このところの当ブログで、『リチャード・ジュエル』(2019 クリント・イーストウッド監督)を取り上げています。

この映画は1996年「アトランタ五輪」のときに起こった爆破テロのときの実話を基にした作品で、事件が起こるのは、五輪記念イベント会場です。ここでコンサートに登場するのがケニー・ロジャースさんで、当時の映像も使われています。主人公の警備員リチャード・ジュエルさん(ポール・ウォルター・ハウザーさん)のお母さん(キャシー・ベイツさん。名演だったなあ!)がケニー・ロジャースさんのファンという設定だったかと思います。

アトランタ五輪は1996年ですから、この時期、ケニー・ロジャースさんは目立ったヒット曲はありませんでしたが、こういうイベントに登場するのですから国民的シンガーになっていたということですよね。日本でいえば、北島三郎さんとか、そういう演歌の大御所というような位置ですかね。

ケニー・ロジャースさんは1950年代から音楽活動を始めて、1967年には「ファースト・エディション」というグループを結成してヒット曲を出しますが、僕はこのあたりのことはよく知りません。1970年代半ば以降、ソロになってからのケニーさんの曲を聴くようになるのですが、そのときケニーさんは既に40歳ぐらいでしたから、もう大物感がありましたね。

僕はビルボードのポップ・チャートをせっせと記録していましたが、1977年の「ルシール」が5位、1979年の「シー・ビリーヴス・イン・ミー」(←いい曲です!)も5位、「愛のメッセージ」が7位、「弱虫トミー」は3位とこの頃トップ10の常連となっていったのを見ています。しかし、カントリー・チャートでは既にナンバー1を何曲も出していたのです。

ポップ・チャートでも人気を博したのは、やはり他ジャンルとのコラボで音楽性を広げたことが大きいです。いちばん顕著なのが、1980年、ライオネル・リッチーさんの書いた「レイディー」を歌って6週連続1位という自身最大のヒットを放ったことです。ケニーさんは「R&B畑のライオネルとカントリー出身の僕が、ポップスというフィールドで出逢うというアイデアだったんだ」と語っています。(この項、続く) (ジャッピー!編集長)