哲学の初歩の初歩。

この本を読んだだけで決して分かった気になってはいけないと思うけど、ポイントがわかりやすくまとまった、とても良い本です。ここから更に足を踏み入れたいと思わせてくれました。以下、備忘録です。

 

プロタゴラス(相対主義)

「人間は万物の尺度である」。価値観は人それぞれ。絶対的な真理なんてない。

普遍的な価値を、真善美に分類して考えれば、確かに善と美は人それぞれと言えなくもなさそうだけど、真については、人間の認識とは別に「正しさ」が存在するのではないかとも思うがどうなんだろう?「観念論」にたつと違う解釈が成り立ちうるのかな。

 

相対主義は、何も決められない無責任な態度、批判のための批判・詭弁、衆愚政治、につながる危険性があるだろう。価値観は人それぞれ、それは正しいかもしれないけど、それでも正しさを求めていく態度や対話は必要だろう。

 

ソクラテス(無知の知)

無知の自覚こそが真理(絶対的に真だと言える理想の何か)への情熱を呼び起こす。

魂への配慮:大切なのは単に生きることではなく、善く生きることである。魂を善いものにすることは知によって可能になる(知徳合一)。

何事も分かった気にならないことが大切。そして、せっかくこの摩訶不思議な世界に生まれてきたのだから、人生をかけてその真理を追求する好奇心は失わないようにすること。決して真理に到達することなどないのだけれど。

 

アリストテレス(目的論的自然観)

事物の本質(エイドス)は、個物に内在している(師であるプラトンのイデア論を批判)。

モノも人間も、全てはその本性の実現へと向かっている。

近代科学の成立前は、ものごとの変化・運動の原因を、そのものごとが有する「目的」に見出していたという点は面白い。動物の活動の場合、ある目的・意思があって動くといえるといえるので「目的」に原因を見出すのが妥当だと思うけど、無生物の運動・変化にも目的があると考えていたとは驚きです。当たり前って時代で変わるんだということをあらためて思い知らされます。でもそうなると、結局生物と無生物を分けるものは何なのか、「意思」とは何なのか、という問題に戻ってきてしまう。

 

デカルト(我思う、ゆえに我あり)

哲学も、数学と同様に、誰もが正しいと認めざるを得ない確実なことを「第一原理」として設定し、そこから論理的に哲学体系を作り出すべき。 

人間が認識できるものに限界がある以上、全てを疑ってかかると、結局自分の認識のみが存在のすべてという極論(観念論)に陥ってしまうようだ。疑う余地のないものは確かにそこにしかないけれど、それは人間側の限界であって、そこから議論をスタートすることで見えなくなってしまうものはないのだろうかと思ってしまう。精神や意識、自由意志というものの不思議さは認めるものの、唯物論のほうが自然に感じるなあ。

 

ヒューム(経験論)

神も過去の経験の組み合わせからできた、現実には存在しない概念(複合概念)に過ぎない。科学法則も経験上の産物に過ぎず、現実世界と一致しているかはわかったものではない。自我、神、科学など、すべての知識や概念は、人間が経験からつくりだしたものに過ぎない。

 「神」が経験から作り出した複合概念であることは理解できる。ただ、人間の外にある世界を記述する科学法則もこれまでの経験にすぎず絶対とは言えないと言われると、それは人間の認識側に限界があるからではないだろうかと言いたくなってしまう。もちろん法則も絶対とは言えないし変わりうるものだけど、法則が人間の経験とは関係なく存在すると考える方が全体の辻褄が合うというか自然じゃないのかな。。。

 

カント(批判哲学)

人間は経験から知識を得ているが、経験の受け取り方には、人間としての特有かつ共通の形式(例:空間・時間)があり、それは経験によらない先天的なもの。その共通の形式に基づく範囲内では、普遍的な真理を打ち立てることは可能。とはいえ、それはあくまでも人間という種にとっての真理に過ぎない(他の生物には他の真理が存在する)。真理とは人間によって規定されるもの。人間は人間の形式に変換されたあとの世界だけに限定して探求を進めるべき。

経験をどう捉えるかによるかもしれないけど、数学や物理などの学問は、人間が直接認識する世界観を越えて、世界を記述できているように思えるが、それも人間にとっての世界の中に閉じた話に過ぎないのか? 知性にはそれを超える力はないのだろうか?

 

ヘーゲル(弁証法)

対立する物事から新しい見識を見いだす方法論であり、またそれが社会を発展させていくという概念。対立する考えをぶつけ合わせることで物事を発展させていく(正反合)。

世の中螺旋的に発展していくという、ある意味楽観的な思想とも言える。いつも成り立つかは微妙だけど、でも大局的には成り立っているように思える。社会で生きていく上でも、極論に陥らず、批判から新しいものを生み出そうとする態度は大切だ。

 

キルケゴール(実存主義)

ヘーゲルの哲学を、今ここにいる個人を無視した人間味のない哲学として批判。私にとって真理だと思えるような真理。私がそのために生き、そのために死ねるような真理。そういう真理をみつけることこそが重要なのだ!

世の中の真実よりも、個人の生き方の指針、つまり、真よりも善が欲しい、ということかな。どっちかではなく、どっちも大切だと思う。

 

サルトル(自由の刑、アンガージュマン)

自由とは、何か正しいかわからないのに「好きにしろ」と放り出されてしまった不安定な状態。自由の刑という呪いを背負いながらも、それから目を背けずに自ら決断して強く生きていくべき。いっそのこと、人類を理想の社会、真理に向かって進展させる歴史という大舞台に立て!

