車の中

ボンネットを叩く雨の音

湿気とエアコンの匂い。

ドアガラスにはりつく雫をなんとなく眺めてたんだ。



すると、一瞬だけ、本当に一瞬だけ

なにかがよぎった。

なにかとても大事なことを忘れてしまっていたと感じた。

なにかとても大事なことの切欠のように思えた。

においも、色も、空気も、そのときの気持ちも

一瞬だけ掴むことができたんだ。

だけど、強く、強く胸を揺さぶられて、正体を突き止める間もなく

どこかへ消えてしまった。


胸の揺さぶりに応じるようにそれがなんだったかを思い出そうとしたけど

どうしても思い出せなくて

かすかに残る、においや色や空気とドアガラスの雫に頼って

記憶を引っ掻き回したけど、確信を得られるようなものは見当たらなくて。



だけど、あのにおいや空気や色や気持ちは

たぶん子供の頃のものだった。

僕はずっと昔、小さかった頃

父親の車の助手席から、たしかにドアガラスにはりつく雫を眺めていたんだろう。


雨が雫にぶつかって流れていく様子や

大きくなり過ぎて重みで垂れていく様子を

くねくねと垂れ、またくねくねと垂れ、ときどきつーっと垂れていく雫を

子供の頃、僕は見つめていたんだ。



あのときの僕は、とても真剣だった。

テストの回答の記号を探すように、真剣に切迫した気持ちで雫を見つめてた。

それを僕は覚えているんだ。

だけど、なぜそんなに真剣だったのか、切迫していたのかはわからない。

きっとなにかそういうものがあったんだ。

あの頃、そういうものを抱えてたんだ。

今、雫を見ている僕が抱えてるものと同じように‥


そう、今の僕と同じものを抱えてた。そう思ったとき確信した。

僕に一瞬よぎったものは、きっとこの記憶なんだろう。



父親がいた。

とても大きな父親だった。

声は低くて、顔は怖くて

腕が太くて、力が強くて、字がうまくて、なんでもできた。

子供の頃、僕はとても安心していたんだ。

今とは違う。たしかに生きてれば同じ年齢くらいの会社の人が

もうすぐ僕の横に座るけど

今はたった一人で雫を眺めてる。

今とは違う。僕はあの頃、とても安心していたんだ。


父親の声を思い出した。

僕のなまえを呼ぶ声を思い出した。

だけど、この声は実際と違うことを知ってる。

姉の結婚式のビデオから聞こえてくる父親の声とは違うことを知ってる。

だって、僕は驚いたんだ。

声を思い出せるのに、そのビデオの声を聞いて驚いたんだ。

「あ、父さんの声だ‥ そうだ、こんな声だった‥」って。

僕の記憶の中の父親の声と、実際の父親の声は

もう違ってしまっているんだ。




でも、よぎった記憶

とてもとても大事なこと

それが父親の声だとは思えない。

もっと別の何かなんだ。


ただ、父親の車の中のにおいで、空気で、色だった。

どの雫が先に垂れるかを、姉と競争したことを思い出した。

雪が積もった日

学校帰りに雪合戦をした。

家に戻ると、珍しく母親がいて

びしょびしょに濡れた手袋をストーブの前に乾してくれた。

あのときのにおいで空気で色だったような気もした。

冷たい霧雨が降る試合中

ヘルメットから垂れる雫。

あのときのにおいで空気で色だったような気もした。



もう、記憶を探るのはやめた。

どれも僕にとって、僕が好むとか好まないとか関係なく

大事な大事な一瞬の風景だった。

あれは切欠でもなければ、よぎったわけでもないんだ。

あのほんの一瞬がすべてで

後に続く思い出なんかないんだ。

それ自体、それのみが大事なことだったんだ。

たしかにそれは僕にとって大事なことだった。

なぜかはっきりわかるんだ。今はわかるんだ。