浪人向けの仕事の予習で「平家物語」の「敦盛の最期」を今日久しぶりに読み直しました。

 

もう泣けて泣けて(笑)。

 

高1の夏休みの古典の宿題が「祇園精舎」、「敦盛の最期」、そして地元ゆかりの「忠度の都落ち」だったことをはっきりと思い出した次第。

 

忠度が一の谷に向かう時に藤原俊成の屋敷に立ち寄って、世の中が治まったら勅撰和歌集が編まれるだろう、その時には自分の和歌を入れてほしいと言い残して、鎧の隙間から巻物を取り出して渡します。

平家が滅んだのち、千載和歌集に「読み人知らず」として入れられたのが「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」。

「ながら」は大津の「長等山」との掛詞です。

京阪京津線の上栄町駅から大津日赤を挟んで北側にあるのが長等山。

ここは自分が生まれた病院でもあり、長等公園は幼稚園の遠足で行ったりしていましたので、「そうか、あそこなんやね」と納得。

 

大昔の大河ドラマ「新平家物語」では若き日の中尾彬さんが忠度に扮して、早速と白馬に跨って去っていかれたことを覚えていたので、「あ、あれやな」と思ったり。

 

「平家はええなあ」とうっとりしたことも覚えていますし、戦のむなしさも15歳ながらに感じ取ったという意味では上質の平和教育でしょう。

 

「一谷ふたば軍記」は歌舞伎でも文楽でもよく拝見することになりますが、「敦盛の最期」を読んでいればこそわかることがいろいろ。

 

高1の夏でも読めるレベルですし、この3段を授業ではなく自分で読ませるというのはちょっとすごいな、と仕事柄感心しています。

 

東洋史に進んだのに世界史の募集が無くて国語の教師になって、予備校でも古典を教えているルーツの1つはこの体験です。

あと1つは小6の時に全部暗記させられた百人一首。