私がリビアに渡ったのは、2008年春のことだった。
当時オーストラリアで、約2年半の留学生活を終えようとしていた私は、
「どうしても海外で英語を使う仕事を見つけ、日本に帰る前に自分なりに何かチャレンジして、人とは違う経験がしたい、自分にとって自信となるような経験がしたい」と思っていた。
私が滞在していた西海岸に位置するパースでは、ある仕事といえば日本人観光客相手のツアーガイド、レストランのウェイトレスなどがほとんどで、英語を使う機会は少なく、また日本に帰っても仕事の経験として活かせるものとは思えなかった。
専門分野でビザを取得し働くこともできなくはなかったが、しかし移民の国オーストラリア。
アメリカほどではないとしても、毎年移住目的でアジア、アフリカなどから大勢の人がやってくる為かなり激戦なのだ。
しかも現地の専門学校・大学で2~3年以上の修学が必要で(2008年当時)、オーストラリアで実施されている英語判定テストで高得点を取得しなければならない。
同じアジア圏でも中国や韓国の学生も多数、就業ビザを狙っていた。尚且つ、イミグレーションは毎年規定が変更し必ずしも取得できるというものではなかった。
中国やアフリカ、世界中からより良い生活を目指して移民するために人生をかけて来ている彼らと、日本にいつか帰るけど、その前に海外で生活して経験を積みたいなどと考えている私のような学生とでは、必死さも根性も動機もまるで違うのだった。
ある時これからどうしたものかと悩んでいる私を見ていた、日本人の友人の恋人であるカミルが、「叔父さんが建設会社を経営していて秘書を捜しているからやってみるかい?」と話をくれたのだ。ちょうど彼も短期間だが手伝いに行くという。
聞けば会社はインドネシアのジャカルタに本社があり、取引先である日本とも付き合いが長く、社長自身日本が大好きだとか。
ジャカルタか~。オーストラリアではないけれどここからはかなり近い。治安はあまり良くなさそうだけど、やってみる価値はあるかもしれないなぁ。
そんなことを考えながら、全く知らない土地で知っている人が誰もいない場所で働くことに、不安を感じつつも、突然ふって沸いた新しい機会に、少しドキドキしていた。
なんとなく気が乗りかけている私の様子をみて、カミルが社長に私の話をしてくれた。
そんな話があってから1週間くらい経った頃、カミルから連絡があり社長が近々オーストラリアに行けそうだから、その時会おうということになったのだ。
友人の恋人であるカミルは誠実で信頼のおける人物だし、長く日本人の彼女と付き合っていて、日本にも来たことがあり、私達の文化もよく理解してくれている。
彼はとても頭の良い好青年で、パキスタン出身のイスラム教徒。
今でこそオーストラリア人となっているが、祖国では大地主の息子だ。
イギリスのボーディングスクールを卒業し、オーストラリアの大学で2つの学士を取得した後、オーストラリアでビジネスを展開している。いわゆる青年実業家。
祖国パキスタンに家族がいるが、年に1回帰省できるかできないか程度。
海外での生活が長ければ長いほど、現地にいる同じイスラム教徒との親交も厚くなる。
オーストラリアにもイスラム圏の人々が大勢住んでいる。横のつながりや結束が大変強い。
彼らは家族はもちろん、友人知人の面倒をみるのが当たり前だと思っているので、カミルの所には親戚やらその知り合いやらの若い学生や友人が、よく集まっていた。
そんな彼らと交流するうちに私にとって、イスラム教徒というとても縁の遠い存在が、身近なものになっていた。
皆とても礼儀正しく、ジーンズにアイロンをかけてしまうような世間知らずなお坊ちゃま達だった。
紹介してもらったカミルの叔父であるミスターシャーもパキスタン人で、若い時にインドネシアに移住し、以来30年以上に渡り一代で事業を発展させ、ジャカルタでは有名な大企業に育てあげたそうだ。
どんな人なのだろう。。。
もちろん英語でやり取りすることになるけど、大丈夫かなーなど、期待と不安が入り混じる。
最初の連絡があってからしばらくして、
「あさちゃん、ミスターシャーは別の仕事が入ってしまい、しばらくこちらには来れなくなってしまったよ」
とカミルから連絡があった。
仕方がないので、社長の予定が落ち着くまで様子をみることにした。
つづく