このニュース記事を見て、あぁ、始まったなぁ、という感想を抱いた。

-「恋愛は加害行為」「リスク高すぎ」若手男性の会話に絶句-
https://news.livedoor.com/article/detail/31030433/


若者の間でこんなやりとりがあったらしい。
告白って相手に踏み込む必要があるから、その時点で加害じゃない?」
「断らせるのも負担だし、今の時代リスク高すぎて手出せないよね


このやりとりをしてたのが、若年男性とのこと。
私は最初、女性が「告白されるのってもはや加害じゃない? 断る負担とか考えてほしいんだよね」って言ってるのかと思った。
ところがどっこい、男性の方が「告らない方がいいよね、恋愛ってハイリスクだし」と言っているのだ。
ついに男女の断絶が目に見える形にまでなったかぁ、と感じた。


興味深いのが、このやりとりにおいては「断られることそのもの」を男性はあまり気にしておらず、加害することを気にしているという点。
つまり、男性が恐れているのは「告白が失敗すること」よりも『加害者扱いされること』だということ。
それってつまり、加害者扱いされるリスクを回避するためなら、恋愛……異性と関りを持つことは捨てれるということなのよね。


そもそもこの潮流の走りは出生率の低下からだと私は思っている。
以前少子化について調べたときに知ったのだけど、出生率の低下って結婚数の低下と相関関係にあるらしい。
ウチは子供いないけど、結婚してる夫婦の子供いる率っていうのは実は大きく変わってなくて、子供の数が減ってるのは結婚する人が減ってるからだとか。
結婚は必要ないと考えてる人が男女共に増えてるそうです。


そして今訪れてるのが、若者の結婚離れの次、若者の恋愛離れ。
ただ、これはデータがないので集めた情報の肌感覚でしかないけど、恋愛離れは男女共にというよりは、男性に顕著な気がする。
つまり、恋愛したい女性がいても恋愛したい男性がいなくなってきてるのでは、ということ。

その理由というか原因というか、要素はけっこういろいろあると思うんだけど、男性のリスク回避指向がかなり急激に上がっている気がする。
リスクに対して敏感で、リスクを回避することにフォーカスすることが多く、安全を優先する行動理念を持つ男性が増えてきた、ということ。
それはつまりどういうことかというと、リスクそのものが増えてるということでは、と思ったのですよ。
男性のリスクだけが、やけに増えてきているということ。

男性の安全が急速に減っているということ。


例えば、集団の中で女性が「なんかあの男性怖いかも……」と言った場合、その男性の行動や言動の裏付けがなくてもほぼ全員がその男性に対して「こいつなんかやったんだろ」と思うでしょう。
逆に集団の中で男性が「なんかあの女性怖いんだよね……」と言った場合、なんなら言った男性の方がバカにされたり妄言による加害だ、みたいなことになりかねないことが簡単に想像できる。

そういう状況になることが予想できるとき、男性がそのリスクを回避するためにとれる行動はなんだ? と考えたら、女性と関わらない、というところに行きつくんです。
もちろん全ての男性がそう、というわけではない。
ただ、そうじゃない男性、つまりリスクを承知でも動ける男性って、要はコミュ力のある男性だと思うんですよ。
コミュ力があるということはつまるところ味方を作ることができるということでもある。
集団の中で味方、仲間、友達がいれば、女性が「あの人怖い」と言っても「いや、あいつがそんなことするとは思えない」という認識が生まれる。

しかしコミュニケーションが苦手な男性が相手だと、同じ状況でもその男性の味方になる人が男女共に少ないのではないか、と私は考えている。
そして(主にウチの会社の男性がリサーチ対象だけど)コミュニケーションが苦手な男性はけっこういる。
厳密には味方が少ないというか……これは酷いことかもしれないけど、そういう人なら「加害者に仕立て上げられてもまぁ仕方ないか」という風に見なされるのでは、という感じ。