人間、本当の自由には耐えられないのか。フィクションであったとしても、倫理や宗教に生きる目的を決めてもらった方が楽というのは分かる気がする。社会に貢献しよう、歴史を発展させよう、という思想はとてもすばらしいし決して否定できないが、全体主義・独善になりそう。

 

レヴィ=ストロース(構造主義)

人類の歴史って、本当に一つのゴールに向かって進展するものなのか。西洋中心主義の傲慢な思い込みでは。未開人の社会にも、驚くほど合理的・深淵な独自の社会システムがある。

確かに、人間が幸福または安定的に暮らすという意味で合理的な社会システムはその土地の自然環境なんかもあわせると様々な形態がありうるだろう。でも、ここまで資本主義・自由主義が世界に広がってしまえば、その中での合理的な社会システムは残念ながらある程度収斂されてしまったのかもしれない。多様性が失われ、ますますつまんない世の中になっているとも言えそうな気がする。

 

デューイ(プラグマティズム)

思想も実際の生活に役立ってなんぼ。人間の思考は「生きるための道具」にすぎない。

絶対的な正しさがないと思われる「善」を考える上では有用な考え方のように思える。ただ、役立つも多義的なもの。価値の間の二項対立がある場合、どのように解決できるのだろう?

 

デリダ(ポスト構造主義、脱構築)

音声中心主義(話し手を大事にする文化)への批判、解釈する側を重視(読み手中心主義)。書かれた文章、話された言葉では意図は決して伝わらない。各人が自分の真理を構築していけば良い。

一周回って、相対主義に戻ってしまった。

本当の意図と言葉の間には越えがたい壁があるのは理解できる。言葉は真実を説明するにはあまりに粗い道具だということだろう。でも、そのような言葉の限界性から、各人が自分の真理を構築すればよい、というところまでジャンプするロジックがよく分からない。言葉で意図が全く伝わらない訳でもないし。言葉をより正確な記述を可能とするよう進化させるべきということと思うけど、そういう改善では解決できない、言葉の理論的な限界というものが存在するのだろうか。

 

レヴィナス(他者論)

「他者」とは、私の主張を否定してくるもの、私の権利や生存に無関心であるもの、私の理解をすり抜けるもの、など様々な意味をあらわす抽象的な概念。不確定性原理しかり、不完全性定理しかり、どんな理論を構築しても、かならず「他者」が現れる!しかし、他者は私という存在を自己完結の独りぼっちから救い出してくれる唯一の希望であり、無限の可能性である。他者を殺してはいけない。

他者の概念が広すぎてどこまで有用な概念か疑問はあるものの、全く疑いようのない理論・真理の存在が原理的に否定された今、重要なのは、真理を求めて他者と対話を続けることというのは腹に落ちる。一周回って「無知の知」に戻ったということか。

 

バークリー(主観的観念論)

存在するとは知覚されること。

「存在する」という概念の由来は、「物質があること」ではなく、「精神が知覚できること」からきており、僕らの精神の知覚そのものが存在であると言わざるを得ない。

バークリーのいう純粋かつ一元的な観念論を信じている人はおそらくほとんどいないのだろうけど、物質の世界と精神の世界の2つが存在するという二元論を信じる人は結構多いのかなと思う。私自身は、物質の世界だけしかないという唯物論を信じたいとは思っているけど、だとしても精神って不思議なのは確か。なぜ物質の動きから意思が生まれるのだろう? 物理学の世界でも、物質というモノも、関係・つながりというコトで説明するようになってきているので、そもそも「存在」ということの意味をきちんと考える必要が出ているのだと思う。

 

フッサール(現象学)

僕たちは何から「ある科学理論は正しいという確信を得ているのか。それは「主観的な意識体験」(=現象)から始まっている。この現象からどのような思い込みが作られているか捉えなおそう。

ハイデガー(存在論)

そもそも存在するとはどういうことか?存在とは一体何に由来する言葉で、本当はどんな意味を持つ言葉なのか?存在について知りたければ、まず人間を知るべきだ。

ソシュール(記号論)

言語とは差異(区別)のシステム。単純にモノがあるからそれに対応する言語が発生したのではなく、区別する価値があるから、その区別に対応する言語が生まれた。言語体系の違い=区別体系の違い。価値観が違えば、物事の区切り方が変わる。結果、異なる価値観を持つ両者は、異なるものが存在する世界を見ている。区別する者がいなくなったら、それは存在すると言えるのか?存在とは、存在に価値を見出す存在がいて、はじめて存在する。

人間の認識からスタートするというのは、デカルト以来の哲学の伝統ということかな。区別する仕方は色々あれど、区別される物理的存在自体は、認識とは別にある、と私はどうしても考えてしまうのだけど、どうなのだろう?

最初に存在がなければ、価値を見出すことすらできないのでは?人間に区別されないことと、存在しないことは本当に一緒? 

 

全体の感想

疑いようのない真理というものが、科学の世界(真)、人間の生き方の世界(善)、審美的な世界(美)、の全てにおいて存在しないことはおそらく事実。その原因は、人間の認知能力、言葉、そして人間自身がこの社会の内部にいて外から見られる立場にいないという事実にありそうな気がする。でもだからといって、結局人それぞれだよねえ、とその追求を諦めるのも違うということだと思った。結局、役立てばいいよね、というのも一つの考え方とは思う。

 

実際、人間の知の営みによって、100%確実ではないけれど、その確実性は確実に向上してきたし役立ってきた。結局、この真実を追求する営みは、人類が存在し続ける限り続くのだろう。1000年後はどんな知が生まれているか、逆にどこまで進化していないのか、人間というウチから考える思想と、物質というソトから考える思考、これらの正反合がどう起こっていくのか?

 

決して知ることはできないけど、考えるだけでわくわくします。