こうやってブログを書くこと。


2度目の夏が過ぎて、秋が来て


クリスマスが終わって、もうすぐ2回目の新年を迎える。




僕はすぐに忘れてしまうから


日常から感じる、様々な想いを書き残しておきたくて


そうすることで、


今度は、想いを日常から


掴み取ろうと、手を伸ばすこともできるようになった。




ただ、残念なのは


僕は想いを言葉にすることが下手で


才能以前の問題で、それはもう致命的。


書いたものを読み返せば


当時の想いをかすかに感じることはできたけど


まず、誤字が多い。


そして、日本語がおかしい。


なにを言ってるのかわからない。


直したくても、多すぎて気が滅入る。



特に、書き言葉は苦手みたいで


給水所で、他のランナーの飲み物まで


なぎ倒して、ぐちゃぐちゃにしてしまうような



居た堪れない気持ちで、後を振り返るけど


やっぱり走ることを止められなくて


また次の給水所で、同じ失態を演じる。




他の素敵なブログを見れば


書いた人の想いが、綺麗に通り過ぎていて


その形跡、残り香を楽しむ僕は


とても気分がいい。




「まだ、若いから」では


慰められない年齢になってきてるし


この先、どうしようか悩む。




でも、やっぱり僕は忘れっぽくて


書き残さないと、折角の想いが消えてしまう。






たぶん、僕のやってることも


自己表現という奴なんだろうと思う。


一応は、誰でも見られるし、見られることを前提にしてるわけだし。





こうやって書くと、なんか自分を含めちゃって


おこがましいのだけど


表現することって


この世界から、何かを感じて


感じたものを切り取る


まだ、かたちになっていない


漠然としたイメージ、切り取った想いがある。



その想いを、言葉で並べて文章にするのか


音を連ねて音楽にするのか


色をかさねて、絵にするのか



僕には才能なんてものは微塵もないから


結局、この日本という国では


ほぼ全員が扱える、文字を選んだわけだけど


こんな状態になってる。




「想うこと」に関しては


自分の心を扱う作業だから


才能はあまり必要ないと思っていて


ちょっと気を落ち着かせて周囲を見たり


自分の気持ちを丁寧に紐解いてみたり


生きてきた経験を利用できるし


角度をちょっと変えるだけでも違うし


だから、僕はそこに執着した。



ただ、やっぱり表現する方法の段階になると


教育の有無とか、才能とか


関係してくるんだろうなって思う。



想いを的確に捉えれて


匂いごと、ごっそり切り取る才能


音でもいいし、言葉でもいいけど


本当に憧れる。





たとえば、音楽


世界から想いを言葉で切り取った歌詞があって


その歌詞という言葉たちから、その背後にある想いを感じて曲をつくる。


もしくは


世界から想いを音で切り取った曲があって


その曲という音たちから、その背後にある想いを感じて歌詞をつくる。



もちろん、曲と歌詞の関係に、誤読や誤解もあったりして


それを含めて、


言葉と音たちから、その背後にある想いを感じて、声に乗せる。



才能は想いを言葉に、想いを音に


そして、すべてを乗せた声に必要で


努力は、想いを感じることに必要で


3つが1つの表現になって、人を感動させる。


僕は音楽を、こんな風に考える。






まぁ、なんでもいいから


僕は日本語をちゃんと覚えるべきだ。


多少間違いがあっても


意味くらいは伝たわらないと、どうしようもない。




前回のことを含めて考えれば


想う努力と、表現する才能


外国では逆なのかもしれない。


日本人は想うことにかけて、伝統的な背景があるし


僕の考え方も、どこかで伝統の影響を受けているのだろうか。