この結婚離れや恋愛離れの流れが生まれ始めたころから顕著なことがもう2つある。
一つは、男性向けのポルノの進化がすごいこと。VRとかね。
もう一つは、女役をやる男性、つまり男の娘、女装男子が増えてきたこと。
増えたというか、市民権を得つつあるということ。

私この流れに覚えがある。

オタクがある時期から急に市民権を得てきたときと似てる気がする。
そう思って調べてみると、動画でもマンガでも風俗でも「男性が女の容姿や振る舞いをして男性を相手にする」というのがとても増えてることがわかった。
男性と女装男子が平日日中の秋葉原を手つないで歩いてるのも見かけたし。
なんで女装男子とわかったというと……トランスジェンダーは女装のプロなんで。

服のチョイスや足の形、歩き方、首、全体の雰囲気なんかでけっこうわかります。

女を装うってホントにとっても大変だからね。


恋愛離れとは少しステージが違うけど、実はDV被害って男性の方が多かったりするし、女性による男性への性加害ってのも実はけっこうある。
けっこうあるということは数値を見ればわかるんだけども、でも目にする機会が全然ないんですよ。
それって、さっき書いた部分と符号してて、
「男性が被害の声を上げてもほとんど真に受けてもらえないどころか二次被害に遭う可能性が高い」
つまり誰も助けてくれないから、自衛するしかないってなるんだと思うんです。


とはいえ私の周りの若い男性たちも彼女いる人はそこそこいるので、あくまでも傾向でしかないとは思うのだけど、話を聞いてるとどうも「恋愛」というよりも「同志」という感じが近いような気がする。
男性が女性をエスコート(おもてなし)するような感じが一切なくて、互いに対等というか、カップルというよりも「仲間」みたいに見えるんですよね。

逆に私に近い年代の人たちは、男性が女性をエスコートするのがスタンダードという風に見える。
お金と、接待力とでも言うのだろうか……私にはどちらもないのでうまく言えないのだけども。
そう、だから今の若者って、パートナーの男性にそういうステレオタイプなもてなしを求めてないみたいなんですよ。
そういうステレオタイプなもてなしを男性に求める女性は、どうもパパ活をしているらしい。


確かに若年男性でお金持ちはあまりいないと思う。
若者のお酒離れたばこ離れ車離れって、あれほぼ男性を指してますしね。

※逆に女性の飲酒、喫煙、運転は増えているように感じます。


代わりにというか、若い男性は料理できる人が多いとか。
まぁこれも傾向にすぎないですが、そういう傾向が目に見える形にまでなってきたというのは、何かしらの大きなうねりの始まりなのではないか、と私は考えています。

いずれにしろ私はこれからお金持ちになることはできないだろうし、マッチョにもなれないし、車もアウトドアもスポーツもまったく興味ないので、お節介なおかん、というポジションでいこうと思ってます。
それしかできないし、自分以外の人間にはなれませんしね。

 

志村貴子というマンガ家をご存知だろうか。
放浪息子、青い花、どうにかなる日々、というタイトルの方がおわかりになる方が多いかもしれない。
これらのマンガの作者が、志村貴子です。

放浪息子はトランスジェンダーがテーマにあり、

青い花は同性愛がテーマにあり、

どうにかなる日々もLGBTやちょっとマイノリティな恋愛や異性との関係がテーマにあった。
私は放浪息子と青い花がとても好きで、青い花は特に好きだった。
このころの志村貴子の絵はとても美しくて、構図や描写の仕方もとても良かった。
お話もよかったけど、絵そのものもよかった。


が、ある時期から劇的に変わってしまって、最新作の「ハツコイノツギ」という作品を読み終えて、大変胸糞悪いのでこれを書いている。
本当にがっかりしている。



まず、以前の作品と比べると明らかに作画に力が入ってない。
1ページにただの真っ黒なコマを三つ並べてその中に吹き出しだけいれる、みたいな描写が少なくない。
以前と比べて背景がスカスカ。
私は絵を描けないので大層な事は言えないが、以前の絵がスタンダードだとしたら、どうしてもただの手抜きに見えてしまう。


