過剰になってしまう物語。
きっと現代に生きる人々には時間が足りないのだろう。
映画の2時間半や、1日僅かな時間を継続する読書とか
本当に時間が足りないのか、忍耐力を失ったのか
強迫観念のように無駄を嫌うのか
情報を集めるだけに捉われてしまうのか
効率的で合理的なものを好む風潮か
その辺はよくわからないけど、現代病の1つの症状のように思えた。
たぶん、こう言うと怒られるだろうけど
携帯小説的な、新しい時代の新しい表現で
実体は昔からあるものを過剰演出しただけだったりするけど
受信する側の「求める」ということの構造が似てるような気がする。
どちらも気持ちはわかるんだ。
薦めてくれた人の気持ちも、そのもの自体も
ただ、きっと使われてる言葉が僕には適切じゃなかった。
たぶん、そういうことなのかもしれない。
それだけのことかもしれない。
まぁ、ようやくにして
僕は好きなものと嫌いなものがわかるようになってきたから
こういう風に考えてしまうのかもしれない。
見たり聴いたりする。
これが良いと薦められればできる限り従うことにしてる。
それは僕が
この世界のあらゆる感動を知りたいと願うからでもあるし
知らないままに消えていくのを怖れてるからかもしれないし
人間ひとりの認識なんて
どうにもならないくらい狭いものだと思うからかもしれない。
だけど、そういった小難しいものじゃなく
薦められたそのもの自体の感動と
共有や共感の感動と
二つを同時に得ることができる。
それって本当に素晴らしいことだと思うんだ。
僕はそういう経験を何度か経て
「薦められたものには、とりあえず従うべき」という、
人生哲学のようなものを得ることができた。
別に、それを誰かに薦めることはしないけど。
もちろんそんなことは稀にしかない。
薦めてくれたもの、そのほとんどは
「僕の心は揺さぶらないけど、薦める理由はわかる」で、
この作業に徹すれば
ほぼすべてがその繰り返しだとも言える。
だけど、それを僕は決して無駄だとか残念だとか思わない。
少しでも相手を理解できるかもしれないし、心のあり方が見えてくるかもしれない。
なにより、今、僕が感動できないだけで、いずれその時が来れば
同じように感動できるようになるかもしれない。
もちろん、その時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
だけど、直ちに評価してしまえば、来るかもしれない時を逃すことになる。
それでは何のためにそれをしてるのかわからなくなってしまう。
ただ、本当に稀に
稀になんだけれども、どうにもならないものもある。
僕個人の趣味の問題だとも言えるけれども
そうだとも言い切れない。
たとえば、最近だと青山テルマとか。
これまで何度も歌詞が泣けるんだと薦められたけど
どうも興味が沸かなくて見送ってきた。
たぶん、それは正しかったんだと思う。
僕には正直どうにもならない。
気持ちは微かに理解できるのだけど、これである必要はないし
気持ちを理解するために、
相撲の決まり手のうっちゃりみたいな言葉を受け止めていく労力を考えると
ちょっと僕の忍耐では無理だ。
「僕は揺さぶられないけど、薦める気持ちはわかる」の
最近の代表例は、バンプオブチキン
これはもっと前から、ずいぶん前から薦められてた。
ようやくにしてゆっくり聴く機会を得たのだけど
ちょっと僕には理解しにくい。
なんだか歌詞を見てると
どうも世の中、僕の知らない間にずいぶん大変なことになってるな‥と。
すごく気持ちはわかるんだけど
その叫びを届ける相手がいることが不思議で
たぶん僕は健全過ぎるのかもしれないし
素直すぎるのかもしれない。
どうやったらそんなに人は傷つくことができるんだろう?と
どうやったらそんなに人は嫌われることができるんだろう?と
人間だからそうなることもあるのだろうし
そうなってしまうこともできるのだろうと思うのだけど
この人たちの叫びを待つ人がいることに
僕は酷く切なくなってしまう。
黒猫とかライオンの話も聴いたけど
なんか僕には過剰すぎる。
だって一生懸命手紙を届けてる黒猫をいじめようなんて
誰も思わないでしょ?
普通は一心不乱に何かに向かってるものを見たら
人はいじめることよりも、感動するんじゃないかな?
だからどうしても素直に受け止められない。
やっぱり僕は素直すぎるんだろうか。
それとも幸せに育ちすぎたんだろうか。
ただ、なんとなく現代を見た気がした。
そこに表現されてる苦しみとか悲しみじゃなくて
僅か数分の曲に詰め込むことで
どうしても過剰になってしまう物語。
きっと現代に生きる人々には時間が足りないのだろう。
映画の2時間半や、1日僅かな時間を継続する読書とか
本当に時間が足りないのか、忍耐力を失ったのか
強迫観念のように無駄を嫌うのか
情報を集めるだけに捉われてしまうのか
効率的で合理的なものを好む風潮か
その辺はよくわからないけど、現代病の1つの症状のように思えた。
たぶん、こう言うと怒られるだろうけど
携帯小説的な、新しい時代の新しい表現で
実体は昔からあるものを過剰演出しただけだったりするけど
受信する側の「求める」ということの構造が似てるような気がする。
どちらも気持ちはわかるんだ。
薦めてくれた人の気持ちも、そのもの自体も
ただ、きっと使われてる言葉が僕には適切じゃなかった。
たぶん、そういうことなのかもしれない。
それだけのことかもしれない。
まぁ、ようやくにして
僕は好きなものと嫌いなものがわかるようになってきたから
こういう風に考えてしまうのかもしれない。