「存在の本性を経験している」
~『チベットの死者の書』バルド・トドル~
 

 

NHKでもやってたのか

 

自分が読んだのはコレ上矢印

 


詳しくて
深くて
 
どことなく
なぜかありがたい。
 
 
『チベットの死者の書』って
結局なんなんだろう?
 

と思いはするけれど
なぜか
「あぁ、あのことをいっているのか」
と腑に落ちまくるところもあり。
 

チベット仏教は
勉強してないから
わかりようがないけれど
 

どうやら仏教系らしい
ということはわかった。
 

全くわからない、
ということはない。
 

死にゆく人や死者に向かって
聴かせると
落ち着いて死んで行ける類のものらしい。
 
成仏、というか
輪廻から解放される、感じ?
(テキトー!ヽ(`Д´)ノ)
 
 
 
もしくは生きている間に
読むだけでも
 
 
死後の働きが理解できて
安心して死んでゆけるもの
というか。
(死の恐怖にとらわれずに済む)
 

『法華経』のようでもある。
(いや、知らんけど)
 

自分のような宗教に疎い
いい加減な人間だけではなく
 

誠実な人ほど読むといいし
チベット仏教では
自然な流れなんだろうな
と思わせてくれる書だった。
 
 
 
 

以下
感想を何らかの文に
できそうにないから

気になった語句や文を
メモ代わりに抜粋して
置いとく。
 
 
 
 
★存在の本性への導き
 (おおいなるものの遊びのこと?)
★瞑想による意識解放
★不可思議な無限の光
 (アミターバ:阿弥陀如来)
聴くことによる解放の無上の教理
★原初のクリヤー・ライト(光明)
★本性が空、生来空である
★全善なるブッダ(普賢菩薩)
汝自身の意識は
 誕生も死もない不変の光

業(カルマ)とは行為の集積
 (何も誰も悪くない。悪も罰もない。
  ビッグバン以降の単なる連続性のこと?)

★存在の本性を経験しているバルド(中間状態)
★死はすべてのものにやってくる
★この世の人生を溺愛することに
 執着するでない
★どのような幻影が現れてこようとも
 それらを私自身の意識の表れ(影)として
 認識しますように

★私自身の思考形態の表れ
★汝自身以外のどこか外から
 やって来るのではない
それらはその中から発光して汝を照らす
★今の汝の体はカルマ(行為の集積)の性癖の
 心霊だけでつくられた体である
 (意識やスピリットのこと?)
★汝は切り殺され滅多切りされようとも
 死ぬことはない
★なぜなら汝の体は本当に空のものである
汝は恐れる必要はない
★汝自身の知性の構造の放射物である以上には
 存在しない
★これを認識すれば
 すべての怯えや恐怖は自ずから消滅させられる
★合一の状態に溶け込んで
 ブッダたる悟りが得られる
汝は本当に奇跡的な行為の力を授けられている
★しかしそれらは、いかなるサマーディ(三昧)
 (あるいは深い瞑想)の所産でもなく
 その力は自然に汝にやって来る
それはカルマ(業=行為の集積)の力の
  性質である

★汝は欲するところに
 一瞬の内に到着することができる
★わずかな時間の間に思うところに
 到着する力を持っている
★これらの幻影や変容の力を願うなかれ
 (すでに叶っているものだから?)
汝が欲望し汝が現すことのできない力はない
★心霊体である汝の体は首を切られ
 分割されようとも死ぬことはない
★本当に汝の体は空の性質のものである
★汝は恐れる必要はない
★「死の神々」は汝自身の幻影である
★空は空を傷つけることはできない
★「死の神」や「仏」、
 「悪魔」や「雄牛頭の死霊」
 のような現象は本当は汝自身の
 外側には存在しない
 (すべて人の観念がつくりだしたもの)

★『一瞬に著しい差異がつくり出される
  一瞬に完全な啓発が得られる』
★すべてを決定する思考の力
汝が欲するものは何でも生じるであろう
 (聖書を思わせるセリフ)

★あらゆる現象は本質において幻影である
 (すべては思い込みの産物)
★あらゆる実体は真実ではなく
  偽りである
★かれらは夢のようなものであり
  幽霊のようなものである
★かれらは無常である
  かれらは定まらない
あらゆる実体は私自身の心である
★この心は空虚であり不生であり不滅である
 (般若心経的?)
★バルド(中間状態)の中の意識は
 限られた種類の知覚の非凡な力を持ち
 その人に語られるものはすべて理解される
識る心の向きを変えることは
 くつわをした馬の向きを変えるのと
 同じように易しい

★子宮が善く見えても魅惑されるな
 それが悪く見えても反発を抱くな
★完全に中庸な状態にあることが
 技法のうちで最も深遠なものである
 (ジャッジせずにニュートラルでいる)
★私が永遠に存在することなく
 幻影的存在であるこの体を認識しますように
★あらゆる現象の畏怖や恐れや恐怖のすべてを捨て
 何が現れようとも
 私自身の思考の形態(かたち)として
 認識しますように
 
 
 
 
なぜか腑に落ちるところだけ
抜き出してみた。
 

チベット、好き。
詳しくないけど。
 

ポタラ宮、好き。
あの白いお宮を
ボーっと眺めるの最高。
 
行ったことないけど( ̄▽ ̄)
 
 
ダライ・ラマ14世、好き。
おもしろそうな人。
 

横尾忠則さん装幀の
『チベットの死者の書』下矢印

宗教心がなくても

聴かせてもらってるうちに

なぜか理解できそうな思想。

 

知ると知らないとでは

雲泥の差がありそうな書。

 

 

読もうとした本の近くで見つけて

読んだ本なり。

(こういうの助かる♪)←?

 


おそらく黙読ではなく
読経のように
声に出して読むこと前提の
文章みたいだから
 
 
音声で聴かせてもらうと
よさそう(チベット語?で)。