構成もかなり悪い。
どう悪いかと言うと、シーンが飛びまくる。
キャラクターの描写が無く背景と吹き出しだけで話が進み、話が切り替わったときに「描かれてない出来事がたくさんある状態」で続くのだ。
後からキャラクターに喋らせたりとかで説明は入るんだけど、あまりにもぶつ切りすぎるように感じてしまう。

この人は元々キャラの視点を切り替えながら物語を描くのだけど、それがあまりにもコロコロと切り替わる上に注釈がなく時系列通りでもないことがあるので、一体いつの誰の話なのかがわからなくなる。
これは「大人になっても」という作品で顕著だった。
とてつもなく読みにくかった。
いっそのこと「一方そのころ○○は……」とか入れてほしいくらい。
ぶつ切りな上に短期間で視点が変わるので、まじで何がどうなってるのかわからなくなる。
私はけっこうたくさんマンガを読んでいるけど、ここまで読みにくいマンガは正直珍しい、というくらい読みづらい。


と、ここまでならまだ何回も繰り返し読めばわかるのでいい。
私が一番がっかりしているのは、話が全然おもしろくないこと。
おもしろくないだけならまだしも、なんというか、女性の嫌な面を延々と描いてそれが男性に許されてるという結末の、なんだろうな、フェミニストの思想書みたいな、そういう嫌な圧を感じる気がするんだよね。
ただこれは私が結婚とか異性との関係性を神聖視する思想が大嫌いだからかもしれないけども。



放浪息子は自分の性別に対する悩みがずっと主題にあった。
青い花は自分の性的嗜好に対する葛藤と思案が常にあった。
娘の家出はルッキズムに対するポジティブなアンチテーゼがあった。

大人になってもも一応同性愛がテーマだけど、それが不倫とがっつり絡んでて、いや、がっつり絡んでること自体はいいんだけど、不倫=罪悪という圧をこれでもかと押してくる感じがもうなんか、控えめに言ってもうざすぎる。

最新作のハツコイノツギはもうなんか……いや、ある意味リアルっちゃリアルなんだけど、主人公の女性が本当に無理。
これ真面目に誰にも読んでほしくないからネタバレ書くけど、自分のコンプレックスが中学生の頃に一回失敗した告白にだけ由来してて、そのせいで旦那のことはしょっちゅう疑うわ妄想捗らせて家出するわで迷惑かけておきながら、他者から攻撃されても反撃しないで傷ついてそれを最終的には他者(旦那や他人)が代わりに報復する、みたいな感じで最悪。
しかも終盤で、中学生の頃告った相手が実は自分のこと好きだったと、自分の結婚式に来て気づいたとか同窓会後に酒の勢いで言われて、そんなことでコンプレックスが消えて今度は父親の昔の浮気を執拗に責め立てて善人ぶったかと思えば「夫婦っていろいろあるんだね」みたいにわかった感出して無事旦那の子を妊娠して終了。

ゴミすぎる

まじで無理、本当に心の底から軽蔑するレベルの気色悪さ。
よくこんなもの描いて金もらえるよなと思ってしまった。
この作品が好きな人いたら申し訳ないけど、批判する言葉も見つからないくらい嫌いだわこれ。


本当に志村貴子にはがっかりした。
もうたぶんこの人が今後出す作品を読むことはないだろう……
何を描きたいのか、何を伝えたいのか、まったくわからなくて気味が悪い。

もし今後志村貴子作品を読む人がいたら、娘の家出という作品の前と後でまったく違うということを覚えておいてほしい。
3巻から絵柄が変わるとかそういう次元の話ではなく、中身がまったく違うから。

 

一夫一婦制、というか、婚姻制度とか貞操観念とか不貞行為というものについて何年か前からよく考えている。
何回か記事にしてるけど、今もずっと考えてるし、新たにわかることや実感することなんかもあって、まだまだ全然書き足りない。
しかし、上手く言語化できてない部分も多い。
が、表題について言えば、結論はある。


