「素敵なもの」という、

主観的で曖昧なものをめぐること。

たぶん、これを目的にできる人間は限られてると思う。



曖昧な目的は目的にならない。

地図上の目的地が「←このへん」では、最後のところで迷ってしまうし

インディー・ジョーンズの映画でもそうだけど

お宝を得るにはなんらかのカギが必要で、その前にはたくさんの罠が待ち受けてる。

さすがのインディーも鞭なしでは、コウモリにだって苦戦するんだ。

だから準備が必要になる。

水中なら酸素ボンベが必要で、火中なら防火服が必要で、空なら飛行機が必要で

月なら宇宙船、女性にはプレゼントが必要だし、甘い台詞も必要かもしれない。



そして、それはたくさんの人の目的じゃなく、僕個人の目的なんだ。

たくさんの人たちの目的は、ある程度の曖昧さが必要だけども

個人的目標が曖昧であってはならない。



それでも、「素敵なもの」という曖昧なものをなぜ目的にできるのか?と言えば

僕が信じられる価値基準を持ってるからだ。

僕にはトラディショナルな価値基準がある。

それが背景にあるからこそ、曖昧さを乗り越えることができるんだ。

僕の主観は伝統的価値基準を経過して、公平さを得る。

公平に素敵なものを選び出すことができる。

そのことについては、誰よりも自信を持ってるんだ。



だから、その問題は乗り越えることができる。

できると踏んだからこそ、僕はそれを目的にすることができる。



さて、その素敵なものをめぐる冒険。

これはあてのない冒険なんだ。

終わりが設定されていないんだ。

終わるとき、それは僕が死ぬときなんだ。


観光とは違う。旅とも違う。

素敵なものを見つければ、直ちにそこに向かうしかない。

目の前にヤマタノオロチが雄たけびをあげていても、

逃げることは許されないんだ。


もし、それが人ならば

僕はとても臆病で小心者で誤解を恐れる人間だけど

それでも声をかけなければならないんだ。

素敵であることを、直ちに伝えなければならないんだ。


素敵なものを眺めるのではなくて、素敵なものにコミットすることなんだ。




目的が決まれば、目の前の小さな選択もそのためにしなきゃならない。

欲や楽を選んでしまえば、僕は嘘つきになり、二度と立ち上がれなくなるかもしれない。

もしかすると、誰かを傷つけることになるかもしれない。

素敵なものをめぐるということは、素敵じゃないものをめぐらないということ。

ときには、素敵じゃないものを素敵じゃないと言わなきゃならない。

それは僕にとって簡単だけど、とても辛いことなんだ。




これからはじめるお店も、そのためにある。

この先出会うかもしれない大切な人も、目的のための過程になる。

もし、その人が目的を共有してくれたら、それは素晴らしいことだけど

もし、その人が受け入れてくれなければ、たとえどんなに愛していたとしても

捨てなければならない。


何か1つでも選び損ねれば、それは僕を損ねることになる。

素敵なものをめぐる資格を失うことになるんだ。

そして、それは僕の人生を決定的にする。生きながらの死を決定するものになる。

それだけの覚悟をしての目的なんだ。


そうやって集めた素敵なものたちを

この世界のどこかに刻み付けて僕は消えていく。

こんな生き方素敵じゃないか。

そう、仮に最終目的地をつくるとすれば

それは生き切って僕自身が素敵なものになることだ。

あの南アルプスの山々みたいに。




青臭いとか幼いとか言われるのは仕方ないにしても

僕はただのロマンで語ってるわけじゃない。

ロマン的なものを、夢想的なものを現実に引っ張り込み

大地に根付かせてやろうとする野望なんだ。

本当にできるのか、やり遂げて証明したいんだ。

こういう人生もある。

結果的にではなく、過程を踏まえて意識的に

こういう人生もあるんだと、どこかに刻んでこの世から消えたいんだ。



最後にしては酷い文だけど

いつものことだからしかたない。

とりあえず、これでここでの僕は終わりだ。