街の家具屋にドライバーのKに連れて行ってもらう。

Kは英語が話せなかったが、毎日私の送り迎えをしてくれていて、

日用品などは私が何を必要としているのか理解できるようになっていた。

今回は異例の買い物なので、ザラに通訳してもらい要望を伝えてもらう。
 

 

 

Kが連れて行ってくれた家具屋には上質な木材で出来たヨーロッパ製の家具から、

オフィス用の棚まで何でも揃っていた。

しっかりしたものが良かったので木製の棚を選ぶ。

鍵がきちんと掛かるか確認し、値段交渉もKが行ってくれた。

 


商店やレストランなど大抵の人は英語は話せないし意志疎通は難しいのだ。

Kのおかげで通常より安くいいものを買う事ができた。

 

 

 

出来そこないのアリよりドライバーのKの方がよっぽど頼りになる。

彼はとてもやさしく誠実で私の我が儘にも付き合ってくれていた。

 

 

 

購入した棚は大きすぎて、車で運ぶことができなかったが

お店の人が、オフィスまで配達して組み立ててくれるということだった。

 

 

 

私とKは乗ってきた車でオフィスに戻り、

家具屋のお兄さんが別の車で棚を運んでくれ、

すぐに組み立ててくれた。

その時もネジが足りないなど、一筋縄ではいかなかったのだが、

新しい棚が出来上がった時には感無量の思いだった。
 

 

 

たったひとつ品物を手に入れるのにもこんなに労力がいるとは、心底疲れた。

棚が必要だと要請してから結局1か月近く経っていた。
 

 

この時ほど、日本の宅配システムや文具・日用品をネットから

簡単に注文できるシステムは本当にすごい!と感心したことはない。

当たり前になっていると気付かないことがたくさんある。
 

 

 

リビアでは一事が万事すべてこんな風なので、

その後必要なものは自分で買いに行くようになった。

なんとかアリに仕事をさせようとしたが、

何を言っても聞かないし聞き入れないのだった。
 

 

私が女だから甘く見ているのだろうか?

そうでなくても、頼まれたことはやろうとか約束を守ろうとか、

そういった考えはないのだろうか。

 

 

すべてがこのように進んでいった。

というより骨が折れることが多くて、

本題までたどり着くのに時間がかかり、思うようにいかないことばかりだった。
 

 

 

 

常識とは、ある考えや概念を、ある一定の人数で共有しているから常識となるわけで、

私の常識なんてものは彼らの常識とはかけ離れたところにあって、

そこを覆そうとしても勝てない戦いに挑んでいるような、

無駄な戦いをしているのと同じだと感じるようになっていった。
 

 

 

 

自分の常識は他人にとっての常識ではないということを、嫌というほど味わった。
 

 

もちろんそれが異文化を知り、

理解することの面白さであり難しさであり、

自分の考えていた世界がいかに小さいものかを思い知らされ、

脳みそが全開になるような体験なのだが、

ある一定の習慣や文化の中で、長い間過ごしてきてしまった者にとって

、自分とえらくかけ離れている習慣を持った相手や状況に自分を合わせ、

適応していくのには時間もかかるし根気がいる。

 

 

人間って、案外適用できない生き物なんだなと思った。

 

 

 

しかし旅行に来ているわけではないので、

一時的に彼らの常識や習慣に合わせているだけでは事は進まないし、

ビジネスは成り立たない。
 

 

リビアのように社会生活がある程度守られていることで、

人々はおおらかで良いと思う部分と、

人から向上心や成長意欲とか頑張って事を成しえた時の気持ち良さや達成感とか、

人の役に立つ喜びみたいなものを奪ってしまっているようにも思えた。

社会主義という制度の限界のようなものを見た気がした。

 

 

 

彼らの生活や文化を理解するようになるにつれ、

ささやかな生活や家族を大切にする素朴な生活の中にある喜びと、

また逆に発散しきれない不満や欲求を満たそうと、

もがいているような矛盾するエネルギーも感じるようになった。

 

 


 

それでも、純粋というかシンプルに生きている彼らは、人間らしい生き方をしているように感じられたのも事実だ。

戦後から高度成長期に移る前の物資が町に溢れ沸き立っていた頃の日本も、きっとこういう感じだったのではないかと思ったりした。

 



 
 
  つづく