ひとつ前の当ブログで、6月23日の沖縄「慰霊の日」追悼式でキシダ文雄があいさつしているとき、会場の外から「キシダ、帰れ!」、「沖縄を戦場にするな!」というシュプレヒコールがあがったということを書きました。

沖縄の人にとってみれば、言葉と裏腹に「軍拡」路線を突き進む首相は、相変わらず沖縄を「取り残し」、「犠牲を強いる」ようにしか見えません。「最前線」にしようとしているのですから、第二次世界大戦のときと同じです。声をあげるのも当然です。

当ブログ6月18日に、北山修さんが1971年に出した『さすらいびとの子守唄』(角川書店)という本のことを書きました。この本の中に、「日本は沖縄のふるさとか」というタイトルで、北山修さんが1969年の夏に沖縄に行ったときのことを綴っています。フォーク・クルセダースの解散後、北山さんは海外含め、あちこちに旅に出たのです。

まだ日本に「返還」する前の沖縄で、多くの若者たちと会った北山修さんは彼らの使う日本語と北山さんの関西弁が通じずもどかしかったこと、だけど、音楽のことなど、簡単な英語と日本語が奇妙にからみあった会話で心が通い合ったといいます。

そして、彼らに「今、一番行きたいところはどこだい?」と訊くと「ニューヨーク」、「サンフランシスコ」、「ロンドン」と答え、「東京」や「大阪」と口にする若者はいなかったといいいます。アメリカ的なものに囲まれ、その文化をたっぷり吸いこんでいることをあらためて感じたという北山修さんは、「復帰」が近づいての彼らの気持ちを想像します。たまたま生まれた土地が昔、日本だったことがあるという理由だけで「復帰」することをどう思っているのか? 彼らにとって、日本は本当に「帰ってくる」ところなのだろうか、と問いかけます。

北山さんは、こう書いています。「復帰はみんなの夢に描くふるさとへ向けて、よりよい状態を約束できるものでなければならない。しかし、誰が約束できる? それじゃあ、あんまりじゃないか」と。そして、53年前に書かれたこの言葉は今もそのまま当てはまってしまうのです。

この本が書かれてから53年、ずっと「沖縄」には米軍基地が押し付けられ、そのために自然環境も破壊され、いろいろな意味で「危険」と隣り合わせの生活を強いられています。そして、「重く受け止め……」というだけの首相。沖縄は日本に「裏切られ」続けた歴史が延々と続いているのです。

あれほど沸いた1972年の「沖縄復帰」ですが、それ以後も日本は沖縄に何をしてきたでしょう。憧れの「ふるさと」には程遠い本土の仕打ちに、53年前に北山修さんと語り合った当時の若者たちは今、どんな思いでいるのでしょうか。(ジャッピー!編集長)