一夫一婦制そのものは良くも悪くもない。
一夫一婦制を絶対視するのは悪い。


というもの。
加えて言えば、結婚(婚姻制度)を、相手を拘束したり束縛したりする道具にしてる文化も悪いと思う。
そもそも婚姻制度って、昔の為政者が民衆とか土地を管理するのに都合がいいから作った制度なんじゃなかったっけ?
それに宗教の洗脳が入って神聖視されるようになったとかじゃなかったっけ。

私が言いたいのは結婚は悪だ人生の墓場だとかそういうことじゃない。
結婚を人生の墓場にするような観念をやめろ、ということ。
一夫一婦の婚姻は当たり前のスタンダードじゃなくて、そのスタイルが合ってるという人たちが選択する一つの形で、それ以上でもそれ以下でもないと認識した方がいいんじゃないかってこと。


なぜそんなこと思うかというと、おそらく過半数の人が不倫や浮気の経験がある、と私が感じたから。
そしてそれは男女問わず「その人にとって必要だからしている」という風に感じたから。
なぜ必要なのかは長くなるから今は書かないけど、浮気や不倫などのいわゆる不貞行為と呼ばれるものって、パートナーへの情や思いやりが無いからするわけではないと思ったのだ。
ましてや、不貞行為をしない=善人で誠実、なんて式は成り立たない。
つまり、個人を認識するときに、その人が誰とどんな風に性的な関係や感情的なつながりを持っているかを見て、それが『一般的にどう評価されているか』という基準を持ち込むのは愚かだと思うということ。


例えば、パートナー以外にセックスをする相手が3人いるとして、それが理由でその人を「ロクデナシのクズ」と私は判断しない。
が、酒に酔うのが好きで頻繁に泥酔して暴れたり物を壊したり誰かにケガさせてるけどパートナーとしかセックスしない、という人がいたら私はその人を「クソったれのゴミ」だと判断する。
誰が誰とセックスするか、ということに歪んだフィルターを何重にもかけて他者を否定したり拒絶したりするのは、まぁその人がしたくてしてるなら別にいい。
が、それが『正しいこと』みたいにまかり通ってるのが気に入らない


と思った理由の一つが、夫婦仲や家族仲が良い人たちと、そうでない人たちを見比べることができたから。
もちろん性的な要素だけで判断できることではないけども、ちょっとした法則がある気がしたのだ。
その法則を生む要素を大きな枠で見ると、要は「パートナーの自由を奪わない」ことと「負い目を背負わせない・背負わない」ってことなんだと思う。

パートナーが自分以外の誰かとセックスしてもOK、とオープンにしている夫婦はまだ少ないみたいだけど、パートナーが自分以外の人と親密な関係を築くことに「否定的ではない」夫婦は、案外仲が良い
もしくは、相手のそういったアクションを完全にうかがい知ることができない場合も、仲が良い。

これって、つまるところ「嘘を暴かない」とか「不明瞭な部分を問い詰めない」とか、そういうことなんだと思う。
一見すると情が無いとか不誠実に見えるようなことなんだけど、逆にこれ、情が有るからできるんだと思うんだよね。
ある種の信頼なんだと思う。

だから、パートナーが自分以外の人と性的なつながりをもっていることに対して黙認している状態だとしても、黙認(否定的)と黙認(内心では容認・承認)では態度が全然違うんだよね。
その態度の違いがパートナーシップにかなり大きく影響して、不仲になったり仲良くなったりを分けるんだと思う


