数年前の話で
とある映画監督さんの
インタビュー番組か何かを
何気なく観ていたら
 

撮影現場にいる
役者さんたちを
遠巻きに眺めながら
その監督さんが
 

「役者って、変な人たちだなぁ」
「何やってるんだろう?
 って昔から思ってました」
 

なーんてことを
サラッと語られていたのを
なぜか最近よく思い出す。
 

たとえ実話だったとしても
すべては演技なんだから
本人でもないのに
ホントにそうであるかのように
演じてみせる。
 

自分の現実ではないのに
泣いてわめいて
笑って恋するなんて

どうかしてるぜ!

と、
本音では感じているらしい( ̄▽ ̄)
 
 
えぇっ!?
そうなん!?
監督さんがそんなこと!!??
 

と、
素人鑑賞側の人間として
衝撃的
驚き発言だったな、と。
 

現場にいれば
画面の反対側には
スタッフがたくさんいるのも
わかってるし
 

準備も裏側も
何もかも把握している側だから
そう思って当然なんだろうけど
 

自分たちが構想を練って
役者さんたちとも調整して
演出もして協力しながら
演じてもらっているのに
 

演じている人たちを
「変な人たちだ」と
思ってるなんて(笑)。
 

そんな言葉が
撮影している側の
制作側の人から
出てきたことが
なんだかおもしろくて。
 
 
もちろん
鑑賞している側だって
つくりものだと知ってるし
演技だとわかってはいるけど
 

感情移入して
自己同一化して
入り込んで観ている時は
 

現実ではない
演技だということは
忘れてしまっている。
※自分は最近感情移入しないから
  あまり入り込めないけど( ̄ー ̄;
 

自分が実際に
経験しているわけでもないのに
一緒に泣いたり苦しんだり
ときめいたりできる。
 

ふとした瞬間に
「あ、つくりものだったな」
と思い出すと

熱が冷めてしまうことは
どこかでわかってるから
 

入り込んだまま
その世界に
浸ったままでもいられる。
 
 
 

なんだかな。
 
 
 

役者さんたちは
「なりきってる」だけで
よくよく考えたら
変なことしてると
 
 
意識してない人も
わかっててそうしてる人も
様々にいるんだろうな。
※役に入って周りが見えなくなる人
  反対によく見えてくる人等
 
 
 
仕事だからやってる
なりきると気持ちがいい
別人になれる
演技だと思うと楽
憧れの俳優さんがいる
いろんな経験ができる
ふだん言えないことが言える
実生活ではできない行為ができる
演じきって評価されると嬉しい
感化してもらえるとやりがいがある
伝えたい想いがある
残しておきたい表現がある
ただやってみたらできた
やってほしいと頼まれた
感動してもらえる
喜んでもらえる
ただ演技が好きだから
 
 
 
役者さんたちの
動機も目的も
私には想像できないほど
いろいろだろうけど
 
ウソの世界を創っている
ということには違いない。
 

その辺のところを
人によっては
「変なことやってんな~」
と受け取ることがある。
 

それなら
なんで人って演じるんだろう?
演技でする芸術表現って
どうして存在するんだろう?
 
 
なーんて考え出しても
正解なんて
人の数だけあるという
 
いつもの答えに
たどりつくことでしか
自分を納得させることが
できないまま
やや逃げ逃げ状態。
 
 
 
なりきる。
 
演じきる。
 
 
 
演じることで伝わることがある。
ものがたりで残せる想い。
なりきることで経験できること。
 
 
そもそも
役者をやっていない
演技をしていないつもりの
私たちだって
 
自分という幻想を
見事に演じて
創造の世界を生きている。
 

なりきっているつもりも
演じている意識も
さらさらないけど
(中にはわかっている人も)
 

宇宙でただひとつの
自分という存在に
なりきって生きている。
 
 
シナリオはすでに
できあがっている

という人もいる。
 

その通りに
動かされているだけだと。
 
 
シナリオがわかっていたら
全然おもしろくないから
ある程度忘れてしまって
わからないまま
生ききる人もいる。
 
 
そんなことを
ツラツラと考えていたら
役者さんって
ホント変だなって
思えてくるから不思議。
(スゴいという意味)
 

セリフも結末も
何もかもやることは
「わかっている」のに
 
全く自分ではないと
わかっているのに
 
あるセリフを
初めて聞いたように聞いて
 
ある行動を
初めてするかのように
やってのける。
 

その姿を観て
観客も感動したり
何か
インスパイアされたりする。
 

もしかしたら
「なりきる」姿を見せて
教えてくれているのかも。
 

なーんて想像も浮かぶ。
 

ホントは誰もが
なりたい自分になれる
 
誰もが
一瞬一瞬変化できる存在
 
固定化されていない存在
 
演じているうちに
望む存在そのものになれる
 
私たちは演じている存在
 
ほんとうは筋書きをシッている
 
観客という存在も
演じているという意識がないだけの
配役のひとつなのかもしれない
 
 
 
 
 
 
現実世界の
なにもかもすべて
うまくいったらイイのに
という人がたまにいる。
 
 
自分だって昔
そう考えることがあった。
 

望むことはすべて叶って
苦しいこともなく
 
楽しくてうれしいことが
ずっと続く世界。
 

なるほど確かに
そうだろうな
とは思うけど
 
 
この世界が幻想で
ゲームを楽しむための
映画のようなものだとしたら
 
 
何も起きない映画は
演者も観客も
まったくおもしろくない
ということに気づかされる。
 
 
本人だって
おもしろくないことは
実際にまず想像してみたら
簡単にわかる。
 
 
 
ほしいものがすぐ手に入る
周りには好きな人ばかり
都合のいいことしか起こらない
何の葛藤もなく人間関係が良好
怒りも悲しみも湧いてこない
心身とも健康で何の支障もない
何の事件も起こらない
疑問はすぐ解ける
邪魔なことも困難もない
予想なんてすぐできて
意外なこともないから
大笑いすることもない
ひっかかることも葛藤も
心配も何もない
 
 
 
そんな状態がずっと続く映画。
 
 
主人公も脇役もずっと平穏で
なんの不思議もない
何の課題もない舞台。
 

果たして観客は
観に行くのかな?って。
 

演じている人って
ホントに楽しいの?
 

自分が主人公だったら
ホントにしあわせ?
 
 
 
この世界は
映画のようなもので
 
 
みんなが手分けして
「自分」という配役を
ひとつの幻想として
演じているだけ。
 
 
それをみんなで上映し合って
キャッキャと喜んで
楽しんでいる。
 

コントラストを楽しむために
極端な苦しさや困難を
あえて求める必要はないけれど
 
荒波の中に在ったとしても
 

「この人たち、変だな…( ̄ー ̄;」

「わたし何してるんだろう…( ̄▽ ̄)」
 

という
「おかしみ」のようなものを
人生の中で一瞬でも思い出せたら
 
感動したり大笑いできる
舞台になるのでは?と
 
ホントはみんなどこかで
わかっている世界。
 
 

そんなことを
映画監督さんの発言から
無理矢理(?)引っ張り出してみた。
 
 
 
自分は自分になりきっている
 
あの人はあの人を演じている
 
誰もがそうとは知らずに
自分の役を演じている
 
職業としてではなくても
誰もが自分という存在を
在り方そのもので表現している
 
肩書きなど初めからなくて
その人の存在自体が
そのまま必要とされている
役そのもの
 
 
 

とりあえず
「なりきる」って
それだけで尊い。
 
 
なりきれば
そうなる!
 
 
 
…まとまらんなぁ。
 
 
お粗末(-_-)