このところの当ブログで、『赤い鳥逃げた?』(1973 藤田敏八監督)で脚本を共作したジェームス三木さんと藤田敏八さんを取り上げていました。かつて俳優座養成所の同期生で親しかった二人ですが、藤田さんが脚本を改変したりで衝突したのです。

元々は歌手だった「ジェームス三木」という名前の由来には諸説あるようです。三木さんが前座をつとめていたデイック・ミネさんが、名付け親であるとか、「税務署行き」(=ゼ―ムショユキ)をもじっている(←ちょっとムリがあるなあ……)という説もあります。興味深いのは、小津安二郎監督が戦前に自作の原案等に変名として使った「ジェームス・槇」と似ていることです。のちに脚本家となる運命が名前に宿っていたかのようです。いずれにしてもテイチク・レコードは同タイプの「フランク永井」さんの対抗馬として売り出そうとしてつけたのでしょう。

そして、三木さんの俳優座養成所時代の同期生、藤田敏八さんの本名は「藤田繁夫」です。ところが、監督デビュー作『非行少年 陽の出の叫び』(1967 藤田繁矢監督)で、完成した作品を試写で見ると「藤田繁矢」となっています。どうやらタイトル文字を書く人が「夫」を「矢」と書き間違えたようです。気がついたプロデューサーが飛んできて藤田さんに謝ります。せっかくの記念すべき監督第1作で監督名を間違えたのですから申し訳ない気持ちだったのは当然です。ところが、藤田さん、「それも面白いじゃないか」と気にしません。

さらに、その後、藤田さんが交通事故を起こし顔中血だらけで帰ってきたことがあったのです。それで占いに凝っていた当時の奥さんが「名前が悪い」と、病院で抜糸してもらった日に「繁」から「糸」を抜いて「敏」とし、「矢」も末広がりの「八」に変えさせたそうです。結果的に「繁夫」→「繁矢」→「敏八」となったのです。たしかに、その後の監督としての活躍を見ると改名のご利益があったのかもしれません。名前の話でもうひとつ。三木さんと藤田さんが衝突した『赤い鳥逃げた?』にフォース助監督でついたのが相米慎二さん。それまでテレビ映画の現場にいた相米さんを長谷川和彦さんが引っ張ってきて、その後、日活ロマンポルノの助監督もつとめます。『女高生100人 ㊙モーテル白書』(1975 曽根中生監督)では脚本にも加わっていますが、相米さんのペンネームが「杉田二郎」なのです。6月18日の当ブログで、取り上げた「戦争を知らない子供たち」を歌った「ジローズ」の杉田二郎さんと同じ名前をペンネームにしたのは何故か、当時、長谷川和彦さんも理由をきいたのですが、相米さんは「ま、相米って名前は珍しいし……」とモゴモゴ言うだけで本当のところはわからなかったそうです。長谷川さんは、相米さんは学生運動をやっていたのでいろいろあったのだろうと推測しています。  (ジャッピー!編集長)