じゃぁつまりどうすりゃいいのよ、という話なんだけど、やることはシンプル。
良し悪しで相手の行動を判断しなければいい
あとは、期待をしないこと。


期待って、良い言葉じゃないのですよ。

願望や欲望を無言で押し付けて、そんな無茶な要求に応えたかどうかでジャッジするための悪行だと私は考えている。

ちなみに期待は相手に向けるもののみならず、自分に向けるのも良くない。
期待しなければ感謝がしやすくなる。
感謝ができると相手を好きになれる。
相手を好きになれたら、自分由来ではないもので相手がハッピーになっても「良かったねー!」とできるようになる。
そしたら自分が何も気負ったり背負ったりしなくてよくなる。

私は、誰かを好きになるっていうのは、その人がハッピーでいられるようにと祈れる状態になることだと最近は思ってる。
祈りってとても無責任だけど、それくらい自分本位じゃないと「誰かを好きになる」というのは難しいことになってしまう気がする。

 

 

生き物は多種多様で、誰一人として同じ存在はない。

自分には自分だけの価値がある、と皆が思いたいはずなのに、誰かと親密な関係を築くときになぜ「一夫一婦」という一つに形にだけ限定するのか。

まったく生き物としての性質と合っていないのに、それしかないと思い込んでる、思い込ませているのは、悪逆非道以外のなんでもないと私は感じている。

 

改めて書いておくけど、私は「一夫一婦制が悪い」と言っているわけではない。

一夫一婦制でうまくいっている夫婦もいるし、結婚前に一夫一婦制にしようね、と夫婦で話し合ってそうしている友人もいる。

私が忌み嫌っているのは『選択肢を奪うこと』と『選択肢が無いと思い込ませること』だ

もし他者からそういった圧を感じた場合は、思い出してほしい。

相手が自分に対して『期待という非道な行い』をしているのではないか、と。

愛について他の人の意見も聞いてみたところ、思いのほかいろんな人が愛について考えてることがわかった。
そして、愛という言葉の認識がかなり千差万別だということもわかった。

私はどうも愛というものは「絶対的承認と信頼の証」みたいなものだと思っているようで、それを自分に向けることにフォーカスしてる、という感じぽい。
まず自分を承認して信頼すること(自分を愛する事)ができてから他者を承認して信頼する(誰かを愛する事)ができる、みたいな順番がある一種の……なんだ、資格試験みたいな? そんな感じなんだな、ということがわかった。
愛とは対自分へ向けるもの、という認識。
これと同じような感覚の人がいるらしいこともわかった。


そういった「証明」のようなものではなく、愛という「現象」とか、愛という「状態」とか、愛という「立ち位置?方向性?」みたいなものだと認識してる人もいるらしいことがわかった。
そういう認識もあるのか、とは思ったのだけど、これがまったくピンとこない。
おそらくその人たちは逆に私の愛に関する考察はピンとこないのだろう。
独りよがりの自己愛うんちくに見えるのだろうと思う。

それはそれで事実だとも思う。
私はとにかく「自分!」にフォーカスしてるんだということがわかったし、そのためにおそらく他者をないがしろにしていて、それを「まず自分を愛する必要があるから仕方ないね!」って思ってるんじゃないかなと思った。
かといって、それにダメ出ししたらそれは自分を愛せてないことになるんだよな、とか考えるともうね、なんか、愛って意味不明なんですよね(笑)


たぶん普遍的に使われている愛という言葉は、優しさとか、思いやりとか、気遣いとか、心配とか、興味とか、願いとか、祈りとか、希求とか、共有とか、そういういろんな要素を包含してるんだと思う。
人によって愛という言葉を使うとき、愛に含まれるどのワードをその人が認識しているかで意味が変わるんだと思う。
だから愛という言葉を使うとき、同じ意味で認識している人はいないのではなかろうか。
自分が愛だと思ってるものを他の人がまったく同じように愛だと思うことはない、ということ。

そしてそれをいいことに世間一般で愛という言葉が「発言者に都合のいいように」便利に使われているんだと感じた。
主にメディアね。
あと私が嫌いなのが、愛という言葉を他者にネガティブな意味で使うこと。

