このところの当ブログで、『リチャード・ジュエル』(2019 クリント・イーストウッド監督)のことを書いています。

この映画は、1996年「アトランタ五輪」のときに起こった爆弾テロに遭遇、忠実に職務を果たしたのに、容疑者にされてしまう警備員の話です。実話を基にした映画にクリント・イーストウッド監督がつけたタイトルが『リチャード・ジュエル』という警備員本人のフルネーム。ここには、この義務や奉仕の精神に満ちた人物に対するリスペクトがあるような気がします。

リチャード・ジュエルさんは若くして亡くなっていますが、この「リチャード・ジュエル」という人がいたことを忘れてはならないんだとでもいうような思いが伝わってきます。一介の警備員、市井の人で、大統領やFBI長官のように歴史に名が残るような人ではないかもしれませんが、確かに「リチャード・ジュエル」という人物が存在したんだという証しを残したいというような。

思い出すのは、「津久井やまゆり園」事件の裁判です。以前も当ブログで書きましたが、裁判が行われる前に、ひとりの被害者女性の母親が「娘の名前を出してください」という訴えを出しました。それまでは、「被害者特定事項秘匿制度」によって公判では名前が伏せられていたのです。19人もの死者、26人が重軽傷を負った被害者の多い事件ですが、公判では「甲」とか「乙」と呼ばれていました。

亡くなったとき19歳だった女性も「甲A」と呼ばれていましたが、そのお母さんの訴えが横浜地裁で通って、法廷でも「美帆さん」と呼ばれることになりました。「甲とか乙とかいうものじゃない。娘が生きていた証拠を残したい。名前を出すことで美帆という存在を知ってほしい」とおっしゃっていたお母さんの気持ちは痛いほど分かります。思いをこめて「美帆」という名前をつけ、19年間大切に育てた娘が「甲A」なんて記号で呼ばれるのは辛いことです。

名前だって「記号」だという意見があるかもしれませんが、生まれたときからその名前で呼びかけ、育んだわけですから、親にとって名前はやっぱり「特別」なものです。「美帆さん」という名前で呼ぶことが存在の証しを残していると思うのは当然です。(もちろん、名前を伏せたいという方にも事情がおありだということは分かります)

なので、『リチャード・ジュエル』という原題タイトルをそのままに公開したのは、イーストウッド監督の思いを尊重したようで良いと思います。しかし、興行的にはあまりふるわなかったらしく、「タイトルが内容をアピールしていない」という意見もあるようです。確かにそうかもしれません。イーストウッド監督作品というだけですぐに映画館に走る僕のような映画好きならいざ知らず、たまに映画を観る人にとっては「作品を選ぶ」には不親切だったかもしれません。

同じように実話を基にした『ハドソン川の奇跡』(2016 クリント・イーストウッド監督)も、原題はSullyで、トム・ハンクスさん演じる人物の名前ですが、これはこのまま「サリー」とすると日本人は女性名前を思ってしまうと判断し『ハドソン川の奇跡』となったのでしょう。『リチャード・ジュエル』に何かサブタイトルを添えれば良かったのかとも思います。「リチャード・ジュエル メディアリンチに遭った英雄」とか。  (ジャッピー!編集長)