「愛が無い」
「愛しているとは言えない」
「愛を感じない」

その愛ってなんなのか意味わかって言ってんの? 説明してみろよ、って思う。
こんな具体性のない曖昧で蒙昧な言葉を安易に使って他者に罪悪感を植え付けようとする行為にはまったく愛が無いのよね。
愛という言葉に疑問が生まれてから、愛という言葉を意識的にあまり使わなくなったような気がする。
とはいえ言葉の意味の認識が全然違っていたり、認識のすり合わせが本当に大変でしかも大量にあるんだということは、愛という言葉の考察で実感した。
たぶん、愛という言葉に翻弄されたり抑圧されたり裏切られたりという経験が愛という言葉について「なんなのおまえ?」っていう思いを生むんじゃないかなと思った。

私たぶん、意味不明なまま都合よく使われまくってる「愛」という言葉が嫌いなんだと思う。
こんな言葉がこの世に存在するせいで振り回されている人がいっぱいいると思う。
愛っていう言葉はたぶん全部他のもっと的確な意味の言葉に置き換えられると思う。
だから、愛という言葉なんて本当はいらないんだと思います。


前回愛について書きましたが、結局「愛という言葉」にフォーカスして書くしかできないくらい、愛というものがよくわかんないままでした、という話。
ただ副次的にわかったことが2つある。

・自分が間違いなく絶対的に正しいと感じているときは、それ以外の要素を排除して「他が間違っているから結局私の考えが正しい」と思っている場合が多い。
 →そしてその状態になってるときは自分が何かしらの負荷や負担や状態異常で「自己保身モード全開」になってる可能性がある。

・自分すげぇ! って思ってるとき、実際は思ってるほどすごくないことが多い。
 →自分で自分のことを大したもんだと思っているときは、自分の愚かさや矮小さや歪みが見えてないから、見えるものだけで結果的に大したもんだと思ってるに過ぎない。


ということは後から自分を見返せばわかるんですが、そのときは見えないしわかんないんですよね……
しかし大体周りは見えている。
その周りからのコメントやツッコミや指摘を、せめてはなっから突っぱねないで「一理ある……」くらいは受け取れるようになりたいと思いました。


余談ですが、猫を撫でてるときにふと、相手が喜ぶかなと思って自発的に行動して相手が喜んでいる(猫の喉のゴロゴロ、尻尾のがピンと立っている、執拗ににおいをつけてくる)のがわかるとき、そこに相互に「愛情」という不可視の概念が発生するのだろうか、と思いました。

私の行動と、猫の反応。

どちらも何かしらの見返りを求めてるわけでもなく、かつ大それたことをしている意識もなく、自己を犠牲にしているでもない。

自分がしたいようにして、相手もしたいようにしているだけ。

それなのにお互いになんだか嬉しい。

なんとなく、こんな些細でちっぽけで取るに足らないような名前のないものにこそ、愛という名前を使うべきなのでは、とふと思いました。

 

愛とはいったいなんなのか。
愛という言葉が示しているものはなんなのか。
愛という言葉を自分はいったいどう認識しているのか。

ずっと長いこと疑問に思ってる。
おそらく、ハッキリした答えにたどり着くことは無いだろう。
あまりにも曖昧すぎて、しかも流動的で、つかみどころがなく、定義をしても揺らぐ。
ここまで異様にハッキリしない言葉も珍しいのではなかろうか。


なのだけど、ふと今日お風呂に入っていたらその輪郭の一部が言語化できた。
なんか、お風呂入ってるときって頭の中がすごく整理されるのよね。

私の考える愛とは、

赦すこと
 -責めないこと

受け入れること
 -認めること
 -聞くこと

奪わないこと
 -選択肢を奪わない
 -機会を奪わない
 -可能性を奪わない

取り除くこと
 -苦痛を取り除くこと
 -不要な観念を取り除くこと

・守ること
・縛らないこと
・押さえつけないこと
・裏側を見ること
・奥を見ること
・伝えること

考えること
振り返ること
ときには戦うこと



これを読んで、誰かに対してこういう接し方を完璧にこなすのは無理だよ、と思った人は、正しい。
なぜなら私が書いたこれは、自分を愛することとは何か、だから。
自分に対してだって完璧にこなすのは無理だよ、と思った人は、正しい。
全部は人間にはほぼ無理。
極稀にできる人もいるかもだけど、そういう人はたぶん「愛とは何か……?」なんて考えることはないだろう、自然にできちゃってる人だと思う。


何が言いたいかというと、この中で自分にできてないことを他人にしようと思ってもきっとうまくできないだろう、ということ。
いつも常に側に居る自分にできないのに、他者に対してできるわけがない。
それが当然だと思うんだけど、世の中って「他者を愛せてようやく一人前」みたいな感じがある。
いつの時代のどこのバカがそんな絵空事を常識に落とし込んだのか、まったくもって遺憾極まりない。

自分を抑圧してる人は抑圧されてない他者を妬むのが自然。
自分を縛っている人は自由な他者を見たら自分と同じようにがんじがらめにしたくなるのが自然。
誰かを愛したいならまず自分を愛しなさいってそういうことかと思ったけど、意味わかってない人の方が多いと思う、私もここまで分解しないとわからなかった。


この中で私が特に重要だと思うのが「赦すこと」と「奪わないこと」
次に重要だと思うのが「取り除くこと」

赦すはもうシンプルに「責めないこと」だから、要は「まぁえぇよ」ってこと。
奪わないはちょっと複雑なんだけど、必要なものを取り上げない、ってことなんだよね。
だから「苦難」とか「試練」とか「挫折」とか「後悔」なんかは奪っちゃだめだと思うんだ。
それは必要なことだから。
それらについて「考えて」「振り返り」ながら「必要なら戦う」のが進化成長なのかなと思ってる。
だからこれらは「自力で向き合って制圧するもの」であって「奪い取ってなかったことにする」ものではない。


そこで出てくるのが「取り除くこと」だと思う。
苦難に向かう中での苦痛は取り除いていいと思うのよ。
頭痛の原因が寝不足なら、早く寝るという選択をするのは自分だけど、鎮痛剤で「苦痛だけを取り除く」のはOK、みたいな。
取り除くってのは、障害を排除する、という意味もある。
邪魔する何かがあれば取り除く、それは「悪い癖」だったり「自分を苦しめる考え方」だったり「親や、自分に影響力のある誰かから受け継いでしまったモノサシ」だったり。

と書いてたらこれ他者向けの愛にも適用できるなと思った。
「愛されていると感じる事象」って個々人でだいぶ違うというか、自分と同じってありえないと思うから、他者へ向けた愛って独りよがりでしかないのよね。
だから相手が受け取るか受け取らないかは別にいい、という状態じゃないと良くないと思った。
そうなるには、自分が十分足りてて、余剰を他者に分ける、くらいのマインドじゃないと難しいと思う。

だからまず自分なんだよね。

なので、汝の隣人を愛せとかの「他者に与えることが正しい」といった教えは大体欺瞞だということがわかった。

搾取する側が、搾取される側の献上を神聖な自己犠牲とすることで正当化するシステムなんだと思う。

他者への献身的な奉仕は、自分に必要なものを削ってまでやるものではない。

自分が必要な分、自分への愛を注いでから、他者へ分け与えるのでないとそこには歪みが生まれると思う。

 

だから、自己犠牲を愛情表現だと認識している人は気を付けた方がいい。

相手が自分のために時間やお金や選択肢を犠牲にすることでしか愛情を感じられないのであれば、それは愛ではなくただの搾取だ。

互いに犠牲を強いることを相思相愛と言うのなら、その先にあるのは疲弊と崩壊だけだと思う。

あるものを喜ぶ、持っているものを『分け』与える、そういうのが持続的な愛情表現であって、持続しない一過性の劇的なものを愛とは言いたくないと私は思った。